アーカイブ:2018年
表千家 不審菴
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問 表千家 不審菴 裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。 千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたとい… ►続きを読む
裏千家 今日庵
裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)2010年1月17日訪問 裏千家 今日庵 兜門 水火天満宮のある天神公園から小川通を南に下ると最初に現れるのが裏千家である。表千家と裏千家は、この小川通の東側に並んで建っている。2008年5月に訪問した際に、表千家と裏千家を記し、両家及び武者小路を含めた三千家の成り立ちについて触れている。利休亡き後、文禄3年(1594)千家は再興を果たし、2代千少庵そして3代千宗旦と利休の茶を継承してゆく。さらに3代宗旦の三男である江岑宗左が千家の継嗣として不審菴を継ぐ。宗旦が隠居所として不審菴の裏に建てた今日庵を四男の仙叟宗室が受け継ぎ、独立して裏千家を成し… ►続きを読む
本法寺
日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ) 2010年1月17日訪問 本法寺 水火天満宮のある天神公園から、かつての小川の痕跡を求め、小川通を寺之内通まで下り、百々橋 その2、その3、その4の礎石まで来てしまった。今一度、小川通を北に裏千家の今日庵の前まで戻ると、通りの西側に本法寺の山門が現れる。この山門の前には、小川に掛っていた石橋が今も残されている。 本法寺は日蓮宗の本山で、室町時代の日蓮宗の僧侶・日親によって築かれた寺院。その開創の時期や場所については諸説あるようだが、本法寺の公式HPでは、 永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享… ►続きを読む
百々橋 その4
百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。 文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名… ►続きを読む
百々橋 その3
百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。 享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元… ►続きを読む
百々橋 その2
百々橋(どどばし)その2 2010年1月17日訪問 小川 小川町通寺之内の西北角に残された百々橋の礎石 水火天満宮の南に広がる扇町児童公園から小川通に入り南に下る。小川通が寺之内通と交わる北西角に細長い児童公園が現れる。小川の項でも触れたように、かつて小川通“おがわとおり”に沿って小川“こかわ”が流れていた。この寺之内通と交わる場所は百々の辻と呼ばれ、宝鏡寺を含む寺之内通の南北町は今も百々町という町名になっている。応仁以前の景観を描いたとされる中昔京師地図にも「百百ノ辻寺ノ内安居院」と記され、小川にも橋が描かれている。百百ノ辻に掛かる橋から百々橋と呼ばれている。百々の名は古より使われて… ►続きを読む