貴船神社 本宮 その3
貴船神社 本宮(きぶねじんじゃ ほんみや)その3 2010年9月18日訪問
貴船神社 本宮 その2では、平安時代に入り貴船神社が王城の治水及び祈雨止雨の神として朝野の崇敬を集めてきた様子を六国史などの史料をもとに見てきた。元々貴布禰の神は山城国造の神であった。しかし平安時代の後期には、貴布禰社が賀茂社の第二摂社となり、貴布禰の神は鴨県主の神へと変化して行った。朝廷内でも重要な祭祀を行う貴布禰社を取り込むことが鴨県主の勢力伸長につながることは勿論の事として、鴨県主の祖神である賀茂別雷命の誕生と賀茂社の創建を説明する丹塗矢伝説の完成度が上げるためにも賀茂川の上流に位置する貴布禰社との関係を構築することが必要と考えたのかもしれない。この項では、その後の貴布禰社と賀茂社の関係について書いていく。
平安時代に入り朝廷の庇護を受けた賀茂社の勢力が拡大したことにより貴布禰社は次第に賀茂社に併合されていく。「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)では、このような動きは、寛仁元年(1017)以前から生じていたとしている。この年の2月1日に賀茂上下社の末社である片岡社と河合社と共に貴船神社が正二位の神階を得ている。賀茂社の摂社である片岡社、河合社と貴布禰社が同格に扱われていることから、既にこの時点で貴布禰社は賀茂社の摂社になっていたと考えるようだ。貴布禰社の名が史料に現れるのは、「日本紀略」弘仁9年(818)5月辛卯(8日)の条の「山城国愛宕郡貴布祢神為大社」とされている。この後、六国史終了時点(仁和3年(887)8月)まで実に頻繁に貴布禰社の名前は現れる。それだけ祈雨止雨の祭祀が貴布禰社で行われてきたからである。神階も最初(弘仁9年(818)6月癸酉(21日))の従五位下から、貞観15年(873)5月己丑(26日)には正四位下まで上っている。これは正一位の賀茂別雷神・賀茂御祖神(1 「古代諸国神社神階制の研究」(岩田書院 2002年刊)77頁の神階グラフの番号)、平野今木神(6)、松尾神(2)、正二位の葛野月読神(18)、正三位の平野久度神・平野古開神(7)、従三位の稲荷神(5)、梅宮酒解神(8)、梅宮大若子神・梅宮小若子神(9)、梅宮酒解子神(11)に次ぐ神階である。この時代、貴布禰社はまだ独立した神社を維持していたのであろう。
六国史及び「百錬抄」を継承する形式で編纂された編年体歴史書「続史愚抄」の応安5年(1372)10月25日の条には賀茂社人と貴船社人が境界を巡って争っていること、さらに後光厳上皇により社地が上賀茂社に付されたことが以下のように記されている。
○廿五日、戊戌。賀茂山。貴布禰山地堺争論事。被ㇾ付二別雷社一旨。賜二新院々宣一。院司蔵人頭右中将基光朝臣書ㇾ之。○賀茂社記
このような騒動は「花営三代記」にも現れている。「花営三代記」康暦元年(1379)11月1日の条には以下のように記されている。
一日。鞍馬住人等於二貴船社参詣路次鎰取社前一與二賀茂神人等一確執。依ㇾ之賀茂人打二止鞍馬参詣人并通路之鞍馬住人等一。取二貴船社神寶以下一。壊二取在家一。以後當社破壊顛倒刻。奉ㇾ移二當社於賀茂社一畢。
鞍馬寺衆徒と対立した上賀茂神人が、鞍馬街道を封鎖し鞍馬参詣人と鞍馬の住人の通行を遮断した。さらに貴船社の神宝を強奪し在家を破壊したため貴船社は荒廃したと記している。貴船社は一時、賀茂上社に移されたのである。また「上賀茂のもり・やしろ・まつり」(思文閣出版 2006年刊)では、文明8年(1476)の「親長卿記別記」や「賀茂注進雑記」より貴布禰社の神職は賀茂の社家から任免されていたことを明らかにしている。
しかし弘治2年(1556)に京中に咳病が流行り多くの子供たちが死亡した。卜占の結果、貴布禰神の崇りとされたため勅して疫神払いをなさしめた。9月9日に上京の幼児が小さな神輿をかき「貴布禰のみこし狭小輿(ささこし)」と洛中を担ぎ巡るのはこれによるという。また貴布禰社の社殿の復興や神体の遷座もこののち間もなく行われたようだ。
?上記のように古代から貴船の山は賀茂社の領地であった。そして太閤検地による荘園解体と村切りによって貴布禰村、市原村、二ノ瀬村、野中村等ができ、山の境界等を巡って近隣の村との争議が起きている。いずれも賀茂上社の勝訴となっていることから、豊臣政権は賀茂社の貴船山支配を承認していたようだ。
賀茂上社から貴船までの村は全て賀茂社の社領であったが、太閤検地によって他領となり、貴布禰村は村高9石四斗余の村として生まれた。秀吉の朱印状によって一村全てが貴布禰社の除地とされた。つまり貴布禰村は年貢を免除される非課税の村となった。そして貴布禰社自体も野中村の内三石が社領として与えられ領主となった。当時の貴布禰村には50軒2000人以上の村人が住んでいたと考えられる。とても九石では食べて行けないので、京都と丹波を結ぶ流通経路から何らかの現金を得ていたと考えられる。それでも賀茂社の支配から離れることができれば石高を自らのものにできるので賀茂社支配からの離脱を目指した争議が勃発することとなった。
「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、元和2年(1616)10月、貴布禰社と賀茂社との間に社田の朱印についての争いが起こる。最初に徳川幕府に訴状を提出したのは貴布禰社であった。翌3年(1617)8月には賀茂社も貴布禰社の社領についての朱印給付を求める請文が出された。この経過については「上賀茂のもり・やしろ・まつり」が詳しい。徳川秀忠の朱印状は山城国野中村の三石を貴布禰社人中に与えるものであった。賀茂社の主張は貴布禰社の禰宜 祝は賀茂社社人から任免しているもので貴布禰村人ではないというものであった。「貴布禰村人」の主張は奥・端社の御番を昼夜勤め、御灯明や神供を供え、牛玉宝印の御札を配っているのだから貴布禰社人として認めて欲しいというものであった。
以後寛永年間を通じて両社の訴訟は続き、最終的な決着を見るのは凡そ50年後の寛文4年(1664)6月のことであった。幕府は貴布禰社は賀茂上社の末社であるという旨の裁許状を出している。これを以って貴布禰社は朱印地三石を受ける賀茂上社の末社と定まり賀茂上社は全面的な勝利を得た。翌5年(1665)11月に貴布禰村の庄屋、年寄などの村役人に対して賀茂上社支配を受け入れるための請状が命じられている。神事や修理普請の際の人足の手配から神山の維持管理、触の周知徹底に至るものであった。この後、賀茂社は貴布禰村に対して困窮時の御救い米の下行や災害時の復旧援助などの領主的な行為も行っている。これは寛文の裁許状を守り賀茂社の支配に従うという一文が入っていたことに対する措置であったのだろう。
「上賀茂のもり・やしろ・まつり」はこの紛争を、中世以来の社領や荘園を太閤検地で失った賀茂社にとって三石とは謂え与えられた領地を死守しようとしたものであったと見ている。ただしこの三石は野中村の朱印社領であって貴布禰村でなかった点で、残念ながら貴布禰村に対する支配の証とは謂えるものではなかった。それでも貴布禰社を摂社に組み入れることに成功したので実質的には村と村人を支配することにはなった。また村人側からすれば村の在り方と支配の形態を合わせて欲しいという幕府への訴えあったと思う。貴布禰社は村人にとっての氏神であり、村人は氏子であるということを認めてもらいたかったのであろう。
この支配の形は明治4年(1871)5月14日の賀茂上社からの独立まで続く。貴船神社の歴史には明治4年を以下のように記している。
上賀茂神社から独立し、官幣中社・貴船神社となる。貴船祭が6月1日に定められる
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