梨木神社 その4
梨木神社(なしのきじんじゃ)その4 2010年1月17日訪問
梨木神社 その3では、関が原の戦い以降の徳川家と島津家との関係から島津家からの将軍入輿までの説明で終わってしまった。このまま天璋院篤姫が選ばれた経緯から実の父である島津忠剛の死去、御所の炎上そして安政大地震の発生による繰延べ等を書いて行くと、ますます梨木神社から離れて行くので、改めて薩摩藩に関係する項で書くこととする。この項では安政3年(1856)12月18日に行われた婚礼の前後あたりから話を始める。
既に梨木神社 その2からその3にかけて記したように、正式に篤姫が斉彬の実子となったのは嘉永6年(1853)3月1日であり、最初に幕府から入輿の話があってから3年が経過している。そして近衛忠煕の養女となり敬子と名を改めたのは、さらに3年後の安政3年(1856)7月7日のことであった。 それより少し前の4月に幾島が京都の近衛家から江戸の薩摩藩渋谷邸に入っている。この後、大奥での継嗣問題において、篤姫とともに一橋派の代弁者として重要な役割を果たすこととなる。幾島の出自については、崎山健文氏が「新薩摩学 天璋院篤姫」(南方新社 2008年刊)における「第四章 幾島と天璋院」で詳しく説明している。幾島は文化5年(1808)6月18日に薩摩藩士朝倉景矩の娘として生まれている。朝倉家は安永年間(1772~81)に藩士となっており、景矩は江戸藩邸の小納戸役を務めていたことから、幾島も江戸生まれだったと推測している。文政3年(1820)13歳の時、郁姫に仕え近衛家に入っている。郁姫は文化4年(1807)に薩摩藩主・島津斉宣の娘として江戸高輪島津藩邸に生まれている。父が隠居したため、当時藩主となっていた兄斉興の養女となり名も島津興子に改め、文政8年(1825)近衛忠煕と婚約している。忠煕との間に一子・忠房を儲けるも嘉永3年(1850)3月29日に死去。享年43。幾島は郁姫付きとなり藤田と名乗り、御側女中から御年寄となっている。そして郁姫死去後は得浄院と名を改めたものの、継続して近衛家に仕えていた。
安政3年(1856)に入り篤姫の入輿が決定したことにより、得浄院にも転機が訪れている。島津斉彬に仕えた公用人・竪山利武の公用控「鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻」(鹿児島県歴史資料センター黎明館 1984年刊)の3月14日の条には下記の一文が残されている。
御書付写
藤田事
幾島
常興善院様老女役相勤居、其後
此御所勤仕被
仰付置候処、今般以
思召改名被
仰付候事、尤追て
御沙汰之儀も可有之候事、
三月
幾島が篤姫付で大奥に入るための準備が始まったことが、ここから分かる。さらにそれ以前の2月27日に伊集院太郎右衛門に宛てた書面は以下の通りである。
一 去ル廿一日仕立町便を以申越候
篤姫様御一条ニ付ては、明廿八日
太守様被遊御登城候ハヽ、何とか被仰渡哉之御模様ニ
極御内々奉伺候、就ては得浄院事
右府様より御内用ニ付、江戸へ御差下し被下候様従
太守様御願越被遊候ニ付、多分被仰進候通同人出府被
仰付ニて可有之候、左候ハヽ夫々不被召附候ては不相
叶事故、別紙名書之通可被召附旨申渡候様ニとの御事
ニ候間、弥
右府様は近衛忠煕で太守様は島津斉彬であるから、斉彬から近衛家に幾島の江戸出府を要請していたことが分かる。2月28日の篤姫入輿決定直前から御付となる幾島の手配を行っている。このことより大奥での継嗣問題が一橋派にとっていかに困難なものであり、そして幾島に期待する所が大きかったことが伝わる。しかし当の幾島はすぐに江戸に下った訳ではなかった。3月15日付で川上郷兵衛が竪山武兵衛に送った書簡には下記のようにある。
右府様より段々 御沙汰も被為在、且又幾嶋事出府
之儀、関東ニは別て御急之義御尤之御事ニて、早々出
立被仰付度思召候得共、当月廿九日
常興善院様御七回忌御法事ニ付、不致参詣出府いたし
候ては何共 御残多被
思召、幾嶋事生涯是迄之御年回ニ罷在事故、御法事済
之翌日ニても出立いたし候得は無御心残 思召候旨
御沙汰承知仕候、畢て御使者之間ニて諸大夫今大路民
部権少輔より御返答書被相渡申候間、差上申候、
右之通御使勤等無滞相済申候間、右御届且
御沙汰之趣申上候、就ては幾嶋事来月朔日・二日之間
出立有之賦ニ承申候間為御見合申上候、尚委細之義は
御留守居より可申上候得共、此段御届申上候、以上、
元の主人である常興善院すなわち郁姫の七回忌が3月29日に行われるまでは出府はできないと幾島は言い出し、遂にはそれを認めさせたようだ。この発言力からも、薩摩藩での幾島の置かれていた地位が分かる。
安政3年(1856)12月18日に徳川家定と篤姫との婚礼が行われたが、ほぼ1年間は大奥内で継嗣問題についての目立った動きはなかった。これは結婚間もない頃から政治問題を持ち込むことは若い2人の関係が悪くなると斉彬が考えていたためである。積極的に大奥工作を行うべきと主張する松平春嶽を斉彬が諭していた。安政4年(1857)3月15日に斉彬が春嶽に宛てた書簡(「鹿児島県史料 斉彬公史料 第三巻」(鹿児島県歴史資料センター黎明館 1983年刊) 六六六 松平慶永へ書翰 三月十五日)では下記のように記している。
一通り御内々之処ニては御間柄も宜敷、此上は御たん生を奉待候との事、大奥専ら申居候様子之処へ申出候ても、気請如何可有之哉、折角申出候て不都合之節は、却て以後之障にも可相成と、小子は勿論藍山君同様に被存候間、幸尾公参府に付、内々申上試候処、是また御同意にて、何分未た時節に不相成思召候間、当年中も様子見合候て可然と被仰下候
上記に続き斉彬は大奥における徳川斉昭ならびに一橋慶喜の評判について書いている。
其上、水老・当公共何分評判不宜、申出候て調候とも、紀之方必定と被存候間、今少し様子見合候方可然哉、
大奥での一橋慶喜の評判が芳しくない理由については、ここで記すと長くなるので改めて何れかで書くこととする。兎も角も一橋派にとって大奥での不評を無視することはできなかった。斉彬や春嶽にとって継嗣問題は外交問題の解決につながる政治的なものとして捉えていたようだが、徳川家にとっての継嗣問題はどのように「家」を継承するかと云う同族間の問題である。だからこそ感情が優先されることも多く、その中心が大奥にあったと云ってもよいだろう。それを理解している斉彬は慎重に様子を見ながら行おうとしたのであろう。上記の書簡の先に以下のような箇所が見られる。
其上御引移前夜にも委敷申上置、右様之御直話出来候哉、又一と紀之処等上之処如何に候哉、委敷御さくり被成候様申上候得共、未た何事も不被仰下候間、今少し時節見計ひ候方、却て可然哉に被存候
斉彬は時期が訪れるのを待ってはいるものの、篤姫に対して活動の指示は行っていたことが分かる。
安政4年(1857)12月9日には、藩命を以って江戸に出た西郷吉之助は左内を訪ね、将軍継嗣についての斉彬の書面を松平春嶽に呈することを依頼している。斉彬は春嶽に継嗣問題において吉之助を自らの家臣同様に使うことを依頼している。入輿から凡そ1年が経過し、斉彬も大奥での反一橋派の勢力の拡大について手を打たなければならない時期を迎えたと考えたのであろう。「昨夢紀事」(日本史籍協会叢書「昨夢紀事 二」(東京大学出版会 1920年刊行 1968年覆刻))の同月14日の条には吉之助が齎した後宮の情報が記されている。斉彬が御台所に宛てた後内書と御台所付より差し出された「つほね」と記された書面である。これは幾島が記したされるものである。
大奥での一橋派の継嗣問題に関する活動は薩摩藩主導によって行われたが、その時期は西郷が出府した安政4年末であったと考えられる。「天璋院篤姫展」(NHK・NHKプロモーション 2008年刊)に所収されている崎山健文氏の「御台所敬子の実像-将軍継嗣問題を中心に-」によると、この活動の連絡経路は天璋院篤姫から幾島を経て薩摩藩江戸藩邸の老女・小の島、藩邸に入っていた西郷吉之助から国元の島津斉彬へと繋がっていた。
この当時の大奥は第13代将軍・徳川家定の生母の本寿院と乳母で上臈御年寄の歌橋の2人が実権を握っていた。
本寿院は文化4年(1807)生まれ、実実名は美津あるいは堅子、父は幕臣の跡部正賢とされている。文政5年(1822)に西ノ丸大奥に出仕、翌年に将軍家継嗣・徳川家慶に見出され御中臈となる。そして文政7年(1824)に西ノ丸大奥にて後に将軍家定となる政之介を出産している。天保8年(1837)に第11代将軍・徳川家斉が将軍職を家慶に譲ったことのより、美津を始めとする側室、老女姉小路らが本丸大奥に入る。そして政之介は将軍家継嗣と定められると、美津は次期将軍生母となり老女上座が与えられている。翌天保9年(1838)に家慶の命により、政之介と共に二ノ丸大奥に居を移す。天保12年(1841)大御所・家斉が死去すると、美津と政之介は二ノ丸大奥から再び西ノ丸大奥に居を移す。さらに嘉永6年(1853)6月22日に家慶が薨去すると、美津は落飾し本寿院と号し、第13代将軍に就任した家定の生母として本丸大奥に居を構えることとなった。だから篤姫が輿入れした際には落飾し本寿院を名乗っていた。
政之介の育児を本寿院から任されたのが上臈御年寄の歌橋であった。そのため生母以上に家定との繋がりが強く。大奥においても生母の本寿院以上の権勢を握っていたとされている。家定没後は落飾して法好院と号している。
この本寿院、歌橋の他には将軍付御年寄の瀧山と既に嘉永6年(1854)隠居したものの政治的発言力を保っていた上臈御年寄の姉小路も存在していた。瀧山は文化2年(1805)御鉄砲百人組・大岡義方の長女として生まれ、文政元年(1818)に14歳で大奥に上がっている。才覚が認められて家祥(後の家定)付御年寄を経て将軍付御年寄に任じられている。慶応2年(1866)第14代将軍・徳川家茂が亡くなった際に御年寄職を辞したと考えられている。
姉小路は文化7年(1810)に羽林家の橋本家当主・橋本実誠の娘として生まれている。文政9年(1826)17歳で江戸に下向し大奥に入っている。文政11年(1828)第11代将軍・徳川家斉の娘・和姫付き女中となり、上臈年寄に昇格し庭田と改める。和姫が毛利斉広に輿入れするのに従い毛利家桜田上屋敷に移るが、文政13年(1830)和姫が入輿1年を経ずに死去したため、御付女中達は江戸城に戻ることとなった。その後将軍付となり再び小上臈となったが、天保7年(1836)西の丸に移り将軍世子・家慶付の上臈御年寄となり、姉小路の名を拝領する。翌天保8年(1837)家慶が将軍に就任すると、姉小路も将軍付上臈御年寄となって本丸大奥に入り、権勢を一身に集めるようになる。姉小路の妹である花野井が水戸藩老女となっていたことから、徳川斉昭としばしば直接に文通を行い、これが斉昭の大奥情報となった。嘉永6年(1854)家慶が死去すると落飾し勝光院と号する。上臈御年寄を退き、長州藩毛利家下屋敷麻布龍土邸に隠居する。引退したとはいえ、政治的発言力は保っていたと考えられている。
上記4人の内、本寿院と歌橋そして瀧山が既に南紀派に属していた。特に本寿院は反一橋であり反斉昭であった。その頃、政情に不安を感じていた家定は生母である本寿院に相談をしていた。そのため妻の篤姫を頼ることはなく、篤姫は家定に将軍継嗣問題について切り出す機会も無かった。篤姫は本寿院に国許からの書状を見せ、共に家定へ直話できるように依頼している。しかし本寿院は、この件に関して家定は大層立腹しているため、今は将軍継嗣について話しをする時期で無いと告げている。家定は婚礼後まもなく世継ぎの誕生の可能性があるにも拘わらず、さらに自分と年齢が近い一橋慶喜を継嗣として推す松平春嶽に対し立腹している。その上、安政4年(1857)12月25日に公使駐在及び通商開始と共に人心統一のため将軍建儲が急務であるとする島津斉彬は建白書を提出している。御台所の父であり身内だと考えていた斉彬から将軍建儲の件を持ち出されたことに、さらに激怒が増したとされている。篤姫は家定との直話が出来なければ父である斉彬に対して返答のしようがないと食下がったものの本寿院に控えた方が良いと言われている。その後、歌橋に同じ事を依頼しても同じ回答であった。元々本寿院も歌橋も南紀派であったので、篤姫の懇請を聞き容れることはなかった。また若い御台所をあしらう事には長けていたとも云える。このあたりの経緯は「昨夢紀事」(日本史籍協会叢書「昨夢紀事 二」の2月27日の条に西郷吉之助が齎した「後宮之密書」として記されている。後に記すこととなるが、既に橋本左内は江戸には居ない。老中・堀田正睦の上京に先駆けて京に入っている。
この様に将軍家定と直接継嗣問題について話すことを南紀派によって阻まれてきた篤姫であったが、遂に安政5年(1858)4月の始め頃に将軍と話し合う機会を得たようだ。「昨夢紀事 三」の4月29日の条に宇和島藩主・伊達宗城が前日に薩摩藩老女・小の島から聞いた話として「此月初に台の君より御直に仰せ上られしに 上の御聴入れもよかりしかハ」と記されている。これを聞いた本寿院は、「自殺し給んと宣へる」とある。「昨夢紀事」は一橋慶喜が建儲となるならば自害すると生母である本寿院に言わせたのは歌橋であるとしている。幼い頃より将軍家定を育ててきたのは歌橋であり、将軍の権威が衰えることがないように行動したとしている。つまり一橋卿が西城に入れば将軍の威光に翳りが現われると考えたようだ。この本寿院の強硬な反対により一橋派の大奥における活動に終止符が打たれた。この記事が掲載される6日前の4月23日に彦根藩主・井伊直弼が大老に就任している。
この記事へのコメントはありません。