文書と写真・地図による「記憶」の再現

清水寺

北法相宗総本山 音羽山 清水寺(きよみずでら) 2008年05月16日訪問

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清水寺 子安塔から眺めた本堂

 7日目は東山を廻ることとしている。最初に清水寺に入り、ここから産寧坂・二年坂を歩き、建仁寺、高台寺、そして円山公園を超えて知恩院、青蓮院を拝観した後に、小川治兵衛が作庭した並河靖之七宝記念館を見学する。ここは月曜日と木曜日は休館日となっているの。南禅寺を拝観した月曜日には閉まっていたので、本日の予定に組み入れた。見学後、市営バスで東大路通を南下し七条に出る。智積院、蓮華王院、豊国神社を拝観後、豊国廟に向かう、相変わらずの詰め込みすぎの予定である。七条から順に北へ上っていけば好いように思えるが、これだけの強行軍をこなすためには、開門時間の早い清水寺から廻らなければならないためである。

 6時30分に室町のホテルを出て、四条烏丸の停留所から京都市営バス207号に乗車する。バスは四条通を東に走り、鴨川を越え八坂神社の突き当ると南に曲がる。清水寺へは五条坂から上るのが一般的であるが、今回は清水道で下車することとした。
 松原道を上って行くと七味家総本店の角で五条坂と合流する。この先はいつもの参道となる。まだ7時前のため参道のお土産屋さんは、どこも開店していない。いつもと違う雰囲気の中を清水寺に向かう。清水道から上ってきた松原通は清水寺の仁王門前で終わる。

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清水寺 仁王門、西門と三重塔
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清水寺 仁王門から西門、三重塔を眺める
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清水寺 鐘楼と仁王門

 逆光の山門を潜り境内に入る。流石にこの時間だと修学旅行客の姿は見えない。

 清水寺は法相宗に属する寺院であったが、現在は北法相宗大本山を名乗る単立寺院となっている。古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。
 法相宗は中国創始の仏教の宗派である。古代インドの仏教僧・世親は「唯識三十頌」を著し、これを護法が注釈し「成唯識論」として纏めた。唐代の貞観19年(638)中インドから帰国した玄奘は「成唯識論」を漢語に訳した。これを弟子の慈恩大師基が宗派として開いたものが法相宗である。
 日本へは入唐求法僧により南都六宗の一つとして伝えられた。明治時代には興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、昭和25年(1950)に法隆寺が離脱し、清水寺も昭和40年(1965)大西良慶住職が北法相宗を設立して独立している。

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清水寺 西門
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清水寺 三重塔

 清水寺の創建については諸説あるようだが、清水寺の公式HPによると、宝亀9年(778)子嶋寺で修行していた賢心が、「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」という夢のお告げに従い、山城国愛宕郡八坂郷の音羽山に至るところから始まる。 賢心は大和国興福寺の僧で、後に延鎮と改名し子嶋寺の二世となる。子嶋寺は奈良県高市郡高取町に現存する高野山真言宗の寺院で、平安初期には長谷寺と壺阪寺に次ぐ大和国の観音霊場として栄えていた。

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清水寺 三重塔、経堂、田村堂が一直線上に並ぶ

 賢心が音羽山麓の滝のほとりに辿り着くと、行叡居士が既にこの地に草庵を結んでいた。行叡居士が東国に旅立つにあたり、永年に渡って祈り込めた霊木を授かった賢心は、千手観音像を刻み行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりとされている。

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清水寺 本堂の舞台から京都駅方面を眺める舞台はやや先端に向かい下がっていることが欄干から分かる

 その翌々年の宝亀11年(780)近衛将監となった坂上田村麻呂は、妻・高子の安産のために鹿の生き血を求め上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に出会う。上人より殺生の非を諭され、鹿を弔い下山する。上人の説かれた清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を妻に語り、共に深く観世音菩薩に帰依することとなる。その後、仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。

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清水寺 本堂から子安塔を眺める
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清水寺 本堂から奥の院を眺める

 この時期、東北地方では蝦夷の反乱と征討が繰替えされていた。宝亀年代(770~880)の初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたと考えられ、蝦夷に対する敵視政策も始まっている。宝亀5年(774)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、この年から弘仁2年(811)までを三十八年戦争とも呼ばれている。
 延暦13年(794)征夷大使大伴弟麻呂による蝦夷征伐が行われる。田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人に任命されている。この戦役についての詳細は不明である。再び延暦20年(801)に、坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、蝦夷を討伏した。延暦21年(802)田村麻呂は確保した地域に胆沢城を築き、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が500人余りの兵を率いての降伏を受け入れている。アルテイとモレの助命を提言したが群臣の反対に合い、2人は河内国で処刑されてしまう。この有名な話しは『日本紀略』に記されている。

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清水寺 奥の院から本堂を眺める
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清水寺 奥の院から京都駅方向を眺める

 延暦17年(798)田村麻呂は延鎮と共に本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り祀ったと言われている。そして延暦24年(805)に太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810)には嵯峨天皇より北観音寺の寺号を賜わり、公認の寺院となっている。

 清水寺は興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺の南都北嶺の争いにもたびたび巻き込まれている。これに自然災害を加えると康平6年(1063)の火災以来、近世の寛永6年(1629)の焼失まで記録に残っているものだけでも実に9回の焼失を繰り返している。そのため本堂は、寛永10年(1633)徳川家光の寄進により再建され、他の多くの諸堂もこれに前後して再建されている。
 清水寺は三職六坊と呼ばれる組織によって維持運営されてきた。三職は寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、そして寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」から構成される。執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務め、六坊はこれに次ぐ寺格を有する、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6院である。
 三職の宝性院は仁王門北方に現存し、慈心院は本堂のみが随求堂として残る。そして成就院は境内の北東側に位置し、現在では清水寺本坊とされている。六坊の方は、織田信長が真乗院を廃絶したことに始まり、廃仏毀釈の時期に義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃絶したため、現在は延命院が仁王門の南に残るのみとなっている。

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清水寺 子安塔への道から眺めた本堂
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清水寺 子安塔から本堂を眺める

 清水寺の伽藍配置は音羽山の地形によっている部分が大きい。清水寺の参道である松原通を上っていくと、正面の石段の上に朱塗りの仁王門が建つ。この仁王門のある左手側が稜線の尾根となり、右手側が錦雲渓と呼ぶ谷となっている。つまり清水寺の境内は音羽山の傾斜にあわせて西から東に向けて上り勾配となっているのと、北側が南側に比べて高台となっている。
 仁王門を潜るとさらにまだ石段が続く。仁王門の正面にある左側の石段の上には鐘楼と慈心院の本堂であった随求堂が建つ。そして右手側の石段の上に西門が見える。この鐘楼と西門まで上るとほぼ平坦な敷地が現れる。西門、三重塔、経堂、田村堂の諸堂が一直線上に並ぶ。この先の轟門、朝倉堂、回廊、そして国宝の本堂はこの軸線からやや振れて、ほぼ南面するように配置されている。これは谷の形状に合わせて決められたように見受けられる。

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清水寺 子安塔 かなり傷んでいることが分かる
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清水寺 子安塔
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清水寺 子安塔の相輪

 本堂の舞台の上を東に進むと谷に下りてゆく石段が現れる。この石段の先に有名な音羽の滝がある。滝とは呼ぶものの、音羽山に降り注いだ雨水が長い時間を経て丸みを持った名水となって3本の筧から流れ落ちるものである。ここは筧から落ちる水を柄の長い柄杓ですくう人の姿が絶えない。

 石段を降りずにそのまま進むと、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院の諸堂につながる。これらの堂宇は西向き配置されているが、本堂に対して直角に建てられているわけではない。そのため奥の院の舞台から西側の京都の中心部を眺めると、その手前に本堂の屋根や舞台が奥行きを持って見えるようになっている。これは考えて作り上げたものではなく、結果として得られたものであろう。

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清水寺 子安塔から三重塔を眺める
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清水寺 三重塔

 奥の院の先にはまだ道が続いている。本堂から南側正面を眺めると、錦雲渓の先に三重の子安塔が見える。この塔まで道は続いている。この塔は泰産寺の三重塔として仁王門の南側に建っていたものを、明治43年(1910)現在の地に移築されている。都名所図会の清水寺には、その当時の姿が残っている。なお元の地には子安塔跡の碑が遺されている。 泰産寺の歴史は明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となったため明らかなことは分からない。聖武天皇と光明皇后が安産祈願をして、後に孝謙天皇となる皇女を授かったお礼に建立したという伝承も残されている。この伝承に従うならば天平年間(729~749)に建立されたこととなり、清水寺よりも古いものとなる。
 平成21年(2009)2月19日の京都新聞の記事(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009021900037&genre=J1&area=K00 : リンク先が無くなりました )によると、既にこの塔は2012年まで改修工事に入っている。改修後は竣工当時の極彩色に塗られるので、この東山の緑に溶け込むような古色の塔を本堂から見ることはできなくなるようだ。 子安塔の脇には洛陽三十三所観音巡礼の第十四番札所・清水寺泰産寺がある。 既に廬山寺の項で触れたように、洛陽三十三所観音巡礼は、後白河天皇(1127~1192)が広域で巡礼が困難な西国三十三所巡礼に代わるものとして定めた観音巡礼が起源となったと言われている。室町時代に入り、永享3年(1431)の頃には行願寺に始まり、北野天満宮に終わる三十三所の札所が定着したが、応仁の乱などによって廃絶した札所もあり、観音巡礼は途絶えてしまった。再び江戸時代に入り巡礼が行われるようになると、寛文5年(1665)霊元天皇の勅令により三十三所の札所が定められ、現在のような六角堂に始まり、清和院に終わる順路が一般化した。現在の洛陽三十三所観音巡礼は寛文中興340年を迎えたことを記念し、平成17年(2005)平成洛陽三十三観音霊場会(森清範会長・清水寺貫主)が発足し、復活したものである。満願寺の項で紹介した洛陽十二支妙見巡りと同様に、多くの庶民の信仰を基盤とした巡礼の一つである。 ところで、この三十三所には金戒光明寺、長楽寺、六波羅蜜寺、蓮華王院三十三間堂、善能寺、今熊野観音寺、泉涌寺、教王護国寺、廬山寺など、比較的著名な寺院が含まれている。 この泰産寺以外にも清水寺の中に第十番札所 清水寺善光寺堂(旧地蔵院)、第十一番札所 清水寺奥の院、第十二番札所 清水寺本堂、そして第十三番札所 清水寺朝倉堂がある。
子安塔の建つ場所から本堂を中心とした清水寺の諸堂の眺めは素晴らしい。天気の良い日ならば、奥の院から少し足を伸ばして子安塔まで来る価値は十分にあると思う。

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清水寺 音羽の滝につながる石段
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清水寺 音羽の滝

 奥の院と泰産寺を結ぶ道の途中に大きな門扉がある。この先を進むと清閑寺に行けるらしいが、今回は予定に組んでいなかった。

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清水寺 阿弖利爲と母禮を顕彰する碑(

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