文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その6



京都御所(きょうとごしょ)その6 2010年1月17日訪問

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京都御所 今出川御門

 京都御所 その3その4、そして その5を使って、平安京の内裏から幕末の御所までの変遷を書いてきた。御所の領域の拡大に伴い、仙洞御所あるいは女院御所の位置に影響を与え、御所を取り巻く公家町にも当然のことながら大きな変化を与えてきた。

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京都御所 今出川御門

 宝永5年(1708)3月8日に京都の三大大火のひとつである宝永大火が発生している。午の下刻に油小路通三条上ルより出火、南西の風に煽られ、内裏・仙洞・女院・東宮・中宮・女一宮などの御所が炎上している。また九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅や寺院そして多くの町屋を焼き尽している。その延焼範囲は、西は油小路通、北は今出川通、東は河原町通、南は錦小路通に及び、上京を中心とした417町、10,351戸が灰燼に帰している。既に高台寺 その4新三本木の町並みでも触れた三本木町が新三本木町に移転したのもこの時のことである。つまり宝永大火以前は、烏丸通以東、丸太町通以北の数町に民家が存在しており、これらを鴨川東の二条川東に移転させたことで御所や公家屋敷の拡張を果たした。御所を取り巻く公家町の形成は、豊臣秀吉の京都の都市改造から始まり、徳川家康の朝廷政策に引き継がれている。しかし宝永大火後の宝永度造営と公家町の整備が幕末までの御所周辺の景観を作り出したといってもよいだろう。冷泉為人氏の「公家町の災害と防災-内裏(仙洞・大宮)御所をめぐって-」(立命館大学・神奈川大学21世紀COEプログラム ジョイント ワークショップ報告書 『歴史災害と都市 -京都・東京を中心に-』 2007年刊)によると、内裏拡張には防災上の要因もあったようだ。宝永大火以前の公家町には、元禄3年(1690)に組成された大名火消制度が存在したものの、本格的な消防体制が整ってなかったようだ。そのため、殿舎間の離間距離を確保することや瓦葺あるいは銅葺とすること、さらに築地の垂木を漆喰で塗り固めるなどの策が取られた。殿舎間の距離をとることは殿舎の規模を小さくすることで可能となる。しかし新道を通すことで火除地としての防火帯を作り、明屋敷地、明地、広小路などを設置して火除地として設けるようになると、公家町を含め築地之内を拡大が避けられなくなった。それでも寛文3年(1663)に院御所用地として二条家を、延宝元年(1673)には後西院御所造営のために頂法寺を鴨東に移転させている。

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京都御所 乾御門
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京都御所 乾御門

 上記の状況下で宝永大火が発生したことにより、公家町の再編が行われた。大火発生後の3日後には武家伝奏より各公家に、焼失した屋敷地に本格的な普請を始めることを禁ずる触が伝えられている。新たな公家町には下記のような変化が現われた。

・二階町、梨木町の道路の拡幅
・南門前の東西道路の直線化
・丸太町通まで築地之内の拡張
・築地之内の西端、南端に大規模な明地の設置
・内裏東側の南北路とその二筋東側の南北路の撤去
・内裏、院御所の拡張
・公家の屋敷地替え

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京都御所 中立売御門
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京都御所 中立売御門

 御所と公家町が、現在の京都御苑のような姿になったのは明治2年(1869)の明治天皇が東京に移ってからのことであった。冷泉家を除く大多数の公家は天皇とともに東京に移り住むこととなり、公家屋敷は住み手を失い荒廃が始まる。明治10年(1877)京都に還幸された明治天皇がこの状況を目にし、京都府に御所の保存と旧慣を維持する御沙汰を下している。京都府は、直ちに公家屋敷を撤去に取り掛かる。第2代府知事・槇村正直の時代のことである。外周に石垣土塁工事を施し、苑路を新たに作り、樹木植栽等の内裏保存事業を行っている。そして明治16年(1883)当初の予定より早くに完了している。御苑の管理は京都府から宮内省に引き継がれ、整備は継続される。ほぼ現在の京都御苑の姿が整ったのは、大正大礼のために建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われた大正4年(1915)のことであった。

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京都御所 蛤御門
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京都御所 蛤御門

 終戦後の昭和22年(1947)京都御苑は、新宿御苑や皇居外苑とともに、国民公園とすることが閣議決定され、昭和24年(1949)厚生省の管理運営のもとに、由緒ある沿革を尊重するとともに、国民庭園として広く国民に開放し利用することとなった。さらに昭和46年(1971)7月、環境庁が発足すると、国民公園の管理は自然保護行政とともに環境庁に移り、従来からの御所の前庭としての景観維持や都市公園的な役割に加え、大都市の中の広大な緑地としての自然環境を保全し、自然とのふれあいを推進していくという新たな役割が重視されるようになった。そのため現在、宮内庁の施設である京都御所、大宮御所と仙洞御所そして新たに作られた内閣府の施設である京都迎賓館を除く、京都御苑の管理は環境省が行っている。

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京都御所 下立売御門
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京都御所 下立売御門

 環境省が運営する京都御苑の公式HPに掲載されている京都御苑の地図は苑内の史跡を巡る上では非常に役に立つ。公式HPの公園紹介の概要によると、京都御苑には9箇所の御門と6箇所の切通しから入ることができるとある。京都御苑に残る御門は、北から反時計回りに、今出川御門、西に下立売御門・蛤御門・中立売御門・乾御門の4つ、南に堺町御門、東に寺町御門、清和院御門、石薬師御門の3つで計9つとなる。 切通しは、御苑の東北隅と今出川御門との間に今出川通に面した今出川口がある。東面の烏丸通沿いには、蛤御門と下立売通との間に出水口と下立売御門と烏丸通丸太町の交差点との間に椹木口の2箇所が設けられている。南面には堺町御門を挟んで西に間ノ町口と東に富小路口の2箇所が丸太町通に面している。東面は寺町御門、清和院御門、石薬師御門の3門が並ぶため切通しはない。そのため以上を合計すると切通しは5箇所となり、HPの説明とは一致しない。メールで京都御苑に問い合わせたところ、新椹木口があるという回答を得た。椹木口のすぐ南にあり、苑内はロータリー状になっている。ここから北上すると椹木口からの苑路につながる。またかつては高倉口が存在したが大正天皇即位大礼のために大正2年(1913)から翌年にかけての改修で廃止されたとのこと。

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京都御所 堺町御門
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京都御所 堺町御門

 9つの御門について、もう少し見て行く。伊東宗裕氏が構成した「別冊太陽 京都古地図散歩」(平凡社 No86 1994年夏刊)では、地図によって公家町の変遷を確認できる。この巻は正徳4年(1714)から享保6年(1721)の7年間の京都の状況を現わした「京都明細大絵図」を中心に、各地域毎に異なった時代の地図と比較することで、その変遷を明らかにしている。「京都明細大絵図」が作成されたのは、宝永大火のあった宝永5年(1708)より後で、大火後の復興状況を表わしたものと考えてよいだろう。御所を中心とした公家町は、北は今出川通、西は烏丸通、南は丸太町通、そして寺町通に囲まれた範囲に集住している。これと延宝度造営の後の姿を表わした「新改内裏之図」(延宝5年(1677))と比較すると、宝永大火による公家町の再編が明らかになる。

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京都御所 寺町御門
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京都御所 寺町御門

 先ず、丸太町通ではなく椹木町通より南側は町家となっていること。椹木町通は丸太町通の一本北側の東西路である。さらに現在の御苑の南東角において、椹木町通の北側は公家町ではなく武家町となっていること、そして南西隅は御所の南面まで町家が立ち並んでいた。これでは町家から発生した火事の類焼を受けてしまうので、確かに宝永年度造営で宮地全体が大きくそして整形に整備される必要性はあった。ちなみに「新改内裏之図」時点では公家町に築地内外を通行するための門も描かれている。現在の今出川御門と乾御門、中立売御門、堺町御門にあたる門が描かれ、堺町御門と思われる場所には黒門と記されている。この他にも御所の南西隅、仙洞御所の北西の二箇所にも門らしきものが描かれている。
 これに対して、宝永大火後の「京都明細大絵図」では公家町が丸太町通まで拡張されていること、烏丸通と丸太町通そして寺町通に面して各所に明地が確保され、築地外からの延焼を防ぐ試みがなされている。門は北面に今出川惣門、西面に乾御門、中立売惣門、新在家御門、下立売御門、南面に南惣門、東面に武家丁御門、東惣門、石薬師惣門と場所は異なるものの現在と同じ数の門が設置されていたことがこの地図より分かる。

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京都御所 清和院御門
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京都御所 清和院御門

 「京都明細大絵図」から凡そ150年経た幕末の公家町の様子を見てみる。日文研には文久3年(1863)秋に改正された「内裏圖」が収蔵されている。北より反時計回りに、今出川御門、乾御門、中立売御門、蛤御門、下立売御門、堺町御門、寺町御門、清和院御門、石薬師御門が描かれている。文久3年(1863)は八月十八日の政変があり、長州藩と七卿が都より追い落とされた年でもある。現在の九門と比較して、乾御門、蛤御門、下立売御門、堺町御門、清和院御門、石薬師御門が面する通りよりもかなり内側に門が設置されていること、蛤御門、清和院御門という御所が南面する東西路の入口に設けられた門が東西路に対して90度回転した方向に門を面している。 同時代の地図ではあるが、東京国立博物館の情報アーカイブには、文久4年(1864)に刊行された「京都公家町図」が収蔵されている。九門の位置等は前年の「内裏圖」と同じである。ただし下立売御門の東側の新御殿と記された場所が中川宮邸と改められている。また「別冊太陽 京都古地図散歩」には慶応2年(1866)の「内裏細見之図」が掲載されている。この地図には内裏東北角の大きな切り欠きが無くなり、矩形の内裏が描かれている。有栖川宮邸は御花畠の東側半分に移っている。 幕末の最終状況は、木村幸比古氏監修による「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊)が参考資料となるだろう。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」を基に、見開き頁の左頁に絵図、右頁には現在の地図を配置し、現状との比較を容易にしている。ただし絵図が小刻みに分割されているため、見辛いのが残念である。

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京都御所 石薬師御門
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京都御所 石薬師御門

 現在の九門は24時間開放されているため、もちろん閉庭時間はない。東西700メートル、南北1300メートルと広大な敷地であるため、苑路も一部生活道路と化している。

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京都御所 新椹木口

「京都御所 その6」 の地図


大きな地図



京都御所 その6 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  禁中北西 35.0252 135.7623
01  京都御苑 今出川御門 35.0289 135.7623
02  京都御苑 乾御門 35.0274 135.7596
03  京都御苑 中立売御門 35.025 135.7596
04  京都御苑 蛤御門 35.0231 135.7595
05  京都御苑 下立売御門 35.0194 135.7595
06  京都御苑 堺町御門 35.0177 135.7631
07  京都御苑 寺町御門 35.0199 135.7669
08  京都御苑 清和院御門 35.0232 135.7668
09  京都御苑 石薬師御門 35.0277 135.7667

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コメント

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