裏千家 今日庵
裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)2010年1月17日訪問
水火天満宮のある天神公園から小川通を南に下ると最初に現れるのが裏千家である。表千家と裏千家は、この小川通の東側に並んで建っている。2008年5月に訪問した際に、表千家と裏千家を記し、両家及び武者小路を含めた三千家の成り立ちについて触れている。利休亡き後、文禄3年(1594)千家は再興を果たし、2代千少庵そして3代千宗旦と利休の茶を継承してゆく。さらに3代宗旦の三男である江岑宗左が千家の継嗣として不審菴を継ぐ。宗旦が隠居所として不審菴の裏に建てた今日庵を四男の仙叟宗室が受け継ぎ、独立して裏千家を成した。一般的に云われる表側が表千家、裏側が裏千家とあるのは、本家分家の関係とともに寺之内通側が京の中心地に近い不審菴が表と見なされたのであろう。ちなみに宗旦の次男の千宗守が塗師を生業とする養子先から出戻ってきて一家を起こしたのが武者小路千家である。つまり宗旦の子供の時代に三千家に分かれて行ったのである。
この本法寺前で千家が再興した経緯を見てみる。堺から上洛した千利休は、大徳寺門前屋敷に四畳半を建て不審菴の額をかかげたと伝えられている。これが天正13年(1585)かその翌年頃だと考えられている。聚楽第が竣工すると、葭屋町通元誓願寺下ル町(現在の晴明神社の近隣)に城下の屋敷を設けている。聚楽第は天正15年(1586)に完成しているので、ほぼ同時期にこの屋敷に住み始めたと考えられる。利休の聚楽屋敷には桧造の書院と色付九間書院という二棟の書院、そして四畳半と二畳の茶室があったとされている。
同年10月1日北野天満宮の境内で北野大茶湯が催される。利休は津田宗及、今井宗久らとともにこの茶会の茶頭を務めている。天正17年(1589)12月5日利休の寄進による大徳寺山門 金毛閣の修復が完成し、同月8日に聚光院で父の50回忌の法要を営む。そして秀吉の勘気に触れ堺への追放令が出されたのが天正19年(1591)2月13日のことである。堺で蟄居となった利休は、再び京へ呼び戻され切腹を命じられる。同月28日、聚楽屋敷で切腹し果てる。享年70。
利休の死後、屋敷と道具の一切が没収されたので、聚楽屋敷が元誓願寺南葭屋町にあったのは僅か5年にも満たない。利休の子である少庵は天文15年(1546)生まれとされているので、千家が断絶した際には既に40を過ぎていた。少庵も会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられたが、文禄3年(1594)蒲生氏郷、前田利家、徳川家康のとりなしで赦されて京に戻る。この時秀吉より賜った土地が、現在の本法寺前であった。重森三玲の「日本庭園史体系22 江戸初期の庭9」(社会思想社 1973年刊)によれば、元々少庵が住んでいたのは二条衣棚であったが、この地が秀吉の町割りによって道路となってしまうため、本法寺前に替地したとしている。中村昌生監修による最新の「茶室露地大事典」(淡交社 2018年刊)で確認すると、少庵の屋敷は現在では二条衣棚ではなく二条釜座にあったとすることが最新の説となっている。その時期は文禄3年(1594)から翌4年(1595)にかけての頃と考えられている。敷地は南北41間、東西16間、但し南方はやや窄まり14間だったことが記録に残っているものの、どのような建物が建てられたかは分っていないようだ。
利休には少庵以外にもう一人の子がいた。やはり同じ天文15年(1546)に宝心妙樹が生んだ道安である。宝心が没し利休が宗恩と再婚すると、道安と利休の折り合いが悪くなり家を出ている。京で千家を継いだ少庵は利休の子であったものの、後妻となった宗恩の連れ子であった。そのような血筋から千家内での立場は決して強くは無かったようだ。少庵は利休の娘を妻に迎え、天正6年(1578)二人の間に宗旦が生まれている。宗旦は10歳頃に大徳寺に喝食として預けられたのは、家督争いを避けるためとも謂われている。
宗旦の還俗の時期は明らかになっていないようだが、秀吉に赦されて少庵によって千家再興が叶った後、父とともに利休流の侘び茶の普及に努めた。先妻・宝心との子である道安も同じ文禄3年に赦され、堺千家の継承している。京で千家を再興した少庵は、関が原の戦いが行われた慶長5年(1600)頃には、家督を宗旦に譲り隠居したとされている。つまり利休の血脈を継ぐ宗旦を後見することが千家再興につながり、そのために早めに隠居したとも謂われている。
少庵から京千家を継いだ宗旦は、当時の時流に逆らうように、利休の侘び茶を更に徹底させていった。徳川幕府の基盤が磐石なものとなった寛永年間(1624~44)、武家の儀礼のための茶として小堀遠州に代表される大名茶が盛んになっていた。
利休七哲の一人である古田織部は茶人として名を残しているが、もともとは武人である。織部の家は美濃国の守護大名土岐氏に仕えてきた。しかし永禄9年(1567)織田信長が美濃に進駐するとその家臣として仕えている。天正10年(1582)織田信長が本能寺で横死した後は秀吉に仕える。この頃、利休の書簡に織部の名前が現れることから、織部が利休に弟子入りした時期と考えられている。しかし上記のように天正19年(1591)に利休は切腹しているので、二人が親交を深めた期間はそれ程長いものではなかったようだ。多くの弟子が後難を恐れた中、細川忠興と古田織部のみが堺へ発つ利休を見送っている。
利休の死後、商人つまり町人による茶の湯が停滞し、代わって武家による新たな茶の湯のカタチが求められるようになっていった。この動きを最初に推し進めたのが古田織部であり、大名茶を完成させたのが弟子の小堀遠州であった。織部は利休と同じく既成の権威を認めず、自由な創造性を前面に押し出した。当時の時代性を表わすカブキの精神に富み、アンバランスな異風異体なるものへの強い興味が貫かれている。やがて安定した時代を迎えようとしている中で、批判精神に満ち予定調和など省みない織部の思想は危険視されるようになる。徳川家茶道師範でありながら大阪夏の陣で西軍に味方したことにより、第2代将軍・徳川秀忠より切腹を命じられた。
弟子の小堀遠州も始めは豊臣秀長の家臣であったが、徳川幕府の元で大名となった人物である。遠州は織部の創作的な茶の湯の世界を引き継いだものの、優美で均衡の取れた綺麗さびを作り出した。遠州のバランスの取れた思想は、新たな権威を構築しつつある徳川幕府にすんなりと受け入れた。そして大名茶の系譜は片桐石州に受け継がれてゆく。
話を再び宗旦に戻す。上記、重森三玲の「日本庭園史体系」に従って、宗旦の普請を見て行く。先ず慶長5年(1600)頃に家督を継いだ宗旦が最初に一畳半の座敷を作り不審菴と称したのは元和4年(1618)頃とされている。後に宗旦から不審菴を譲り受ける江岑宗左は「一畳半指図」に正保4年(1647)に以下のように記している。
右一畳半小座敷指図三十年巳前ニ不審庵作ニ而候所、宗左十年余所持致候へは、右之座敷のタヽミ置、今三畳ノ座敷作ル故、宗易座敷寸法以不審作ノ時委右ノ通書付置、柱章子クヾリノ戸利休所持ニテ存之候秘蔵致置也
正保四年 已上
未ノ三月 逢源斎
千宗左(花押)
重森はこの一文より、正保4年(1647)の三十年前にあたる元和4年(1618)頃に一畳半の茶室が造られたと推測している。元となっている重森三玲の「日本庭園史体系」は1970年代とほぼ半世紀前の著作物である。前述の「茶室露地大事典」によって、それ以降の研究を確認してみると、やはり不審菴は元和4年頃に一畳半で作られた説を採用している。その後、寛永10年(1633)に床を取り除いて壁床に改められたと推定している。つまり最初の一畳半には床があったが、後になって床を取り除いたのであり、元和4年と寛永10年にそれぞれ茶室を新築した訳ではなかった。また江岑の「一畳半指図」は改修後の姿を表わしたものと考えれば矛盾が生じないと「茶室露地大事典」は解説している。
なお、不審菴は千利休が大徳寺門前屋敷に建てた四畳半の茶室と同名である。宗旦は、利休が聚楽第の城下に建てた屋敷の二畳の茶室への憧憬と利休の茶の湯への強い回帰を意識してこの一畳半の不審菴を造ったのであろう。重森もまた15年経た寛永10年(1633)に再び宗旦によって手直しが施されたと指摘し、不審菴の意匠が基本となったのかは不明としながらも今日庵の創作に影響を与えたと見ている。
宗旦は、さらに利休の聚楽屋敷にあった四畳半も建てたいと考えていた。清貧の生活にあった宗旦にとって新たな茶室を建てることには困難が伴った。所持していた狩野探幽筆、沢庵讃の三幅一対を手放してでも建てる決意を固め、寛永21年(1644)の春頃には完成したようだ。この茶室は正保3年(1646)の隠居前に建てられたものであるので、又隠でなく表に建てられた茶室であったと重森は考えている。
宗旦が最初に隠居を考えて作事を開始したのは、正保3年(1646)6月早々であった。同年8月23日に宗旦が宗左に送った書簡には「一うらの家やうやうく出来昨日掃地候 六十日かヽりきりきもせい くたひれきり申候」とある。この新居に宗旦は9月1日に移転したことも分っている。相国寺の僧で茶の湯に通じていた鳳林承章が綴った「隔冥記」の慶安元年(1648)5月28日の条に宗旦の座敷に招かれた時の様子を描写している。
廿八日、今朝於宗旦、而有茶之湯也。彦蔵主同道也。宗旦隠居之家初見之也。座敷一畳半也。掛物者利休居士之影[大徳寺春屋之讃]、花入自初、有之、杜若一輪・蓮葉二枚、茶入利休之小棗[入袋也]。茶碗宗四郎焼也。
宗旦の書簡には二畳敷とあり、訪問した鳳林は一畳半と記している。重森は全体の広さは宗旦の二畳であるが、中柱があるため一畳台目で残りは向板となっていたと考え、隠居用に建てられた屋敷内の最初の今日庵と推測している。
今日庵の謂れについて、裏千家の公式HPでは以下のように記している。
席開きの当日、時刻に遅れた清巌和尚が、 茶室の腰張りに書きつけて帰った「懈怠比丘不期明日」(懈怠の比丘明日を期せず)の意に感じて、 宗旦が今日庵と命名したという逸話で知られており、裏千家の呼び名でもあります。
上記のように宗旦は隠居するために今日庵を建て不審菴を宗左に譲った。しかし実際のところ隠居してはいなかったようだ。千家の家計は依然として苦しく、宗左は就職できたものの次男の宗守も四男の宗室の就職先を見つけることは宗旦を悩ませた。本格的に隠居を考え始めたのは承応元年(1652)75歳の時であった。四男の宗室の前田家への就職がほぼ定まった時に、「引きこみすまし可申」と決意したようだ。そして最後の仕事として四畳半の茶室建設に着手した。前述の鳳林承章の隔冥記の承応2年(1652)12月18日の条には下記のよう記されている。
十八日、午時千宗旦被招予、四畳半之新築之座敷開也。不動之上人・吉権令同道也。夕飡振舞也。
重森はこの四畳半を又隠と推測している。
今日庵と又隠は天明8年(1788)の天明の大火で焼失している。隣接する本法寺も多くの堂宇を失っているので、大火はこの周辺に大きな被害を与えている。今日庵は早くも翌年の寛政元年(1789)に再興されている。又隠もほぼ同時期に再建されたと推測される。いずれにしても江戸中期頃よりたびたび変更が行われたため露地も建物も当初のものとは異なっている可能性もあるが、千利休の侘び茶の復興を目指した宗旦の思想は、この小さな空間に残されている。
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