京都御苑 学習院跡
京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと) 2010年1月17日訪問
京都御所の建春門(日御門)の東側に学習院跡の木標が建っている。江戸時代末期に公家の子弟のための教育機関として開設された学習院学問所がかつてこの地にあったことを示している。7世紀後半の律令制のもとに大学寮が作られたている。しかし治承元年(1177)の安元の大火(太郎焼)で焼失すると以降再建されることは無かった。江戸時代後期に閑院宮出身の光格天皇が即位すると、朝廷の儀式の復旧に取り組み石清水社や賀茂社の臨時祭の復活を果たしている。さらに天皇は平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を考えていた。「孝明天皇紀 第一」(平安神宮 1967年刊)の弘化4年(1847)3月9日の「学習院成る是日開講式を行ふ」の条に引用されている以下の實久卿記(弘化2年11月27日の条)の一文よりも明白である。
弘化二年十一月廿七日甲申 午初刻参内今日両役可参集兼日殿下有命
未終刻両役各召御前御小座敷 殿下被候同公被仰伝 光格天皇御在世中 毎度堂上輩 孝悌忠信之儀御沙汰被為在 粗被心得候得共 中ニハ心得違ノ者有之 叡慮不安候得共 外ニ被遊方モ不被為有候 大学寮御再興之思召モ被為有候得共 大総ニモ有之可被追先蹝禮儀モ有之 格別叡慮ニテ 於開明門院旧地建春門外 被設講堂以下 壮弱之輩 孝悌忠信相心得候様 天気御治定之旨 各謹拝承了退御前 於八景間今伝奏三条大納言実萬 学頭奉行勘解由小路前中納言資善 新宰相東坊城聡長等被仰下旨殿下示給
さらに「孝明天皇紀」では、「武家伝奏記録」等によって開講までの経緯を説明している。弘化元年(1843)10月17日、宮中において所司代の牧野備前守に公家の子弟の教育施設の開設を申し入れている。これに対する幕府からの回答が得られなかったようで、再び翌年の弘化元年(1844)10月に確認を行ったところ、老中水野忠邦の許可が下りることとなる。上記の弘化2年(1845)11月27日付けで所司代酒井若狭守宛に学習所建設の達書を提出している。陰陽師・安倍晴雄が、学習所建設の方忌についての所存を広橋大納言に宛てた弘化3年(1846)2月1日付けの書簡が残されている。さらに同年6月23日に予定されていた地鎮祭は延期され、8月28日に執り行われている。そして弘化4年(1847)3月9日に開講を迎えている。つまり光格天皇が構想した学習所は、仁孝天皇によって幕府の承認を得て開明門院の旧地での建設が決定している。しかし天皇は弘化3年(1845)2月6日に崩御され、その竣工と開講は孝明天皇によって行われている。このように3代に及ぶ天皇の大学寮復活の想いが学習院として結実している。なお学習院学問所の記録を記す雑掌には、座田維貞、井上主税、稲波主膳が就いている。儒者で「国基」を著わした座田については、別の機会に詳しく調べてみようと考えている。
学習院の学則は以下のように定められている。
学則之事
履聖人之至道 崇皇国之懿風
不読聖経何以修身 不通国典何以養正
明弁之 務行之
聖教である漢籍を学ぶことで身を修め、国典である日本の古典に通じることで正道を養成することを務めて行うということである。つまり儒学を学ぶことで身を修め、さらに日本の国典を明らかにすることを通じて始めて正道が実践できるという趣旨である。ここでは武士の官学である儒教を否定せずに国学と並存させることで学問となることを強調している。佐竹朋子氏は「学習院学問所の果たした役割」(学習院大学人文科学研究所 2009年)の中で漢魂和魂を基礎としていると表現している。 しかし学則によって漢籍、国典並存であったにもかかわらず、弘化4年(1847)の開講から嘉永2年(1849)までは漢籍をテキストとする漢書会のみが開催されてきた。佐竹氏は上記の論文で、漢籍の習得が軌道に乗った後に和書会が開かれるようになったと考えている。「孝明天皇紀」の嘉永2年(1849)2月23日の条に「国書を学習院に講ぜしむ、尋で勅額を当院に賜ふ」とある。
嘉永2年(1849)より漢書会と和書会が行われるようになるが、開催回数には隔たりがあったようだ。すなわち嘉永2年時点で、漢書会は毎月9の付く日(9日、19日、29日)の月3回に対して、和書会は毎月26日と3:1の割合だった。元治元年(1864)には漢書会は3の付く日も行われるようになり月6回に、和書会も6の付く日の毎月3回開催に増えている。しかし漢書会は1日の講義回数を2回に増やしていたため、実質的には毎月12回開催と和書会の4倍開かれるようになっている。また佐竹氏の調査によると漢書会と和書会では出席者数が異なっていたようで、概ね漢書会の出席者数2に対して和書会は1であったようだ。このことからも漢書会の需要が多かったことが分かってくる。
学習院の歴代の講師として漢書会に9人、和書会に5人の名前が残っている。このうち漢書会の2人と和書会の2人が途中で亡くなり、その後補充されているので実質は7人と3人で行われてきたと考えても良いだろう。有名なところでは頼山陽門下の牧善輔、山口菅山門下の大沢雅五郎、鈴木怒平門下の中沼了三等が漢学書の講師を務めていた。
なお、出席者数については年代によって異なっている。開講してから嘉永2年(1849)までの漢書会出席者数は堂上で60~70人位であったが、文久年間に入ると出席人数は激減する。さらに慶応2年(1866)以降も減少状況が続く。上記のように講義数を増加したにもかかわらず堂上人の出席状況が悪化した背景には、国事が多忙となり講義に出席できなくなった、あるいは学習院の果たす役割に変化が生じたのではないかと佐竹氏は推測している。
佐竹氏は上記「学習院学問所の果たした役割」で出席者毎に出席回数、年齢、家格そして明治維新期の政治活動状況を表(表4 出席回数と出席者詳細)に纏めている。弘化4年(1847)から嘉永年間を通じて学習院で学んだ多くの若い堂上人が安政5年(1858)3月12日の廷臣八十八卿列参事件に参加したことがよく分かる。当初の目的は困窮し風紀乱れる若手公家達を学問によって教化するというものであったが、時代の流れに沿って朝廷における政治要員の育成の場に変わっていったことが良く分かる。これ以後、多くの堂上人にとって政治に身に置く時間が多くなり、次第に学問所としての学習院から遠ざかっていったことが推測される。
以上が学問所として学習院が果たしてきた役割であるが、これ以外にも文久2年(1862)頃より、言路洞開を行う場が学習院に設けられている。「維新史料綱要 巻四」(東京大学出版会 1937年発行 1983年覆刻)の文久2年(1862)12月9日の条には下記の様に国事御用掛の新設が記されている。
新ニ国事御用掛ヲ置キ、関白近衛忠煕・左大臣一条忠香・右大臣二条斉敬・青蓮院門主入道尊融親王・前右大臣鷹司輔煕・内大臣徳大寺公純・議奏中山忠能権大納言・同飛鳥井雅典権中納言・同正親町三条実愛権大納言・同三条実美権中納言・同阿野公誠参議議奏加勢長谷信篤・武家伝奏坊城俊克同野宮定功・権大納言近衛忠房左近衛権大将同一条実良同広幡忠礼・権中納言三条西季知同庭田重胤同徳大寺実則・参議橋本実麗・右衛門督柳原光愛・左衛門督大原重徳・右近衛権少将河鰭公述・左近衛権少将東久世通禧・侍従裏辻公愛同橋本実梁・権右中弁万里小路博房・中務少輔勘解由小路資生・右近衛権少将姉小路公知公知ノ任命ハ同人ノ帰洛後ニ行ハルヲ之ニ補シ、言路洞開ノ聖旨ヲ廷臣ニ宣布シ、所見アルモノハ御用掛ヲ経テ上申セシメ、予テ軽挙妄動ヲ戒慎セシム。
ここに言路洞開が主上の思召であり、有為な人材の登用と天誅などの暴発を防ぐ手段としても強いられたことが分かる。「孝明天皇紀 第四」(平安神宮 1967年刊)の12月9日の条にも以下のようにある。
九日丁亥攘夷の議決するを以て国事御用掛を置き関白藤原忠煕近衛左大臣藤原忠香一条右大臣藤原斎敬二条入道尊融親王青蓮院前右大臣藤原輔熙鷹司内大臣藤原公純徳大寺及議奏武家伝奏此余十六人を御用掛と為す又言路洞開の聖旨を諸臣に布告し其所論ある者は御用掛に就て謀議を上らしめ予て軽躁の挙動を誡む
「攘夷の議決するを以て」を国事御用掛新設の目的とし、「言路洞開の聖旨」と「予て軽躁の挙動を誡む」は「維新史料綱要 巻四」と内容的には同じである。これは朝廷における政策決定者が三職と議奏、武家伝奏から拡大したことを意味し、公家の官僚化が図られたともいえる。国事御用掛の会議は月10回程度、天皇が政務を行う小御所取合廊下で行われている。これは会議が紛糾した際、親裁を行うことも想定している。また天皇が諸藩藩主への面会や天杯拝受の儀礼は、学問所や小御所の天皇の私的な空間で行われている。国事御用掛のような宮中の役職者が藩主等と国事について語る場所は、天皇の所有する学問所や小御所ではなく、御所の外の学習院に置かれた。吉田昌彦氏は「学習院建言制度の成立と「言語洞開」」(「比較社会文化」第17号 2011年)に於いても、学習院の施設構造が会談の場として講義を行う正間が適していたと指摘している。学習院もこのような目的を想定して建設された建物でないため、一人の教授が多数の聴衆に講義する空間が少人数の面談に最適であるとは謂い難いものがある。しかし学問所としての使用頻度やその立地などを考慮すると、運用が容易であったことは推測される。 また佐竹氏が「学習院学問所の果たした役割」で指摘しているように、嘉永6年(1853)の異国船来航以降、学習院に出仕していた大沢雅五郎、中沼了三、牧善輔等の講師は、学問所での講義以外に政策建議を行っている。現在より学問と政治が緊密な関係にあったのであろう。このようなことも本来は学問所としての学習院が建言を受付けるようになっていった一因と考えることができる。
文久2年末に国事御用掛の新設から1ヶ月余を経た文久3年(1863)2月13日に国事参政と国事寄人の二職が追加されている。参政には参議・橋本實麗、大蔵卿・豊岡隋資、左近衛権少将・東久世通禧、右近衛権少将・姉小路公知の4名、国事寄人には権大納言・正親町実徳、権中納言・三条西季知、左近衛権中将・滋野井実在、右近衛権中将・東園基敬、左近衛権少将・正親町公董、修理権大夫・壬生基修、侍従・中山忠光、同・四条隆謌、右馬頭・錦小路頼徳、主水・正沢宣嘉の10名が就任している。この後、若干の入れ替えはあったものの、急進派とされる面々が国政参画できる体制になった。当初、参政と寄人は国事御用掛との兼職であったが、分離し新たな組織となって行く。このことが、国事御用掛を無力化させ、参政と寄人により朝議を思い通りにすることにつながる。
文久3年(1863)2月20日には草莽卑賤の者達の学習院への建白が許されている。「孝明天皇紀 第四」には以下の様に記されている。
二十日丙申下情上達の路を開き草莽微賤の者と雖とも学習院に詣りて時事を建言するを許す
「維新史料綱要 巻四」では2月21日の条に下記のことが記されている。
言路洞開ノ聖旨ヲ宣シ、草莽微賤ノ者ト雖、忠言ヲ韜マズ、学習院ニ出デテ建言スベキヲ諭ス。京都守護職松平容保、洛内外ニ令シテ朝旨ヲ奉体セシム。
松平容保が京都守護職に就任したのは文久2年(1862)閏8月1日で、12月9日に江戸を発ち24日に着任している。就任当初の容保が採った宥和政策は聖旨の実践でもあるが、これを一転させることとなる足利三代木像梟首事件が発生したのも、2月22日と学習院での建白書受け付けが公になった直後のことである。吉田氏は「学習院建言制度の成立と「言語洞開」」で、尊攘派にとって言路洞開が自らの党派を朝廷内に送り込むための手段であり、公武合体派にとっては文久2年(1862)7月頃から増加する天誅という形で行われるテロリズムを鎮静化させる手段だったと指摘している。恐らくこの見解は正しいと思われる。言路洞開を推進したにもかかわらず天誅は減少することがなく、むしろ各藩から学習院御用掛あるいは学習院出仕と称して尊攘派志士の登院が増加して行く。そして学習院が尊攘派志士と劇派公家の活動拠点になると、朝議自体も劇派に完全に掌握され所謂偽勅が横行するようになる。
以上が政治的局面から見た文久3年(1863)の学習院であるが、仙波ひとみ氏は「国事参政等関連史料と文久三年の学習院」(「明治維新史研究9 明治維新と史科学」(吉川弘文館 2010年刊))で、尊攘派の志士が学習院に頻繁に出入りし、朝議に多大な影響を与えたという通説に疑問を投げかけている。同時代の学習院の史料に基づき、上言がどのように審査され朝議にかけられたかを丁寧に追っている。ここから朝議で検討され八月十八日の政変以前に実現された上言が、それほど多くはなかったことを明らかにし、七卿を始めとする劇派公家が力や数を使い政治利用した形跡が見られないとしている。これは今までの通説とは異なった見解である。このあたりの研究が今後も継続され、政治的局面からだけではない学習院の実体が明らかになることを望む。
「孝明天皇紀」の文久3年(1863)8月18日の条に下記のように記されている。
十八日壬辰廷議一変俄に大和行幸の令を停め参政寄人等を廃し長門藩の堺町門守備を罷て薩摩藩の乾門守衛を復す 是日未明尊融親王中川参内守護職松平容保所司代稲葉正邦及在京の諸藩を徴て宮門を關せしめ議奏国事掛以下長門藩士等の参入を止む 是夜権中納言藤原実美三条等七人清末藩主毛利元純等と倶に京師を去て西下す
このようにして、2月13日に新設された国事参政と国事寄人も、この日を以って廃止されている。さらに三条実美等の国事御用掛の宮門内への立ち入りも禁じられている。「学習院雑掌記」には下記のように記されているので、学習院での建言受付は八月十八日の政変によって停止している。
當二月廿日ヨリ国事御用ニテ堂上方并非蔵人中詰使番仕丁等無虚日當院ヘ出仕諸方之建白御聞入ニ相成候処當八月十八日ヨリ大変化国事相止候処十九日ヨリ学習院都テ衛守之大名上杉弾正大弼本多主膳正松浦豊後守山内兵之助等四人ヘ御借渡ニ相成右四人家来ヨリ往反有之都テ雑掌取計引渡候事右ニ付国事堂上始都テ引払候事右之通ニ付諸事取計事之雑掌三人共日勤常番二人外ニ御門ヘ預リ五人相詰人足二人ニツ丶日々出仕預リ儀ハ廿五日ヨリ三人ニ相成候事
この記事へのコメントはありません。