徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2015年 9月 28日

京都御苑 鷹司邸跡 その4

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡 その2 と その3 では、真木・久坂軍の堺町御門での戦闘とその撤退状況について書いてみた。この項では久坂玄瑞、寺島忠三郎そして入江九一の最期について記す。 中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には、久坂玄瑞は「軍さをする気がなかつた」という記述がある。この見立ては、ある面では正しかったのではないだろうか。鷹司邸に入った久坂は、参内の準備中の鷹司公に御供を願出ている。もし御所内に入り、毛利家に掛けられた疑念について反論する機会が与えられた… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その3

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  堺町御門での戦闘を決したのは、やはり火力であった。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には下記の様に記している。 凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲が一門備えてあった。わが人砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒隊と手はずをきめて、鷹司邸の西北角から攻め入ることを約束した。十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その2

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡では、真木・久坂軍の進撃経路について推定した。この項では堺町御門での戦闘状況と山崎への撤退について記して行く。 山崎の軍の大将は家老の益田右衛門介であったが、進軍には加わっていない。「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には、石清水山上に滞在していた益田隊は社頭に貝曲を奉納すると称して申刻(16時半)後一曲を奉し一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し、双方に手配り軍令を発したとしている。真木直人の「天王山義挙日記… ►続きを読む

 
 

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