貴船神社 本宮 庭園 その3
貴船神社 本宮 庭園(きぶねじんじゃ ほんみや ていえん)その3 2010年9月18日訪問
今回訪問した貴船神社本宮庭園「天津磐境」は、昭和36年(1961)の大徳寺瑞峯院庭園「独座庭 閉眠庭」、昭和39年(1970)の東福寺龍吟庵庭園と昭和45年(1970)の同じく霊雲院庭園「九山八海の庭」との間に創られた庭である。瑞峯院や龍吟庵そして霊雲院も禅宗の総本山の塔頭であるため枯山水形式で作庭されている。またこの間に創った地方の寺社や個人邸の庭も枯山水あるいは池泉式のものが大部分であった。しかし、この「天津磐境」だけが同時期の庭に見られない庭園の原初的なイメージを表現している。中田勝康氏の著書「重森三玲 庭園の全貌」(学芸出版社 2009年刊)は「天津磐境」を以下のように表現している。
重森は原始神道の磐座(いわくら)・磐境(いわさか)に関する研究をして、そこに日本庭園の源流を見た。ヨーロッパ、アジアにおけるストーンサークルであり、日本では忍路と秋田の大湯が有名である。その思想を庭園として再現したのがこの庭だ。
中田氏の指摘通り、「天津磐境」の庭園は磐境を神社内に再現することが目的であった。磐座は神の依代として信仰の対象とされている巨石または巨石群のことで、これらが御神体として崇められることが神社祭祀の初期の形式である。これに対して磐境は石を円形などに並べ神聖な祭祀の行われる領域を作ることで、結界を作ることにつながる。磐座はあくまでも自然な状態にある岩あるいは石であるが、磐境は人間によって意図的に作成された石組である。人為によって作られた磐境もまたストーンヘンジのように神格化される傾向がある。磐座・磐境に対して信仰心を持っていない現代人にとって古代人が感じたであろう神秘性をこの庭に見ることができる。単に素材や形状がもたらした感覚ではなく、何か脳の奥底から湧き出てくる古い記憶のようなモノが作り出した神秘性であり神聖性を感じるのは私だけであろうか。
「重森三玲 庭園の全貌」に所収されている重森三玲の作品群を見ていくと、磐座・磐境を作庭のモチーフに取り上げたのは、この貴船神社と松尾大社の2回だけのようだ。「日本庭園史大系1 上古・日本庭園源流」(社会思想社 1973年刊)が刊行されたのは昭和48年(1973)のことであった。この巻には「日本庭園史(1)上古・日本庭園源流」と題された三玲の論文が収められている。ここでは巻頭に「日本庭園史以前の問題としての磐座・磐境」と記している。
日本庭園史(1)として、ここに上代の問題を論考することは、直ちにそれが日本庭園史というわけではなく、むしろ日本庭園史に対する一種の源流考である。従って従来の日本庭園史において、上代を論考したものはなかった。庭園は、いうまでもなく鑑賞を重点とするもの、ないしは鑑賞と実用の面を加味したものであるが、上代のものは、鑑賞や実用ではなく、一種の信仰を中心とするものであり、崇敬を中心とするものである限り、庭園の範疇には入れ難い存在である。
三玲は以上のように磐座・磐境と庭園との間の距離を測っている。しかし「上代の天津磐座や磐境や神池神島は、後世の庭園史に対して大きな影響をもち、指導性をもっていることはいうまでもない」と断言している。つまり磐座・磐境見られる石組の構成が、直接庭園に持ち込まれることは無かったが、幾代を経ても日本人が磐座・磐境に感じる神秘性は残っているため日本人が作庭した庭と外国人の作庭ではまったく別のものが発見されるとしている。この様に三玲は「日本庭園史大系」で磐座・磐境について考えをまとめたのは、貴船神社の天津磐境を完成させた後のことであった。
このように、本来日本庭園を構成する要素になかった磐座・磐境を新たなテーマとして作庭することは、この当時の重森三玲にとっても少なかったことは確かである。また信仰の対象であった磐座・磐境を単なるデザインモチーフとして導入することに関しても、大きな抵抗があったことが分かる。それを行うことは単なるコピーであり、イミテーションを造ることであるというのは彼の考えであった。古代人の創り出した形だけの再現は、決して現代人に伝わるものがないという信念から出ている。そのためには磐座・磐境の持つ信仰力をどのように現代の人々に伝えるかを考えなければならなかった。さらに磐座・磐境をテーマとできる作庭の機会に巡り合うことも必要である。神の降臨とは無関係に個人邸や仏閣内の庭園では取り上げることが難しかったであろうし、そもそも神社が庭園を作庭することも当時としては珍しいことであった。それでも貴船神社より前にも春日大社や石清水八幡宮、後にも住吉神社などの神社の庭を手掛けているが、ここには磐座・磐境を造っていない。三玲にとって磐座・磐境は重要であり達成が困難なテーマとして捉えていたのかもしれない。そのため、もっとも良い形で表現できる機会を待ちながら、構想を温めいたのであろう。昭和40年(1965)の時点で三玲は原初から人の手によって作られてきた磐境をテーマとして天津磐境を創り出した。しかし貴船大明神が降臨した磐座を敢えて作庭する意図は、この時点では無かったと考える。神が宿る自然の岩、磐座を人間が作り出すことへの確固たる自信が得られていなかったのかもしれない。そして三玲が磐座作庭に着手するのは最晩年の作品となった松尾大社の上古の庭である。
上古の庭の造園の過程は、「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に付けられた重森三玲の日記を読むことで理解できる。昭和45年(1970)3月19日に松尾大社の河田晴夫宮司と出会っている。そして同月30日には松尾大社に出向き、神楽殿や参集殿の位置を確認し、設計図について意見を述べている。これが造園に関わる最初の出来事なのであろう。これは貴船神社の天津磐境が完成してから僅か5年後のことである。この時三玲は既に74歳を迎えていた。人生の残り時間を考えれば、これが最後の機会であることは分かっていたのではないだろうか。天津磐境は三玲の膨大な作品群の中では中期に位置する。しかし急な発病により三玲の後期は突然終了することとなる。そのため中期から最晩年の作品までの時間がほとんどなく、後期作品群への新たな展開には時間が足りなかったと想像される。三玲が実際に松尾大社の造園工事に入るのは、昭和49年(1974)5月29日11時より執り行われた工事着手の奉告祭である。つまり松尾大社の曲水の庭、上古の庭そして蓬莱の庭については4年以上の構想期間があった。この間に磐座作庭の準備を行い、上記「日本庭園史(1)上古・日本庭園源流」を執筆したのたのであろうか。三玲の磐座・磐境作庭について姿勢は上記「日本庭園史大系33」の巻末に付けられた文献・資料の「三玲日記」を参照すると良く伝わる。
(昭和49年6月)10日。月曜日。曇。今日も朝から松尾大社へ行って石を組む。この石組は天津磐座だから、あくまでも無心に組む必要があり、更に又無技巧の技巧といったやり方でこそこそ神の立場で組むということより外ない。上代の人々はそのままで純真であるが、吾々現代人は矛盾に満ちている。それを純真な立場でということは中々至難なことである。庭としての石組でなく、磐座だけに尋常一様では組めない。すべてを超脱することにむずかしさがある。
(同年7月)3日。水曜日。晴。朝雑用して、岡本君迎えに来てくれて、松尾大社へ行き、天津磐座の石組に掛る。先日来伊予方面に見に行った石が来たので組むことになった。神という立場で無我の中に神を宿すことを念じつつ思う存分荒神の石を組む。
夕方までに、ものすごい石組となった。これで全国庭中、上古以来これほど荒荒しい雄健な石組はないと思われるほどのものが出来て嬉しかった。すっかり疲れてしまった。
上古の庭を完成させるために行った重森三玲の格闘が、いかに厳しいものであったかを日記は記録していた。この後の昭和49年(1972)12月21日に発病し入院、翌50年3月21日に逝去している。享年79。正に松尾大社での天津磐座・磐境作庭が三玲にとっての最大の代表作であり、そして悲しくも遺作となった。磐座・磐境が三玲にとって重要なテーマであり、それを表現者としていかに成し遂げたかは、この庭を鑑賞することで見る者全てに必ず伝わるはずである。
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