落柿舎 その2
落柿舎(らくししゃ)その2 2009年12月20日訪問
有智子内親王墓の東隣に落柿舎がある。昨年訪れた時は素屋根が架けられ、敷地内に入ることも出来なかった。今年は工事も完了し拝観できる状況になっている。
落柿舎は、松尾芭蕉の弟子である向井去来の別荘として使用されていた草庵で、その名の謂れについては去来が著した「落柿舎ノ記」に記されている。この「落柿舎ノ記」は日本古典文学体系92巻に掲載されているが、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように掲載されている。
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。
五とせ六とせ経ぬれど、このみも持来らず代かゆるわざも
きかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、
若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、
屋敷もる人を常はいどみのゝしりけり。
ことし葉月の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより
商人の来り、立木にかい求めむと、一貫文さし出し
悦びかへりぬ。
予は猶そこにとゞまりけるに、ころくと屋根はしる音、
ひしくと庭につぶるゝ声、よすがら落もやまず、
明れば商人の見舞来たり、梢つくぐと打詠め、
我むかふ髪の頃より白髪生るまで、此事を業とし
侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず、
きのふの価かへしくれてむやと詫。
いと便なければゆるしやりぬ。此者のかへりに友どちの許へ
消息送るとて、みづから落柿舎の去来と書はじめけり。
柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山 去来
落柿舎の公式HPに掲載されている落柿舎についてによると、去来が落柿舎を営んでいたのは貞享4年(1687)以前のこととされている。そして芭蕉が初めて訪れたのが元禄2年(1689)であった。その後も元禄4年(1691)と元禄7年(1694)の2度訪れ、あわせて3回来庵したこととなる。特に元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで滞在したことは以下のように「嵯峨日誌」(「新編日本古典文学全集71巻 松尾芭蕉集2」(小学館 1997年刊))に記されている。
元禄四年辛未卯月十八日 嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に到。
凡兆共ニ来りて暮に及て京ニ帰る。
予ハ猶暫とゞむべき由にて、障子つゞくり、葎引かなぐり、
舎中の片隅一間なる処伏処ト定ム。机一・硯・文庫・白氏集・
本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置。
并唐の蒔絵書たる五重の器にさまぐの菓子ヲ盛、
名酒一壺盃を添たり。
夜るの衾・調菜の物共、京より持ち来りて乏しからず。
我貧賤を忘れて清閑ニ楽。
この後、芭蕉は翌19日に臨川寺、虚空蔵(法輪寺)、小督墓などを訪れ、5月2日には曽良と共に大堰川に舟を浮かべ嵐山を眺めているが、来訪者との懇談に多くの時間を割いていることが分かる。夜半まで語り続けたため、次の日もくたびれて一日中寝ていたなどと記された日も見られる。途中で木下長嘯子曰くとし、「客ハ半日の閑を得れバ、あるじハ半日の閑をうしなふ」という言葉を記している。
そして5月4日には以下のように記し、嵯峨日記を纏めている。
四日
宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。
明日は落柿舎を出んと名残をしかりけれバ、
奥・口の一間くを見廻りて、
五月雨や色帋へぎたる壁の跡
この後、再び元禄7年(1694)閏5月22日に落柿舎を訪れている。これが芭蕉にとって最後の訪問となる。この年の10月12日に大阪で病没している。
先にも引用した天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には下記のように落柿舎を説明している。
小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり、俳士落柿舎去来の
旧蹟なり。
(中略)
近年去来の支族俳士井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、
其傍に此句を石に鐫こゝに建てすまひし侍る
落柿舎にて五月雨や色紙まくれし壁のあと はせを
承和14年(847)有智子内親王が亡くなると墓の上に小祠が建てられ、姫明神として祀られた。これが訛って緋の明神、日裳明神と称され、ついには緋裳明神として檀林皇后の緋色の袴を埋めた地と誤伝されるようになった。有智子内親王と檀林皇后との間には血縁関係はなく、つまり内親王にとって皇后は父帝の妃であった。
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