アーカイブ:2012年
大徳寺 塔頭 その13
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その13 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 正受院 大徳寺の発展の歴史に沿って、その塔頭の成立について、大徳寺の塔頭 その2から大徳寺の塔頭 その12まで、長々と書いてきた。最後に、江戸時代から明治初年にかけて大徳寺塔頭の変遷について纏めてみる。 江戸時代に入り、元和元年(1615)大徳寺は徳川家康より2011石の御朱印を得ている。この石高は南禅寺、相国寺、東福寺、妙心寺などの京都の本山寺院の中でも最高額であった。この年の7月に大徳寺領諸塔頭配分支配目録を金地院以心崇伝及び京都所司代板倉勝重に提出している。これによると大徳寺領が1268石7… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その12
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その12 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 雲林院 2011年6月18日撮影 大徳寺の歴史は、開祖宗峰妙超が洛北の紫野に大徳庵を結び移り住んだことに始まるとされている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」によると、これは34歳の正和4年(1315)のことであったとされている。また臨済禅 黄檗禅 公式サイトも、この正和4年(1315)を開創の年次としている。宗峰自筆の敷地証文案より元亨4年(1324)5月には大徳寺敷地として「雲林院辺菩提講東塔中北寄弐拾丈」の地の寄付を得ていたことが確認されている。またWikip… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その11
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その11 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 龍翔寺 総見院の東を南北に船岡東通が通る。この船岡東通の西側にはかつて天瑞寺があったことは、大徳寺の塔頭 その5でも触れている。この場所には現在、龍翔寺が建てられている。 明治11年(1878)3月11日に、第471世牧宗宗壽と塔頭総代の玉林院住職能見山宗竺が京都府知事槇村正直宛に「合併切縮之儀ニ付御伺」を提出している。大徳寺塔頭の推移については改めて項を起こして記すつもりだが、この時に塔頭13ヶ寺の合併、4ヶ寺の切縮、残りの20ヶ寺を永続塔頭としている。「合併切縮之儀ニ付御伺」に附けられた「別紙… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その10
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その10 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 孤篷庵 北派の塔頭その4に引き続き、北派の最後の塔頭までを記してゆく。 龍光院は筑前福岡藩主黒田長政が父黒田孝高の菩提を弔うために、玉林院の南に創建した塔頭。開山は第156世江月宗玩であるが、師である三玄院の春屋宗園を開祖に勧請し、自らは第2世となっている。創建年次は慶長11年(1606)と慶長13年(1608)の2つの説がある。 黒田孝高は通称の官兵衛あるいは出家後の号である如水の方が有名な豊臣秀吉の側近として仕えた戦国武将である。関ケ原の戦いにおいては、当主の長政が豊臣恩顧の大名を多く家康方… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その9
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その9 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 芳春院 北派の塔頭その3に引き続き、北派の2つの塔頭を記す。 第142世月岑宗印は慶長8年(1603)に高桐院の南隣に正琳院を創建している。月岑宗印は、高桐院の開祖である玉甫紹琮と同じく、総見院を開創し天正寺の建立を手がけた古渓宗陳の法嗣である。第111世で三玄院の開祖である春屋宗園は、玉林院の塔頭開きを祝って贈った賀頌に、 「正琳禅院は養安老人が創建の地であり、多くの年月を経ずして立派な建築が竣工した」 と意味が記されている。 この養安老人は曲直瀬養安院法印正琳であり、正親町天皇、後陽成… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その8
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その8 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 三玄院 北派の塔頭その2に引き続き、さらに北派の塔頭について記してゆく。 大徳寺 塔頭 三玄院 三玄院は第111世春屋宗園を開祖とし、石田三成、浅野幸長、森忠政等が檀越となり創建されている。創建年次については、天正14年(1586)や天正年間(1573~92)とする説もあるようだが、京都市の駒札に明記されている天正17年(1589)が一般的な説となっている。創建時の位置は龍翔寺の西隣で大徳寺と龍翔寺の買い取ったことが「大徳寺西之林充状」と「龍翔寺西之林充状」が高桐院文書として残っている。これ… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その7
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その7 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 聚光院 北派の塔頭その1に引き続き北派の塔頭について記してゆく。 大徳寺 塔頭 聚光院 聚光院は第107世笑嶺宗訢を開山として永禄9年(1566)三好長慶(法号 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門)の墓所として創建されている。弘治3年(1557)三好元長の菩提を弔うために、第90世大林宗套を開山として迎えて南宗寺を開創した三好長慶は永禄7年(1564)7月4日居城の飯盛山城で病死している。享年43。聚光院の開基は長慶の甥で養子の義継であった。長慶の死後を継いだ義継が若年であったため… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その6
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その6 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 大仙院 ここより北派の塔頭について記してゆく。 先にも触れたように、第56世實傳宗眞のもとからは、南派の開祖となる第72世東溪宗牧とともに、北派の古嶽宗亘を輩出している。古嶽宗亘は寛正6年(1456)近江蒲生郡の佐々木氏に生まれている。初めは近江岩間寺(真言宗醍醐派の正法寺)の義済に投じ、ついで建仁寺の塔頭瑞光庵の喜足和尚に師事する。しかし23歳の時、喜足和尚より大灯国師の存在を教わり、五山を出て大徳寺第40世春浦宗熈に参ずる。しかし久しく悟りに至らず、宗熈寂後は如意庵の實傳宗眞に謁し、20年に及… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その5
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その5 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 黄梅院 撮影2008年11月22日 東溪宗牧の法孫である第91世徹岫宗九の龍峯院、第93世清菴宗胃の正受院そして第94世天啓宗歅の玉雲軒以降の南派を見てゆく。 大徳寺 塔頭 黄梅院 黄梅院は、第91世で瑞峯院の開祖となった徹岫宗九の法嗣である第98世春林宗俶が創立した庵居の黄梅庵が前身となっている。黄梅庵の地には、第87世休翁宗萬の塔頭龍福院があったが、宗萬の法嗣の第92世玉堂宗條が寂した永禄4年(1561)以降に後継者を欠いたため、本院である龍源院に寄進されていた。宗俶がこの… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その4
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 龍源院 撮影2008年5月19日 22世 26世 40世 56世 華叟宗曇 -- 養叟宗頤 - 春浦宗熈 -- 實傳宗眞 ※ | | | | | | | | 70世 | 47世 72世 | | 76世 龍泉庵が第40世春浦宗熈の法嗣である第70世陽… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その3
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 真珠庵 享徳2年(1453)8月4日夜、大徳寺山内の諸堂が焼失している。「東海一休和尚年譜」によると大徳寺第38世惟三宗叔の開堂を記した後、下記のように書き残している。 七月、鬱攸崇を為す、鐘魚索然、惟だ浴堂、門廡及び如意大用僅かに存す。 このように浴堂と山門の庇、妙意庵と大用庵以外はことごとくを失っている。第26世で大用庵を開創した養叟宗頤は、大徳寺再興に着手している。まもなくして法堂と方丈がなる。そして大用庵の建物を移し、雲門庵を再建している。被災5年後の康正3年(1457)宗頤は、… ►続きを読む
大徳寺 塔頭 その2
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 寸松庵・梅巌庵趾の建つ参道 大徳寺の塔頭 孤篷庵の前の道を東に進み、大徳寺の主要伽藍のある場所に向かう。この道沿いには、かつて大徳寺に存在していたが、現在失われた5つの塔頭の址を示す碑が建つ。寸松庵・梅巌庵趾の碑は、孤篷庵の向かいにある京都府立盲学校幼少中等部の敷地の東南隅に建てられている。寸松庵は、元和7年(1621)龍光院の江月宗玩を開祖に佐久間実勝が創建した塔頭である。梅巌庵は大徳寺第169世天祐紹杲を開祖とした塔頭。寛永20年(1643)友松宗祐が父梅巌紹薫のために寸松庵の西に創建。大光院趾… ►続きを読む
大徳寺 黄梅院 その2
大徳寺 黄梅院(おうばいいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 黄梅院 前庭と玄関、庫裏 本日の大徳寺の塔頭への訪問の最後となる黄梅院へと向かう。 黄梅院は第98世春林宗俶が創立した黄梅庵が前身となっている。この地にはもと第87世休翁宗萬の塔頭龍福院があった。休翁は龍泉派の第79世悦溪宗忢の法嗣であり、天文3年(1534)64歳で寂している。休翁の法嗣である第92世玉堂宗條が永禄4年(1561)に82歳で寂すると、後継者がいなくなり永禄5年(1562)8月に本院である龍源院に寄進されている。黄梅院文書に残されている龍源院納所請取所によると、龍源門下で瑞峯派の春林… ►続きを読む
大徳寺 興臨院 その4
大徳寺 興臨院(こうりんいん)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 興臨院 北庭 興臨院は大徳寺の山門の西に位置する。東面する平唐門とその先の玄関の唐破風屋根は、ほぼ東西軸上にある。玄関の北側には本堂があり、ここまでの表門、玄関そして本堂が創建時の建物とされ重要文化財に指定されている。なお本堂東側の庫裏は後世に再建されている。慶長2年(1597)の校割帳により、創建時は本堂と庫裏で構成されていたことが分かる。ここには本堂と庫裏の諸室とその大きさ(畳数)が記されている。本堂:真前 客殿 礼間(12) 檀那間(12) 書院(眠蔵長床とも13) 小座敷(6.5) … ►続きを読む
大徳寺 興臨院 その3
大徳寺 興臨院(こうりんいん)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 興臨院 方丈南庭 芳春院の長い参道を歩き、再び大徳寺の庫裏と法堂に戻る。この後は春と秋に特別公開を行なっている興臨院と黄梅院を訪問するため、勅使門まで南に下る。 大徳寺 興臨院 山門 2008年5月19日撮影 大徳寺 興臨院 庫裏と玄関へと続く参道 興臨院は2008年5月に訪問して以来、昨年の秋にも訪問しているので、3回目の訪問となる。同じ時期ではあるものの、昨年より一層紅葉が美しいので非常に楽しみである。 大徳寺 興臨院 方丈玄関 大徳寺 興臨院 方丈南庭 大徳寺 興臨院 方丈南庭… ►続きを読む
大徳寺 芳春院 その2
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 芳春院 呑湖閣 芳春院の本堂南庭は花岸庭と呼ばれる新しい庭。松子が好んだとされる桔梗の花が一面に生い茂る庭を1989年に中根金作が禅宗の南庭の様式を守り、なおかつ、どことなく女性的な雰囲気を漂わせる美しく優しい庭に改めている。白砂を敷き詰めた方形の庭の奥に苔地と石組みを築くことは、南禅寺本坊庭園などと同じ手法である。単に自然の雄大さを表現すると白砂の大海に対して陸地を表わす苔地の曲線が単調なものとなってしまう。二次元的には小さな入り江状の部分を何箇所か設け、苔地全体に緩やかな三次元的な動きを与えることで女性的な… ►続きを読む
大徳寺 芳春院
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん) 2009年11月29日訪問 大徳寺 芳春院 花岸庭 総見院を出て東隣りに並ぶ聚光院の前を過ぎると、目の前に大徳寺の庫裏と法堂が現れる。ここで左に曲がると大仙院と真珠庵へ続く道となっているが、今回は大仙院の方丈屋根が見えたところで曲がらずに、そのまま北に進む。ほどなくして芳春院の山門が現れる。芳春院は大徳寺の境内で最も北に位置する塔頭で、通常は非公開であるが、今回は秋の特別公開を利用して拝観する。 大徳寺 芳春院 山門 大徳寺 芳春院 参道 慶長13年(1608)加賀百万石の祖・前田利家の夫人まつが玉室宗珀を開祖として建立した塔頭。松子の法… ►続きを読む
大徳寺 総見院 その2
大徳寺 総見院(そうけんいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 総見院 本堂と茶筅塚 孤篷庵の前の見事な石畳を歩き、今宮門前通を越えると、いよいよ大徳寺の境内という気分になる。水上勉は「日本名建築写真選集 12 大徳寺」(新潮社 1992年刊)に寄稿したエッセイ「純禅の道 大徳寺随想」でも下記のように記している。 この孤篷庵へののぼる石畳の道はほかの塔所より、距離がながいこともあって美しい。私の育った紫野中学校(現・紫野高校)の校舎の横のなるい勾配の坂道である。 龍翔寺の山門前を過ぎると、近衛家廟所の周囲に調和していない石積みの塀が見える。その先に総見院の山門が現れ… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵 その4
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 延段 大徳寺 孤篷庵で、小堀政一と春屋宗園や江月宗玩との関係について書いてみた。また、大徳寺 孤篷庵その2、大徳寺 孤篷庵その3で政一の仕事の中の建築と作庭を中心に眺めてきた。比較的長く書いてみたものの、茶の湯については触れていないので、遠州芸術の全体像を紹介することにはならない。それでも寛永文化を代表する人物の一人であり、遠州好みを生み出す背景となったものの一端が伺えるものとなった。 大徳寺 孤篷庵 境内 ここでは、非公開となっている孤篷庵の建築について資料等を参照しながら書いてみる。 大徳寺 孤… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵 その3
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 石橋 大徳寺 孤篷庵その2に続き、二条城への行幸以降の小堀遠州の後期の仕事を年代順に見ていく。二条城行幸を無事に終えた寛永3年(1626)小堀政一は大阪城再建の現場に再び戻り、天守並びに本丸御殿の作事に従事している。そして寛永4年(1627)より仙洞女院御所の作事を手がけている。慶長18年(1613)幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図る目的で、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定め、さらに慶長20年(1615)に禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫… ►続きを読む