徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

鞍馬寺 その4



鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その4 2010年9月18日訪問

画像
鞍馬寺 金剛床と本殿金堂

寝殿と転法輪堂の間の石段を登っていくと本殿金堂が建つ地盤面に到達する。仁王門前からここまでの間でこれだけ広い平坦な土地はなかった。ここに鞍馬寺の主要な堂宇が建設されるのは必然の事であろう。
本殿金堂は文化11年(1814)3月29日に焼失し、明治5年(1872)秋に再建されている。しかし昭和20年(1945)にまたも全焼したため、昭和46年(1971)にRC造で再建したものである。この年の6月7日に落慶供養が執り行われている。七間七間で一重入母屋造。内部は外陣、内陣、内内陣に分かれ、内内陣に宝殿が設けられている。中央に毘沙門天、東に千手観音、西に護法魔王尊像が安置されている。金堂の手前の両脇には仁王門と同様に阿吽の虎が配されている。虎は本尊毘沙門天のお使いである神獣。毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされている。また本堂前には正嘉2年(1258)の銘の入った重文の銅灯籠があったが今は収蔵庫に入っている。代わりに昭和7年(1932)10月造立の銅灯籠一対が金堂前に建っている。

画像
鞍馬寺 金堂前の阿吽の虎
画像
鞍馬寺 金堂

公式HPによれば、本殿金堂前の金剛床は「宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものである尊天と一体化する修行の場となっています。」ということらしい。
この金剛床の南側は翔雲臺と呼ばれる。平安京の擁護授福のため本尊が降臨した所とされている。ここからは静原越しに岩倉方向を望む、非常に見晴らしの良い場所となっている。この翔雲臺に置かれた板石は、本殿金堂の後方より出土された経塚の蓋石とされている。経塚とは、経典を土中に埋納した塚。昭和6年(1931)、鞍馬寺本堂背後の山腹に営まれた経塚群の発掘調査が行われた。複数の経筒の他、一緒に埋葬された仏像、鏡、懸仏、調度、銅銭など200点以上の遺物が出土した。保元元年(1120)、治承3年(1179)、文応元年(1260)の銘の入った遺物が発見され、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて埋納されたと推定される。

画像
鞍馬寺 金剛床 パワーを得たい人が必ず立っている
画像
鞍馬寺 金堂前の銅灯籠

鞍馬寺経塚遺物として昭和8年(1933)に重要文化財に指定され、戦後の昭和30年(1955)に国宝 に指定されている。
鞍馬寺は重文に指定された昭和8年(1933)に鞍馬寺経塚遺宝 図録として出版している。残念ながら白黒写真であるが、どのようなものが経塚から出土したかを知る上で一見の価値はある。

画像
鞍馬寺 翔雲臺
画像
鞍馬寺 翔雲臺 とても見晴らしの良い場所
中央の石は金堂裏の経塚の蓋石

金堂を挟んで左側には護法魔王尊を奉安する光明心殿、かつて多宝塔があった右側には水の神を奉安する閼伽井護法善神社が建てられている。この閼伽井護法善神社は有名な竹伐り会式に関連している。平安時代の寛平年間(889~98)、護摩の行をしている峯延上人に北の峰から大蛇が現れて上人に襲いかかった。上人は真言を唱えて調伏した。すると別の大蛇が現れたが、鞍馬の御香水を守護することを誓ったので上人に許され、里人に神として祀られたという伝説がある。前者の雄蛇は静原山(竜王嶽)に捨てられ、後者の雌蛇だったとされている。上人の大蛇退治伝説に因み、毎年6月20日に行われている竹伐り会式が始まったとされている。当日は、大蛇に見立てた青竹を僧兵姿の鞍馬法師らが山刀で斬りその早さを競うもので、その年の稲作の豊凶を占う。峯延上人は開創の藤原伊勢人の孫の峰直の帰依を受けて鞍馬寺根本別当となった東寺十禅師である。この入寺により鞍馬寺は真言宗の公寺となったとされている。方四間の寄棟の宝形造、銅板葺。

画像
鞍馬寺 閼伽井護法善神社
画像
鞍馬寺 光明心殿
画像
鞍馬寺 本坊の金剛寿命院
画像
鞍馬寺 金剛寿命院

光明心殿、本殿金堂、閼伽井護法善神社の三つの堂宇の左側には本坊と呼ばれる金剛寿命院が建てられている。鞍馬寺の正式名称である松尾山金剛寿命院の金剛寿命院である。昭和20年(1945)に金堂と共に焼失したものを戦後に再建している。本坊前の庭は瑞風庭と名付けられ、護法魔王尊が650万年前、人類救済の使命により金星より焔の君たちを従え聖地・鞍馬山に降臨した様を表したといわれている。

画像
鞍馬寺 鞍馬山七福神、福寿星神、福禄寿寿老人
画像
鞍馬寺 中門 かつて仁王門の脇にあった勅使門を移築

ここより九十九折を下り仁王門へ戻る。皇后陛下行啓御休息蹟の石碑の先に杮葺に銅板を葺いた四脚門が現れる。中門と呼ばれるこの門はかつて仁王門の横にあった勅使門である。本来朝廷の使いである勅使が通る門であったが、この場所に移築されている。京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブに収蔵されている矢野家写真資料の写真が明治44年(1911)4月の復興竣工後のものであるならば、昭和34年(1959)の移築時に中門も移したと考えることができる。

中門の脇には鞍馬石で造られた信樂香雲の歌碑がある。

つづらをり まがれるごとに水をおく やまのきよさを 汲みてしるべく  香雲

画像
鞍馬寺 信楽香雲歌碑
画像
鞍馬寺 信楽香雲歌碑 つづらをり まがれるごとに水をおく やまのきよさを 汲みてしるべく

信楽香雲は、昭和22年(1947)に鞍馬弘教を立教開宗、同24年(1949)に天台宗から独立し鞍馬寺の初代管長となった人物である。前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜に従うならば明治28年(1895)に岐阜県郡上郡八幡町の服部真静・かつの三男・誠三として生まれている。八幡尋常高等学校卒業後の14歳で明治41年(1908)岐阜県揖斐郡の谷汲山華厳寺の高橋恵覚師の徒弟となり得度し法名を真純とする。大正元年(1912)に鞍馬寺貫主の信楽真晁師の養嗣子となり鞍馬寺に入山している。翌2年(1913)に比叡山中学校に入学、同7年(1918)天台宗西部大学に入学している。香雲が与謝野鉄幹・晶子の直門に入ったのはこの頃である。25歳の大正8年(1919)の時、師である真晁師が遷化し、鞍馬寺貫主に就任、晋山式を挙げている。最初に香雲が手掛けたのは本殿金堂の修理であった。文化11年(1814)の焼亡以来、蘭香上人が再建に着手したものの完成に至らないまま、明治6年(1873)に御遷座式を執り行っている。そのため本尊である御尊天は由岐神社の社殿に合祀され、竹伐り会式も拝殿前で行ってきた。明治維新後の神仏分離により鞍馬寺の鎮守である由岐社と鞍馬寺は分けられたが、鞍馬寺の窮状により由岐神社の社殿に移されたということらしい。本殿の修理が終わった後、護摩堂と四明閣の建設に着手している。大正11年(1922)より月刊誌「鞍馬」を創刊している。これは後の「くらま」へと継承されていく。大正12年(1923)より寝殿の建設に着手する。そして同13年(1924)に貞明皇后の行啓を仰ぐこととなる。

画像
鞍馬寺 句碑 筒鳥に神尊ければ磴けはし  海道
花杉に息のにごりは許されず  桂子
画像
鞍馬寺 町石
本殿までの道程を示すもの 1町=110mで8町7曲りの九十九折参道に8基が設置されている

この歌碑の先には双福苑と呼ばれる場所がある。天に聳える杉の木は玉杉大黒天で傍らに福徳の神である玉杉大黒天と玉杉恵比寿尊の祠がある。2つの祠の間には弥勒堂と同じく沢が流れ朱塗りの橋が架けられている。さらに参道を下っていくと黒御影石とステンレスを使用した彫刻作品が現れる。澤村洋二の「いのち」と名付けられた高さ8mに及ぶ大きなモニュメントである。 公式HPによれば、「鞍馬山の本尊である尊天(大宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したもの。像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、光かがやく金属の環は曇りなき真智の光明、そして、中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力を象徴しています。」とある。

画像
鞍馬寺 双福苑
画像
鞍馬寺 双福苑 玉杉大黒天
画像
鞍馬寺 双福苑 玉杉恵比寿尊
画像
鞍馬寺 「いのち」のモニュメント

その先には川上地蔵堂と義経公供養塔がある。川上地蔵堂は牛若丸の守り本尊である地蔵尊が祀られている。義経公供養塔は牛若丸が住まいした東光坊跡に昭和15年(1940)に建立されたものである。東光坊は鞍馬寺の塔頭である十院九坊の中のひとつで、牛若丸は東光坊阿闍梨蓮忍に預けられた後、禅林坊の覚日のもとへ移ったとされている。参道を挟んで建てられた祠と供養塔は、いずれも鞍馬山と縁の深い源義経に関係するものであった。さらに下ると由岐神社が現れる。ここは別の項を立て説明することとする。

画像
鞍馬寺 義経公供養塔
画像
鞍馬寺 義経公供養塔
画像
鞍馬寺 川上地蔵堂 東光坊跡に昭和15年(1940)建立

由岐神社を過ぎるとかなり普明院と仁王門に近づいてくる。ここには放生池、吉鞍稲荷社、魔王の滝、そして鬼一法眼社 がある。吉鞍稲荷社は、吉鞍稲荷大明神、茶枳尼天尊を祀る。寺鎮守、農神水神、福神稲荷で五穀豊穣、商売繁盛、産業守護の信仰がある。魔王の滝は魔王尊を祀る祠から石の筧を伝って落ちる滝となっている。清水寺の音羽の滝と同じ形状である。滝の源流は弥勒堂や玉杉大黒天の脇を流れていた沢の水かもしれない。鬼一法眼社 は室町時代初期に書かれた「義経記」巻2に登場する伝説上の人物・鬼一法眼を祀る祠である。義経記では一条堀川に住む陰陽師で六韜兵法を伝受していたとされる。

画像
鞍馬寺 鬼一法眼社
画像
鞍馬寺 魔王の滝
画像
鞍馬寺 吉鞍稲荷社
画像
鞍馬寺 吉鞍稲荷社
画像
鞍馬寺 放生池
画像
鞍馬寺 放生池

鬼一法眼については貴船口にある鬼一法眼之古跡を参照ください。

画像
鞍馬寺 放生池

「鞍馬寺 その4」 の地図





鞍馬寺 その4 のMarker List

No.名称緯度経度
赤●  鞍馬寺 金堂 35.1181135.7708
01   鞍馬寺 歓喜院・修養道場 35.1139135.7728
02  鞍馬寺 仁王門 35.1143135.7729
03   鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) 35.1147135.7726
04  鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) 35.1164135.7727
05  鞍馬寺 多宝塔 35.1167135.7728
06  鞍馬寺 弥勒堂 35.1174135.7721
07  鞍馬寺 皇后陛下行啓御休息蹟 35.1173135.7711
08  鞍馬寺 巽の弁財天社 35.1174135.7711
09   鞍馬寺 転法輪堂 35.1177135.7713
10  鞍馬寺 寝殿 35.1176135.7708
11  鞍馬寺 金剛床 35.1179135.7709
12  鞍馬寺 閼伽井護法善神社 35.1183135.7711
13  鞍馬寺 光明心殿 35.1181135.7705
14  鞍馬寺 金剛寿命院 35.1179135.7702
15  鞍馬寺 翔雲臺 35.1179135.771
16  鞍馬寺 中門 35.1166135.7713
17  鞍馬寺 信楽香雲歌碑 35.1165135.7714
18  鞍馬寺 双福苑 玉杉大黒天 35.1167135.7718
19  鞍馬寺 双福苑 玉杉恵比寿尊 35.1167135.7719
20  鞍馬寺 「いのち」の像 35.1165135.7718
21  鞍馬寺 義経公供養塔 35.1164135.7716
22  鞍馬寺 川上地蔵堂 35.1163135.7717
23  鞍馬寺 鬼一法眼社 35.1156135.7719
24  鞍馬寺 魔王の滝 35.1155135.7721
25  鞍馬寺 吉鞍稲荷社 35.1153135.7722
26  鞍馬寺 放生池 35.1151135.7723

「鞍馬寺 その4」 の記事

「鞍馬寺 その4」 に関連する記事

「鞍馬寺 その4」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2021年8月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  

カテゴリー