慈照寺
臨済宗相国寺派東山 慈照寺 その1(じしょうじ) 2008年05月17日訪問
法然院から再び哲学の道に戻り北に向かう。銀閣寺道に架かる銀閣寺橋で熊野若王子神社から始まった哲学の道が終わる。そして、この橋の傍らに哲学の道という碑が置かれている。西から来た今出川通は鹿ケ谷通と交わり、銀閣寺橋から東側は両側に土産物屋が並ぶ銀閣寺の参道となる。この参道を150メートルくらい進むと慈照寺の総門に達する。
一般に銀閣寺と呼ばれることも多いが、臨済宗相国寺派萬年山 相国寺の山外塔頭で山号は東山、寺号は慈照寺である。これは北山 鹿苑寺と同じ関係である。
この地は白川の清流が流れ、古くから流域に人が住みついていたと考えられている。縄文遺跡や奈良朝の北白川廃寺なども発見されている。平安時代に入ると北山と同じく、天皇の御陵や火葬場があり、菩提を供養する寺院も多くあった。
慈照寺の地にも平安時代中期に円珍が居住した浄土寺が創建されている。そして寛仁年間(1017~1020)の頃、醍醐天皇の孫にあたる天台座主第25世明求が堂宇を再興し浄土寺座主と称したと言われている。鎌倉時代に入り、天台宗第73世座主で延暦寺の門跡寺院・金剛寿院の主の円基が住するようになり、浄土寺は金剛寿院の配下となる。さらに足利時代となり、第6代将軍足利義教の第3子義躬が浄土寺において出家し、義尋と号して門主となる。しかし後に兄である義政に呼び戻され、義視と称して将軍の後継者となる。これが応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))を引き起こす原因となり、この乱の兵火により浄土寺は跡形もなく焼失してしまう。現在でも法然院より北、今出川通の南そして吉田山の西側の地域に浄土寺という地名が残っている。
慈照寺の総門の前を北に入っていくと八神社の境内につながる。この神社の創建年代は明らかではないが、大同年間(806~810)頃、あるいは延喜年間(901~923)に建てられたとされている。かつては八所大明神あるいは十禅師大明神と呼ばれ、浄土寺や慈照寺の鎮守として、またこの地の産土神として広く崇敬を集めている。
応仁の乱の後に、この焦土となった浄土寺とその墓地の上に地に東山殿を築いたのは第8代将軍足利義政であった。どうして義政がこの地を選んだかを考える前に、どのような人物であったかから見ていく。
足利義政は永享8年(1436)第6代将軍義教の三男として生まれる。嘉吉元年(1441)父の義教が赤松満祐に殺された(嘉吉の乱)後、将軍職は兄の足利義勝が継いでいる。しかし嘉吉3年(1443)第7代将軍も早世すると、義政は8歳で将軍職に選出される。管領の畠山持国などの後見を得て、元服を迎えた宝徳元年(1449)に正式に第8代将軍として就任する。
当初の義政は祖父・義満や父・義教の政策を復活させようと試みている。守護大名勢力に対抗できるように政所執事を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする側近集団の基盤を強固なものとし、将軍の親裁権強化を図ろうとしている。しかし烏丸資任・有馬持家や日野富子の実家の日野家あるいは有力な守護大名等の政治介入が増加し、将軍として政治の主導権を握ることは困難を極めた。やがて、守護大名達との対立の中で、義政は次第に政治への関心を失っていく。長禄3年(1459)頃から始まった飢餓は、寛正2年(1461)に大飢饉(寛正の大飢饉)を迎える。京都にも大きな被害をもたらし、時宗の僧・願阿弥は、寛正元年(1460)の2ヶ月間で京では8,2000人の餓死者を葬ったとも言われている。このような世情で、義政は邸宅造営などの土木事業や猿楽、酒宴に溺れていた。寛正の飢饉の間も意に介さず、花の御所の改築を行っている。長禄寛正記では後花園天皇が義政に漢詩を以って戒めたとされている。
さらに混乱を大きくしたのは義政の後継者問題であった。
義政は寛正5年(1464)隠居を考え、浄土寺に入寺していた実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定する。これは正室・富子との間に嫡子が恵まれなかったためである。しかし寛正6年(1465)富子に男児が誕生すると事態は急変する。富子は実の子である義尚に将軍を継がせるため、政権の実力者であった山名宗全の協力を得る。一方の義視は管領の細川勝元と手を結ぶ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らなかった。自らの趣味に興じるだけに終始し、重要な決断を行わなかった。
文正の政変によって義政の側近は解体に追い込まれ、この時期義政は手足となる家臣を喪失している。これが政治への意欲を完全に失うことにつながる。そして斯波氏や畠山氏の家督相続問題が加わって、応仁元年(1467)遂に応仁の乱が起こる。
文明5年(1473)山名宗全と細川勝元が相次いで死去し、翌6年(1474)山名政豊と細川政元の間に和睦が成立する。その後も小競り合いが続くが文明9年(1477)大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束する。
義政は、このように応仁の乱が終結した文明14年(1482)より東山の月待山麓で応仁の乱で焼亡した浄土寺の地に東山殿の造営を始める。
宮元健次氏は著書「京都名庭を歩く」(光文社新書 2004年)では、西芳寺庭園の石組みや空間構成を模倣するだけでなく、西芳寺が無縁仏の亡骸を供養した穢土寺を義政は意識していたと考えている。その上で、夢窓疎石が行ったとように穢土寺と西方浄土を表現する西方寺とを組み合わせることで、ひとつの世界観を創り上げようとしたのであろう。そういう意味で宮元氏から見る義政は確信犯となる。
義政が造営に着手した当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊している。義政は庶民に臨時の税や労役を課して東山殿の造営を進めている。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられる。義政は工事開始の翌年である文明15年(1483)に移り住んでいる。東山殿には会所、常御所などの大規模な建物が建ち並ぶ。そして延徳2年(1490)銀閣の完成を待たずして義政は死去する。東山殿は遺命により、同年のうちに義政の菩提を弔う禅寺に改める。夢窓国師を勧請開山、寺号を義政の院号慈照院殿に因み当初慈照院と称し、相国寺の末寺として創始される。翌年には慈照寺と改名される。
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