文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2015年 9月

京都御苑 鷹司邸跡 その4

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡 その2 と その3 では、真木・久坂軍の堺町御門での戦闘とその撤退状況について書いてみた。この項では久坂玄瑞、寺島忠三郎そして入江九一の最期について記す。 中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には、久坂玄瑞は「軍さをする気がなかつた」という記述がある。この見立ては、ある面では正しかったのではないだろうか。鷹司邸に入った久坂は、参内の準備中の鷹司公に御供を願出ている。もし御所内に入り、毛利家に掛けられた疑念について反論する機会が与えられたら、自らの弁舌を以って窮境を一変できるという自信があったのであろう。勿論、長州藩贔屓の公卿達の応援や因州藩… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その3

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  堺町御門での戦闘を決したのは、やはり火力であった。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には下記の様に記している。 凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲が一門備えてあった。わが人砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒隊と手はずをきめて、鷹司邸の西北角から攻め入ることを約束した。十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門扉をうち破り、野村秀次郎らが門内に突入して、門内から扉をひらき、わが衆はことごとく邸内に進入した。大砲の打手… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その2

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡では、真木・久坂軍の進撃経路について推定した。この項では堺町御門での戦闘状況と山崎への撤退について記して行く。 山崎の軍の大将は家老の益田右衛門介であったが、進軍には加わっていない。「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には、石清水山上に滞在していた益田隊は社頭に貝曲を奉納すると称して申刻(16時半)後一曲を奉し一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し、双方に手配り軍令を発したとしている。真木直人の「天王山義挙日記」(「日本史籍協会叢書 維新日乗纂輯 二」(東京大学出版会 1925年発行 1982年覆刻))に従うならば… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 門内から堺町通を眺める 真木・久坂軍が進行した柳馬場通は一本東側  京都御苑 清水谷家の椋 その4では、来嶋又兵衛の蛤御門内での奮戦とその最期を見てきた。闘将来嶋の討死により、国司軍は崩れ落ちて行った。烏丸通を北から攻めてきた薩摩藩の圧倒的な砲撃に遭い、多大な損害を被った国司信濃は遂に支えることができず、中立売通を西に天龍寺を目指し敗走していった。その際に放置された国司信濃の具足櫃から黒印の軍令書が発見されている。野宮定功日記、7月22日の条に下記のように記されている。 一 十九日於中立売大路薩藩取得候国司信濃具足櫃内有之長門宰相父子軍令条一巻差出之由一橋差出之  嵯峨実愛日記や飛鳥井雅典日記… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その4

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影  京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製  先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れたように甲子戦争に至る経緯を詳しく記述しているものの、実際の戦闘については潤色せずに簡潔に記すに留めている。 嵯峨… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その3

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋  京都御苑 清水谷家の椋 その2で記したように、北から公家門の支援に駆け付けたのは乾御門の守衛についていた薩摩兵であった。この模様は桑名藩の加太邦憲が「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。 此時南方三丁程離れて蛤門の戦争が始まりましたので、其砲撃が頻に聞えました。さうしますと公卿門前に居りました諸藩の兵が其音に驚いて皆崩れ立ち、北へ遁れて一橋兵を圧迫いたしました。又桑名兵の前もそれで塞がれて仕舞ひまして、もう桑名兵は発砲も出来ない有様になりました。さうして… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その2

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 駒札  京都御苑 清水谷家の椋では、清水谷家がこの地に移った時期の推定と椋の木の位置に付いて考えてみた。清水谷家が賀陽宮邸跡から御所の築地南西角に引っ越してきたのは、およそ宝暦13年(1763)から明和6年(1769)の頃と考えた。元の邸宅の敷地に姉小路定子の准后御殿が造営されたための配置替えであったと思われる。この後、天明8年1月30日(1788)に団栗焼けとも呼ばれる天明の大火が発生している。鴨川東側の宮川町団栗辻子で発生した火災は鴨川を越えて河原町、木屋町を焼き、西は智恵光院通、大宮通そして千本通まで達している。この大火により御所、仙洞御所、摂関家の邸宅から二条城、京… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく) 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋  京都御苑 蛤御門で来嶋隊の築地内闖入までを見てきた。この清水谷家の椋の項では守衛側の反撃から国司軍の崩壊までを追って行く。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製  現在、蛤御門より御苑内に入り御所方向を眺めると御所の先に仙洞御所の築地の北西角と東山の山並みが見える。この眺めを遮るものは御所の南西角にある巨木のみである。文久3年(1863)に作られた「内裏図」を見ると、このあたりに清水谷家邸があったことが分かる。樹齢300年と云われる椋の木は、幕末でも150年近くの大樹であったと考えられる。 実は前からこの木の位置について疑問を感じていた。現在の京都御所は、安政2年(185… ►続きを読む

 

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