文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2014年 7月

京都御所 その7

 

京都御所(きょうとごしょ)その7 2010年1月17日訪問 京都御所 建礼門  京都御所 その6では、御所の九門について記した。かつては御所とともに、その周囲に並ぶ公家町を守るために設けられた門であったが、明治に入り公家町が取り壊された後は京都御苑の門となった。そのためか、かつては御所の近くに設けられた蛤御門や清和院御門も、現在では全て四周を取り囲む今出川通、烏丸通、丸太町通そして寺町通に面する位置に移されている。この項では御所の築地塀に設けられた六門について書いてみる。これは、この後に記す甲子戦争すなわち禁門の変の際に、九門とともに位置関係が分からないと理解できなくなるためである。 平安京の内裏は二重の塀によって囲われていた。内側の塀を内裏内郭、外側を外郭と呼んだ。内郭にも外郭にも門が設け… ►続きを読む

 

京都御所 その6

 

京都御所(きょうとごしょ)その6 2010年1月17日訪問 京都御所 今出川御門  京都御所 その3、その4、そして その5を使って、平安京の内裏から幕末の御所までの変遷を書いてきた。御所の領域の拡大に伴い、仙洞御所あるいは女院御所の位置に影響を与え、御所を取り巻く公家町にも当然のことながら大きな変化を与えてきた。 京都御所 今出川御門  宝永5年(1708)3月8日に京都の三大大火のひとつである宝永大火が発生している。午の下刻に油小路通三条上ルより出火、南西の風に煽られ、内裏・仙洞・女院・東宮・中宮・女一宮などの御所が炎上している。また九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅や寺院そして多くの町屋を焼き尽している。その延焼範囲は、西は油小路通、北は今出川通、東は河原町通、南は錦小路通に及び、… ►続きを読む

 

京都御所 その5

 

京都御所(きょうとごしょ)その5 2010年1月17日訪問 京都御所 建礼門  京都御所 その4では、徳川幕府による慶長度造営から6回目となる宝永度造営までを記した。最初の慶長・元和度造営から2回目の寛永度造営までは、後水尾院と徳川幕府の間の政治的な駆け引きの中で行われた造営と考えてもよいだろう。この時期の内裏は、豊臣秀吉による天正度造営の内裏とほぼ同じ規模であったと考えられる。 この後、僅か20年の間に内裏は3度立て続けの火災に見舞われる。寛永19年(1642)の完成後10年余の承応2年(1653)6月23日に内裏は焼失している。3度目の承応度造営が承応3年(1654)3月12日の木作始によって開始し、明暦元年(1655)11月10日には後西天皇が新内裏に還幸されている。この承応度造営の内… ►続きを読む

 

京都御所 その4

 

京都御所(きょうとごしょ)その4 2010年1月17日訪問 京都御所 南西隅  京都御所 その3では、延暦13年(794)の平安京造営時の内裏から、安土桃山時代の内裏までの変遷について見てきた。内裏が火災などで焼失した際には、大内裏の官衙、京中の後院そして公家邸宅を仮御所として利用している。内裏は天徳4年(960)9月23日夜に炎上している。この時も内裏が再建されるまで仮御所が定められた。罹災と内裏再建を繰り返す中で、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとなり、平安京の里坊内に里内裏が生まれるようになっていく。 内裏の再建は平安時代の間は行われてきたが、鎌倉時代に入った安貞元年(1227)4月22日の類焼以降は行われることが無かったようだ。これは朝廷の権威の低下及び経済的な衰退によるものかもし… ►続きを読む

 

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