文書と写真・地図による「記憶」の再現

光明寺 その4



西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その4 2009年12月9日訪問

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光明寺 勅使門

 法然上人袈裟掛之松の西側には法然上人の石棺が残されている。光明寺の項で、叡山の衆徒の襲撃より法然上人の遺骸を護るため吉水から移したことに触れた。安貞元年(1227)6月22日の墓堂破却以前に遺骸は嵯峨に移されたが、ここも安全でないため同月28日にさらに太秦の広隆寺来迎院の圓空に託されている。太秦大映通り商店街の途中、三吉稲荷神社から南に入った右手に西光寺がある。圓空はこの地で上人の遺骸を七ヶ月間護ったとされている。

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光明寺 法然上人の石棺
古墳時代の石棺と推定されている
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光明寺

 そして法然17回忌の日、すなわち安貞2年(1228)正月25日、粟生野幸阿のもとで荼毘に付されている。法然上人絵伝では、時に紫雲空に満ち、異香薫じ、紫雲は荼毘所の西の松にかかり、この松を紫雲と名付けて今にあり。荼毘所の跡には墓堂を建てたとある。
 また光明寺絵縁起では、来迎坊にあった法然の棺が安貞2年(1228)正月20日の夜に光明を放ち、午未(南から南南西にかけて)の方向を指したとしている。翌日円空は粟生野の幸阿を訪ねたところ、幸阿も奇瑞の霊光を拝したという。門弟集まって相談した結果、念仏三昧寺の仏殿前に付した。

今度霊光此所にをよひ、終の御住所としめし給ふと覚たり、いつくはありとも当山にしくはあらしとて 芳骨を収奉り、上に石塔を安し 雨露をさへきるためにとて、廟堂を造立せられにけり

 現存する光明寺絵縁起は文化13年(1816)浄円房真月の撰文であるが、白慧の著した「三州名跡志」にも、ほぼ同様の縁起が記されている。三州名跡志の刊行は正徳元年(1711)とされているから、浄円の光明寺絵縁起より古い言い伝えを記したこととなる。

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光明寺 御影堂と庫裏をつなぐ石段
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光明寺 御影堂と庫裏をつなぐ石段

 その後に御影堂を建立し、法然が配流の途中船中でつくった禎像(張子の御影)と愛用の法具18物を安置した。重要文化財に指定されている二河白道図もその一つであった。
 光明寺絵縁起には、この瑞光が四条天皇の聴に達し、光明寺の勅額が下賜され、熊谷蓮生が法然を開山として開創した念仏三昧寺を光明寺に改名したとしている。四条天皇の在位は貞永元年(1232)から仁治3年(1242)で、仁治3年(1242)正月9日に不慮の事故が原因で崩御されている。享年12。初めは父である後堀河上皇が院政を敷き、2年後に上皇が崩御すると外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上の政務を行っていたとされている。この勅額も自らの意思で下賜したものとは考え難い。いずれにしても安貞2年(1228)の荼毘から数年経た後に下賜されたものと思われる。光明寺の名称は鎌倉時代後期に成立していた法然上人絵伝に「いまの光明寺」と記されていることから、鎌倉時代より光明寺の名称が存在していたことが確認できる。
 阿弥陀堂前に置かれた石棺は、古墳出土の組合式石棺で、本廟の碑塔および台石も古墳出土の石棺を利用したものと考古学的には考えられている。

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光明寺 鎮守社
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光明寺 茂右衛門屋敷跡の碑
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光明寺 駒札

 女人坂から御影堂を結ぶ参道の南側には鐘楼と法然上人像がある。鐘楼は江戸時代初期の明暦3年(1657)の建物であるが、現在の梵鐘は1949年に鋳造されている。法然上人立教開宗の像は1982年に生誕850年を記念して建立された銅像で、高さ2.4メートルの台座の上に同じく2.4メートルの像が造られている。像の名称が立教開宗とあるように承安5年(1175)に、粟生の里に再び訪れ専修念仏の最初の教えを説かれたときの姿を現している。

 安永9年(1780)に刊行された都名所図会に光明寺の縁起が掲載されている。都名所図会は秋里籬島によって書かれた地誌である。白慧の三州名跡志と浄円房真月の光明寺絵縁起の中間の時期に刊行されている。内容的には三州名跡志と同じと見てよいだろう。この他に境内の様子が分かる図会が掲載されている。この図会は、現在総門の脇に掲示されている説明図より地形が分かりやすいように思う。光明寺の境内は総門から一様に傾斜がかかっているように見えるが、実際には女人坂は上り勾配の参道だが、その南側のもみじ参道は平坦な参道である。すなわち、阿弥陀堂、御影堂、釈迦堂そして大書院・小書院と北から堂宇がほぼ直線状に並ぶが、それぞれの建物が建てられた地盤面の高さが異なっている。阿弥陀堂と御影堂は同じ平面に築かれ、釈迦堂は御影堂からかなり下った場所に、そして大書院・小書院は一番低い総門と同じ高さに建てられている。今回は堂宇内の拝観ができなかったが、恐らく堂宇をつなぐ回廊の高低差で認識できるのであろう。そのため御影堂前の境内と大書院や庫裏のある場所を結ぶために急な階段が設けられている。

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光明寺 勅使門
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光明寺
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光明寺

 阿弥陀堂と御影堂の西側の高所には勢至堂と本廟が立てられている。長くて急な石段でつながっているため、かなりの高所に建てられているようだ。この二つの堂宇の他に納骨堂、善恵・浄音搭そして蓮生塔がある。本廟は江戸時代初期、明暦2年(1656)の建物、禅宗様で正面1間、側背面2間の宝形造檜皮葺の方形堂、組物に多くの彫刻、壁には、飛天女、雲、蓮の花など極彩色壁画が描かれているようだ。その前面に建てられた本廟拝殿は、本廟より古く承応2年(1653)改築と山内で最も古い建物となっている。桁行3間梁行2間、前拝1間、後拝廊2間、一重入母屋造の檜皮葺。法然火葬跡の灰と土を固めて造られたという五重の石塔が祀られている。

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光明寺 庫裏
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光明寺 中央が法然上人が荼毘に付された場所

 先の御影堂と庫裏をつなぐ石段を下りた正面に法然上人荼毘跡が残されている。小さいながらも基壇が築かれ、周囲より一段高くなった場所に石像が祀られている。どういうことか、この場所の撮影を忘れていたようで、写真を探しても見つからなかった。荼毘所の裏側には勅使門が高台に築かれている。前後唐破風付の四脚門で檜皮葺、万延元年(1860)と幕末に建立されたようだ。石段の左手には鎮守社と茂右衛門屋敷跡の碑が並ぶ。

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光明寺 もみじ参道
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光明寺

 建久9年(1198)熊谷蓮生が開創した念仏三昧寺は、蓮生が元久2年(1205)に熊谷に戻る際に幸阿に託されている。そして安貞2年(1228)に、この地で法然は荼毘に付されている。幸阿の後は三鈷寺に住して西山派の祖となった証空が護持している。次いで源光尊西を経て、証空の門弟で西谷派の祖・法興浄音に引き継がれた。証空より浄土教を学んだ浄音は仁和寺西谷に新光明寺を開き、永観堂禅林寺の住持に就任している。西山派は鎌倉時代京都を中心に栄えたため、光明寺はその一拠点をなした。しかし南北朝時代から室町時代の光明寺に関する史料が少ないのは、兵火などによって荒廃していたためと考えられている。戦国時代の末期の永禄6年(1563)には、住持の顕空登順の再興の労を褒して、正親町天皇より「法然上人の遺廟光明寺は浄土門根元地と謂つ可し」との綸旨を頂く。これが総門前にある浄土門根元地の称の始まりとなる。翌永禄7年(1564)室町幕府によって再興が許可され、境内の山林竹木など安堵されている。
 その後、天正期(1573~92)に兵火を受けたが、江戸時代に入り光明寺第32世の倍山俊意のもとで本廟以下寺観の整備がなされた。このため倍山俊意は光明寺の中興の祖とされている。江戸時代の朱印地は友岡村内に30石。享保19年(1734)にも主要伽藍を失う火災に遭い、御影堂を宝暦3年(1753)、阿弥陀堂を寛政11年(1799)、総門を天保16年(1845)、勧化所を安政2年(1855)そして勅使門を万延元年(1860)に再建している。

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光明寺 薬医門
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光明寺

 安永9年(1780)に刊行された都名所図会に残されている図会には、御影堂の北側には阿弥陀堂が描かれておらず、現在の経蔵のあたりに小規模な阿弥陀堂が建てられている。御影堂の前には紫雲松が描かれている。光明寺の説明の最後に下記のように記されている。

当寺の本堂は近代の建立なり、恰好比類なし、後代造立の規矩とす

 釈迦堂には築地塀があるものの勅使門もなく、石段を上るとそのまま釈迦堂の白砂の敷き詰めた前庭となっている。図会には総門も描かれておらず、門前には小川が流れ石橋がかけられている。現地では気づかなかったが、地図を見るとかつての小川の痕跡が見える。閻魔堂の位置も現在とは異なり、閻地院側にあったようだ。

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光明寺 境内図
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光明寺 境内図


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「光明寺 その4」 の地図


大きな地図



光明寺 その4 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  光明寺 寺号標 34.9389 135.6793
02  光明寺 浄土門根元地の碑 34.9388 135.6782
03  光明寺 総門 34.9387 135.678
04  光明寺 閻魔堂 34.9386 135.6779
05  光明寺 東行逆馬の碑 34.9387 135.6778
06  光明寺 女人坂 34.9386 135.6769
07  光明寺 観音堂 34.9385 135.6759
08  光明寺 経堂 34.9386 135.6758
09  光明寺 勧化所 34.9386 135.6756
10  光明寺 法然上人袈裟掛之松 34.9385 135.6758
11  光明寺 鐘楼 34.9383 135.6757
12  光明寺 立教開宗像 34.9383 135.6755
13  光明寺 円光大師石棺 34.9386 135.6754
14  光明寺 本堂 34.9384 135.6751
15  光明寺 阿弥陀堂 34.9387 135.6749
16   光明寺 位牌堂 34.9387 135.6747
17   光明寺 勢至堂 34.9385 135.6744
18   光明寺 御本廟 34.9384 135.6744
19   光明寺 釈迦堂 34.9379 135.6748
20   光明寺 大書院 34.9376 135.675
21   光明寺 小書院 34.9377 135.6747
22   光明寺 信楽庭 34.9379 135.675
23  光明寺 勅使門 34.9379 135.675
24   光明寺 表玄関 34.9378 135.6751
25  光明寺 庫裏 34.9376 135.6753
26   光明寺 法然上人火葬跡 34.9379 135.6752
27  光明寺 鎮守社 34.938 135.6753
28  光明寺 茂右衛門屋敷跡 34.938 135.6755
29  光明寺 薬医門 34.9382 135.6766
30  光明寺 もみじの参道 34.9385 135.6774

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コメント

  1. お帰り「来迎飛天像」 3年ぶりの再会喜ぶ

    「天王寺の天女様」として親しまれ、JR天王寺駅構内に設置されていた来迎飛天像が18日、3年ぶりに同駅構内に帰ってきた。除幕式には多くの通行人が足を止め、ベールが取られて姿があらわになると「久しぶりやわ~」と再会を喜んだ。

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