梨木神社 その6
梨木神社(なしきじんじゃ)その6 2010年1月17日訪問
梨木神社 その5でも触れたように、安政4年(1857)12月8日、幕府は朝廷に対して外交事情を奏聞するため林大学頭復斎と目付の津田正路へ上京を命じている。これは日米和親条約から新条約締結への交渉経緯とハリスによって齎された重大事件情報への対応策についての説明のためである。重大事件情報、すなわちアヘン戦争に勝利したイギリスが愈々日本に進出してくること、そしてそれを防ぎ得る手段は日本が早期に開国を決断し、アメリカと通商条約を結ぶこととハリスは主張している。ハリスは重大情報として、老中・堀田正睦を始めとした幕吏に凡そ2時間にわたって説明している。勿論、自らの手で日米通商条約を結ぶことを目的にしているため、締結に都合の良いように海外情勢を解説している点は差し引かなければならない。
幕府は当初、新条約締結が朝廷において大きな問題に派生するとは思っていなかった。むしろ勅許を得ることで幕府及び諸藩の条約締結反対派を鎮撫しようと目論んでいた。しかし京都の状況は江戸が考えているほど冷静ではなかった。それは徳川斉昭がハリス入府を阻止するために行った京都手入が、本人が期待した以上に京での攘夷熱を高めてしまったためである。江戸と違い京では外国人に接することも交渉する機会もなく、現実問題の解決から逃避し只々排外意識が強くなっていたと云ってもよいだろう。これを助長したのが町の儒学者達であり、諸国から吸い寄せられたように集まった浪士あるいは諸藩の有志であった。
14日に江戸を発った林と津田は年末の26日着京し、28日に京都所司代より広橋・東坊城の両伝奏に一書を送っている。そして29日、京都所司代邸で林と津田は伝奏広橋光成、東坊城聡長にこれまでの外交問題における事実と事情の報告を行っている。彼等の京での行動が報告と具申で終わっていたことからも、勅許を得ることは両名の任務ではなかったのかもしれない。すなわち目下の形勢を開陳し、朝廷の意見を開国説へ導く役割であったと徳富蘇峰は「近世日本国民史 朝幕背離緒篇 」(時事通信社 1965年刊)で述べている。
同じ日、江戸では将軍徳川家定が大廊下、溜詰、大広間席の諸侯を召見し、老中堀田正睦より貿易の開始は止む得ない情勢にあることを告げ、各自の意見を披陳させている。翌日には譜代諸侯に登城を命じ、前日と同じ内容を繰り返している。つまり期を一にして京においては朝廷に対し、江戸においても諸大名に外交情勢の説明を行っている。さらに念を入れるかのように、勘定奉行の川路聖謨と永井尚志等を水戸藩邸に送り徳川斉昭・慶篤父子に条約改訂の已む得ない事情を説明させている。
年が明けて安政5年(1858)正月5日、60日以内に通商条約の調印を行うという書を老中名でハリスへ交付している。そのため同月8日、老中・堀田正睦は外交事情奏聞のための上京が命じられ、翌9日に勘定奉行川路聖謨と目付岩瀬忠震等の随行が決まる。同月15日、堀田正睦等は上京の途に就くため登営し将軍に拝謁している。
正月14日、既に梨木神社 その5で書いたように、橋本左内は上京の途に就く直前の川路を訪ね一橋慶喜擁立への協力を取り付けている。そして左内もまた同月24日に春嶽より上京を命じられ、27日に横山猶蔵、溝口辰五郎と共に京を目指し江戸を発っている。「昨夢紀事」(日本史籍協会叢書「昨夢紀事 二」(東京大学出版会 1920年刊行 1968年覆刻))によれば、正月22日に山内容堂が松平春嶽を訪ね、京都では攘夷説が根強く老中・堀田正睦が上洛しても容易に奏聞できない恐れがある。正睦の帰府が遅れれば継嗣問題にも支障が生じるため、福井藩より藩士を京に送り正睦を支援する遊説を行う必要があると春嶽に語っている。さらに容堂の妻は三条実萬の養女であることから、土佐藩より三条公への紹介状を書く用意もあるということだ。これにより、同月24日に以下の命令が橋本左内に下されている。
航海術原書為取調出坂被
仰付御用済次第早速罷帰 橋本左内
候様仰付
但横山猶蔵儀も致同道可然事
左内には表立って京都手入が命じられた訳ではなく、大阪での航海術原書を取り調べることが正式な任務とされている。また左内が西郷吉之助に送った安政5年(1858)正月26日付の書簡(「西郷隆盛全集 第五巻」(大和書房 1979年刊)二 橋本左内より 一月二十六日)には「今般弊国内用に付き、国元早駆にて罷り越し、来月下旬迄留守に相成り申し候。」と記している。自らの入京を吉之助にも隠していたように見える。さらに京都では桃井伊織あるいは亮太郎の変名を用いていることからも、福井藩も左内自身もかなり危険な任務であるという認識があったことが分かる。
左内の着京は2月7日であった。老中・堀田正睦の宿館である本能寺に入ったのが同月5日、参内が9日であったので、左内もほぼ同時期に京に入っている。翌8日夕に山内容堂から三条実萬及び同家諸大夫森寺因幡守へ宛てた直書を携え森寺を訪ねている。そして9日朝に山水図と金千疋をもって実萬との対面を果たしている。左内は攘夷の不可であること、開国の止む得ないこと説き、海外事情の切迫から防海の必要性を訴えた。さらに論を進め、継嗣問題では一橋慶喜を持ち出し、早速実萬の賛同と京での周旋の約束を取り付けている。これらの遣り取りは、「橋本景岳全集」(「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 二」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻))に所収されている 「三七〇 安政5年2月29日 先生より京都の形成等を報ずる江戸邸への密書」に詳しく記されている。この密書によれば左内は14、16、22そして30日と足繁く三条邸を訪ね、京都での一橋派の工作の拠点としていたことが分かる。
宮と川路については、既に朝彦親王墓 その2や京都御苑 賀陽宮邸跡で触れたように、今回が初対面ではない。朝彦親王は天保7年(1836)8月に仁孝天皇の猶子となり、翌年(1837)12月に親王宣下、同9年(1838年)閏4月に得度し奈良興福寺塔頭の一乗院の門主となり、尊応入道親王と称している。そして嘉永5年(1852)に青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融と改めている。一方の川路聖謨は水野忠邦の天保の改革で失脚し、弘化3年(1846)に奈良奉行に左遷させられている。この後、嘉永4年(1851)に大坂東町奉行に異動しているので、奈良奉行にあった5年半が宮と川路が重なり合う期間となる。 川路は老中・堀田正睦との上洛の様子を「都日記」(「日本史籍協会叢書 川路聖謨文書 六」(東京大学出版会 1934年発行 1985年覆刻))に纏めている。この日記は、安政5年(1858)正月21日より始まり、4月20日の帰宅で終わっている。2月4日京都到着の当日に、川路は青蓮院宮訪問のための菓子を購入し、同月8日には宮への挨拶のため家臣の高村俊蔵を宮邸へ送っている。12日に青蓮院宮より、「今般は必御逢被成度候処御用柄に付相済次第に参殿之義御沙汰可有」という知らせが内々に届く。宮は関東からの使節の一員として上洛している川路との個人的な対面を明らかに警戒していた。つまり関東に取り込まれたという噂が巷に流れることを恐れたのである。川路の方は、なるべく早い段階での対面を欲していた。「御用済に候得は直に出立之積に付可相成は此節は御沙汰有」と応えている。2月17日、宮邸より20日参殿を告げる使者が来る。川路の「都日記」と左内の江戸邸への密書には対面の日付の不一致が見られる。左内自身は対面に立ち会っていないので、単に左内の誤記かもしれない。ちなみに宮の日記である「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 1929年発行 1982年覆刻))は元治元年(1864)の甲子戦争直前から始まっているので、この川路との対面の日付を確認することは残念ながらできない。
さて2人の対面はどのようなものであったか?川路の「都日記」では、両人が過ごした奈良の頃の昔話が主となり、政治向きの話は一切残されていない。
青蓮院宮へ罷出候節これみよわれかかたみとおもひて今に持居る也とて奈良にてあけたる桐つくしの銀の御きせる御差出御みせ被成候そ忝し
青蓮院宮の立場を思えば、例え当日に政治向きの話を行っていたとしても日記には書けなかっただろう。老獪な川路ならばその位の配慮を行っていても不思議ではない。
また世古挌太郎の「銘肝録」(「野史台 維新史料叢書 雑四」(東京大学出版会 1975年刊))にもこの対面に関する記述が残されている。
今度上京仕たるによつて御機嫌伺ひ参上を名とし実は宮は御連枝にて英邁の御方なれは入説せんとの意なり
世古は川路が最初から入説を目的に参殿したと決めつけている。これは多分正しい認識であろう。この対面には陪臣として池内大学も立ち会っていたことが記されている。その上で下記のように、橋本左内と同様のことを記述している。
川路申に先天下に京都にては君の如き御英邁はあるべからずこれに比して申上候は恐入候事なれど関東にては一橋殿真に英傑にて
徳田武氏は「朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁」(勉誠出版 2011年刊)の中で、左内は対面の様子を伊丹蔵人から聞いたのではないかと推測している。もしその説が正しいとすれば、世古も伊丹からの情報を基にして対面の様子を記したのかもしれない。
梁川星巌が4月5日付で佐久間象山に送った書簡にもこの日の対面の様子が記されている。この書簡は伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882968/285
」(梁川星巌翁遺徳顕彰会 1925年刊)に所収されている。
川路司農公事畢り候に付、青蓮親王へ拝謁を願ひ、二百金の紙包に題して御菓子料となし献上、御対顔の節に諸近習厳然列座、司農寒暄を申上るのみにて、於二時事一は不レ能レ述二一言一、空しく退出致し候。近習の者宮に申上げるには、何故に献上物を御受有レ之哉、宮の曰く、「渠旧識に付、菓子料を持参、対面の砌、一言不レ及二時事一、余も亦時事は不レ吐二一言一也。何の嫌疑か之有らん」との仰也。宮の御気象総て如レ此。
池内大学と親しい関係にあった梁川星巌は、川路が一言も政治向きの話をせずに退出するしかなかったとしている。これは橋本左内や世古挌太郎が仕入れた情報とは異なっているので、あるいは当日その場に居た池内大学によって齎されたものかもしれない。徳田氏が指摘しているように、対面は二部構成となっており、前半部分は儀礼的な対面で陪臣や近習が列席していた。しかし酒食が供された後半になると、場が和らぎ海外事情や時事についての様々な事が語られたのかもしれない。
残された書簡より左内は2月21日の前後に、勅許周旋の助勢を行うため会見を川路に申し込んでいることが分かる。しかし実際に2人の会見が行われたかを確認することは出来ない。左内の密書にも川路の日記にもその痕跡は残っていないためである。
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