常寂光寺 その2
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その2 2009年12月20日訪問
常寂光寺に引き続き、公式HPの寺歴に従うと、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築し本堂としたとある。これは第二世通明院日韶上人の代のことであり、この桃山城とは伏見城のことである。江戸期の文献や資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の常寂光寺の図絵から、江戸時代中期の本堂の屋根形状が分かる。なお現在の平瓦葺きの屋根は、昭和7年(1932)の大修理の時に改修されている。建立の年代は慶長年間とされている。 小早川秀秋は関ヶ原の戦いの後ほどない慶長7年(1602)10月18日に早世しているので、常寂光寺の記述が正しいならば、慶長年間の早い時期に本堂の移築が行われたこととなる。
文禄3年(1594)頃より建設を始めた指月伏見城は、文禄5年(1596)7月12日深夜から翌13日に発生した慶長伏見地震で壊滅的な状況になっている。豊臣秀吉は、新たな居城とするため同月15日より木幡山に於いて伏見城の作事に着手している。そして10月10日には本丸を完成させている。恐らく指月伏見城の建設資材を転用したことにより、このような短期間での建設が可能となったのであろう。
秀吉によって新築された指月伏見城も慶長5年(1600)8月1日に小早川秀秋・島津義弘による伏見城の戦いで主要な建築物を焼失している。関ヶ原の戦いの後、今度は徳川家康によって伏見城の再建が行われる。慶長7年(1602)6月に藤堂高虎が普請奉行に任命され、同年末にはほぼ完成を見ている。しかし小早川秀秋は既にこの世にいないので、慶長伏見地震に被災した指月伏見城の建物あるいは伏見城の戦いに焼失を免れた建物が常寂光寺に移されたことになる。つまり上記の寺歴を信じるならば、豊臣家によって建設された伏見城の遺構を移したと考えられる。しかし聚楽第、伏見城の遺構が時々現れるが、建築的な確証が得られるものは極々少なく、その大部分が伝承の域を脱していないのが現実である。
元和2年(1616)に貞和年間(1345~50)に建立された本圀寺客殿の南門を仁王門として移している。現在の本圀寺は山科区御陵大岩にあるが、これは戦後に移転したもので元の寺地は西本願寺の北側にあった。なお天正19年(1591)に西本願寺が造立される際、本圀寺は境内の南側二町を割除されている。常寂光寺に移転された客殿南門はその割除後の境内地、すなわち五条通の南、猪熊通辺りに建てられていたものと思われる。仁王像は福井県小浜の日蓮宗寺院長源寺から移されたもので運慶作とされている。
元和6年(1620)8月、辻藤兵衛尉直信の寄進による多宝塔が建立する。辻藤兵衛尉直信は京都町衆で日奥上人の実家とされている。棟札には大檀家として辻藤兵衛尉直信、棟梁には藤原岡田仁助宗直、藤原沢村若狭守宗久とある。方三間、重層、宝形造檜皮葺の多宝塔は境内の後方、やや小高い地点に建つ。総高約12メートル余とあまり高さは無いものの、均整のとれた美しい姿は嵯峨野のひとつの風景となっている。多宝塔は常寂光寺塔婆として大正4年(1915)国の重要文化財に指定されている。
寛永18年(1641)第四世光照院日選上人によって鐘楼が建立される。梵鐘は第二次世界大戦中の金属徴収にあったため、昭和48年(1973)青木一郎博士により古律黄鐘調の新鐘として鋳造さている。
正徳5年(1715)霊元上皇より多宝塔に「並尊閣」の勅額、本堂には伏見常照院宮御筆蹟にて「御祈祷処」の扁額を賜る。享和年間(1801~1804)には妙見堂を建立し、洛陽十二支妙見の酉の妙見に数えられる。妙見堂の本尊の妙見菩薩は慶長年間(1596~1610)の保津川洪水の際、上流から流れ着いた妙見菩薩御像を角倉町の船頭が拾い、永い間同町の集会所で祀られてきた。第22世日報上人が境内に遷座している。堂内には妙見菩薩の他に日禎上人開眼の鬼子母神と十羅刹女、大黒天像が合祀される。
太い角材を格子に組んで造られた山門は江戸後期に建替えられたもので、上記の都名所図会にも袖に土塀をめぐらした薬医門が描かれている。閉門しても墨色に塗られた角柱の格子の隙間から参道が見える仕組みになっている。
常寂光寺開山時に創建以前よりあった小祠・歌僊祠を山上に移転している。これは寺の庫裏を定家卿の祠より上の場所に建設することは恐れ多いという理由からであった。明治23年(1890)に現在の大きさの祠に改築している。この時、富岡鉄斎によって扁額が作られている。さらに平成6年(1994)に改修を施し、藤原定家と家隆の座像を奉祀する。
平成16年(2004)開山堂を建立し、江戸時代作の日禎像を安置する。平成18年(2006)妙見堂の屋根瓦を葺き替え、格天井の修復を行う。
常寂光寺の黒く武骨な印象を与える山門の脇に石碑が建つ。向かって左側に「勅願所」の碑、そして右側に「小倉山常寂光寺」という山号寺号を記したもの、「史蹟及名勝嵐山指定地」そして「歴史的風土特別保存地区」と京都市の常寂光寺の駒札が建てられている。嵐山は大正8年(1919)に公布された史蹟名勝天然紀念物保存法により昭和2年(1928)に史蹟および名勝に指定されている。この法律は昭和25年(1950)の文化保護法の記念物(史跡・名勝・天然記念物)によって受け継がれている。2014年現在、国指定の史跡名勝天然記念物は京都府内に133件ある。嵐山は戦前と同じく史跡と名勝で登録されているが、特別史跡と特別名勝を含めても、2つの種別を備えているものは、笠置山を除くと鹿苑寺庭園、慈照寺庭園、大仙院書院庭園、龍安寺方丈庭園などの庭園が指定されている。また、歴史的風土特別保存地区は「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」によって、自治体が指定した歴史的風土保存区域内の地区である。京都府京都市では、醍醐、桃山、東山、山科、上高野、大原、鞍馬、上賀茂松ヶ崎、西賀茂、御室・衣笠、高雄・愛宕、嵯峨野嵐山、桂の14区域が指定され、嵯峨野嵐山は嵯峨野、曼荼羅山、小倉山、嵐山の4地区に分かれている。嵐山地区は約180ヘクタールが指定されている。
山門を潜ると、正面に柔らかな藁葺き屋根の仁王門が現れる。仁王像は2間奥行の門の奥側に祀られている。仁王像は目と足腰の病にご利益があるとされ、像の手前には病気平癒を祈願するため草鞋が奉納されている。仁王門を過ぎると石段が始まり、その先に本堂が庫裏と並び建つ。本堂の西側には斜面を利用した庭園が築かれ小さな池を設えている。本堂西側からはこの庭園越しに多宝塔を見上げる構図となっている。つまり山門、仁王門、石段、本堂そして多宝塔がほぼ東西軸上に配置されている。本堂左手の石段を上ると多宝塔のある高台に出る。多宝塔の北側には新しく開山堂が建てられている。この開山堂との間に常寂光寺で紹介した林屋辰三郎撰文の碑と墓地がある。
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