鞍馬寺 その9
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その9 2010年9月18日訪問
鞍馬寺 その8では、日本独自の天狗の進化を中心に義経伝説の発生まで見てきた。この項では大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と戦後すぐに開宗した鞍馬弘教について書いみる。
鞍馬弘教の説明に入る前に、信楽香雲貫主の生い立ちから整備事業を見ていく。前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜に従うと、香雲貫主は明治28年(1895)10月20日、岐阜県郡上郡八幡町の服部真静とかつの三男・誠三として生まれている。同40年(1907)地元の八幡尋常小学校を卒業、翌41年(1908)には岐阜県揖斐郡揖の谷汲山華厳寺の高橋恵覚師の徒弟となり得度、法名「真純」。この時数えで14歳であった。そして4年後の大正元年(1912)、わずか18歳で鞍馬寺貫主信楽真晁師の養嗣子となり鞍馬寺に入山している。翌2年(1913)滋賀県大津市坂本にある比叡山中学校に入学している。通常12歳で入学する旧制中学校に19歳から始めている。さらに大正7年(1918)に天台宗西部大学に入学している。与謝野鉄幹、晶子の門人となったのはこの頃である。
しかし翌8年(1919)1月31日に信楽真晁師が遷化され、25歳で鞍馬寺貫主に就任する。恐らく真晁師がもう少し長命であったなら、真純の大学生活は続いたと思われる。4月に入り晋山式を行うが、長い慣習に縛られた寺院に25歳で貫主に就任したこともあり、多くの軋轢が生じたようだ。先代が使ってきた人力車を自動車に代えるなど一つづつ山内に新風を取り入れていった。大正9年(1920)の春、先ず真純貫主は本堂の修理と護摩堂の再建に取り組んでいる。本堂は文化11年(1814)の焼亡以来、蘭香上人が再建に着手したものの完成に至らないまま、明治6年(1873)に御遷座式を執り行っている。そのため本尊である御尊天は由岐神社の社殿に合祀され、竹伐り会式も由岐神社の拝殿前で行ってきた。明治維新後の神仏分離により鞍馬寺の鎮守である由岐社と鞍馬寺は分けられたが、鞍馬寺の窮状により由岐神社の社殿に移されたということらしい。
文部省に申請していた寄付募集許可願が大正9年(1920)10月22日に許可されると、鞍馬寺は早速翌10年(1921)の1月に本堂修理幷ニ護摩堂再建勧進簿を作成し、募金活動を始めている。本殿の修理が終了したのは同10年の秋であり、御本尊の御遷座を行った後に護摩堂と四明閣の建設に着手している。大正11年(1922)より月刊誌「鞍馬」を創刊している。これは後の「くらま」へと継承されていく。同年秋には護摩堂も大体が出来上がり、暮れには本堂から護摩堂の裏を通し四明閣の裏へ下り本坊に通じる回廊も完成している。このように伽藍整備を行ったことで、毎月7日に行われる御通夜祭の参加者が2~30人から100人、500人と増えていき、麓の仁王門の前には円タクが列を作るような盛況になっていった。また新たな財源の確保として、大正9年に鞍馬寺保管林150町が制定されている。翌10年に天狗谷一谷の杉林を払下げ売却して5万3000円が寺の収入となった。この分収金を元に大正12年(1923)5月より寝殿建設に着手している。しかし真純貫主は4月ごろから体調を崩し、5月初旬から大津の日赤病に乾性肋膜炎で入院することとなった。入院は8月中旬まで続いた。この間の同年7月14日には着工した寝殿の上棟式が行われている。ここからさらに11月まで神戸の須磨で転地療養を行い、一度11月末に鞍馬に戻ったもののこれから冬を迎えるため、再び信者が持つ芦屋の別荘に強制移住されている。
そのような中で、同13年(1924)に貞明皇后の行啓の話が突然舞い込んでくる。宮内庁から電話があったのが40日前の10月25日であり、行啓は同年12月3日に決定する。これは鞍馬寺にとっても後白河法皇の御臨幸以来700年ぶりの出来事であった。寝殿の建設はほぼ工事は終わったものの、畳や建具などの内装、そして庭園も未完成のままであった。そればかりか九十九折の参道もまだ行啓の準備ができていなかった。寺の事務方は行啓には関与できないということなので、体調も本調子でなかったがほぼ貫主一人で行わなければならなかった。当日の行啓には貴船神社も含まれたが、鞍馬寺に5時間も滞在されるといった前代未聞の扱いとなった。行啓後の12月7日に再び開門し一般の拝観者を受け入れた。大勢の参拝者が押し寄せ、参道が参拝者の列で陸続きとなった。この一連の対応により、真純貫主は大正8年(1919)の貫主就任以来、最も信任を深めることができたと「独り居るを慎む」に記している。信者達より、貫主の大病は蛇が棲んでいた場所に寝殿を建設したためと指摘され、巽の弁天を造営することとなった経緯を述べることで真純貫主の前半生の自叙伝は終わっている。その後も大正15年(1926)4月11日より25日までの15日間、60年に一度の丙寅御開扉法要を行っている。本尊毘沙門天及び千手観音菩薩そして魔王大僧正を開扉し、さらに大正10年以来行ってきた堂舎修築の落慶供養も行われたようだ。
「鞍馬山小史」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部 1995年刊)の鞍馬寺年表によれば、昭和に入っても鞍馬寺の伽藍整備は続いている。本堂増築の際に発見された経塚は、昭和6年(1931)に発掘調査が行わている。複数の経筒の他、一緒に埋葬された仏像、鏡、懸仏、調度、銅銭など200点以上の遺物が出土した。保元元年(1120)、治承3年(1179)、文応元年(1260)の銘の入った遺物が発見され、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて埋納されたと推定される。鞍馬寺経塚遺物として昭和8年(1933)に重要文化財に指定され、さらに戦後の昭和30年(1955)に国宝に指定されている。
昭和15年(1940)には鉄筋コンクリート造の四層楼 本坊金剛寿命院が完成している。しかし戦時中の昭和20年(1945)1月に奥の院魔王殿を焼失、そして4月には本堂と護摩堂を全焼、本坊の一部も焼失という悲運に見舞われている。戦後も鞍馬山開創1200年祭の記念事業という形で整備事業は続いている。これは宝亀元年(770)に鑑禎が草堂を創建して毘沙門天を祀ったという寺伝に従ったもので、昭和45年(1970)が記念の年になる予定であったと思われるが、昭和49年(1974)4月1日から8日にかけて鞍馬山開創千二百年祈念大祭が行われている。この間、昭和32年(1957)の鞍馬山ケーブル開通を皮切りに、同34年(1959)には仁王門の移築と多宝塔の落慶法要を行っている。その他にも導水工事の完成、防災自動車道路の開通も行う一方で、昭和39年(1964)に仁王門門前に歓喜院を再建している。廃絶した山内の十院九坊を結集する目的で建立され、聖観音像を奉安し写経・法話ならびに書道・華道・茶道・水 墨画によって心を磨く修養道場として使用されている。さらに昭和44年(1969)3月には転法輪堂と宝珠林(青少年育成道場)の落慶法要、同46年(1971)6月7日には本殿金堂の落慶と遷座祭を催している。翌47年(1972)9月7日には霊宝殿が開館し、国宝の毘沙門天三尊像を含む大切な寺宝を護るとともに、自然科学博物苑や與謝野寛・晶子の記念室も設け、鞍馬山全体の自然ミュージアムとして公開している。
昭和49年(1974)3月7日には八功徳水を鞍馬山上に完成させている。270tの防火用貯水槽で、念願であった奥の院方面と本堂周辺消火設備がこれによって整った。この年に行われた鞍馬山開創千二百年祈念大祭以後も、昭和50年(1975)に鞍馬山ケーブルの改修工事を終えている。ちなみに山門駅のある普明殿は平成3年(1991)の竣工である。昭和53年(1978)には本殿金堂の前庭拡張工事が完成している。これにより金堂前の空間が広くなっている。この時に金剛床や翔雲臺が造られたのではないだろうか。「古寺巡礼 27 鞍馬寺」(淡水社 1958年刊)に所収されている竹村俊則の俯瞰図には昭和53年7月の日付が入っている。この画には翔雲臺の形状が確かに描かれている。また「昭和京都名所圖會 3 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)にの竹村画の鳥観図は昭和57年(1982)7月の日付が入り、「翔雲台」の文字が見える。しかし昭和22年7月に描かれた「新撰京都名所圖會 2」(白川書院 1959年刊)の挿画には翔雲臺の凸部分が見えない。
さらに昭和54年(1979)には128tの防火用水槽を東の谷に建設している。これにより、由岐神社から下の諸堂にも放水銃と消火設備を完備することができた。創建から何度も火災を被ってきた鞍馬寺の悲願が達成した時でもある。そして昭和61年(1986)4月6日より20日まで丙寅御開扉法要が催されている。以上が「鞍馬山小史」に見られる鞍馬寺の伽藍整備の歴史である。
上記、「鞍馬山小史」によれば、文化11年(1814)3月29日、火災により本堂以下の多くの堂舎を焼失し、義経着用緋縅の鎧も失われたされている。この大火の後、鞍馬寺はひどく荒れてしまい6院2寺以外全て無住となった。さらに慶応4年(1868)3月に布告された「神仏判然令もしくは神仏分離令」に関する太政官布告などにより、鞍馬山でも廃仏毀釈の波が押し寄せ一山ますます寂れる状況に追い込まれてしまった。そのため鞍馬寺で行われてきた「鞍馬の火祭り」も明治維新以後は寺の地主神である由岐神社が行うこととなった。このことは今も変わっていない。このような状況で、明治元年(1868)11月に青蓮院門跡の配下に復し、同5年には、完成とは至らないものの本堂を再建している。そして同9年(1876)9月11日に総称鞍馬寺としている。それでも復興は程遠く、明治43年(1910)頃の記録によれば、27あった末寺の内、21が無住寺になり、僧はわずか6人しかいない時代になった。「鞍馬山小史」によれば「鞍馬寺がもっとも落魄した時代」であった。このような衰退した鞍馬寺を建て直し今の姿を創り出したのは、信楽香雲4代目貫主とそれに続く香仁5代目貫主であったことがよく分かる。香雲貫主が鞍馬寺の貫主に就任したのは大正8年(1919)のことであった。すぐに本堂の修理に着手し、大正13年(1924)には貞明皇后の行啓を迎えるに至っている。この5年間によって、鞍馬寺の再興とその後の繁栄が約束されたように思われる。
ここからは鞍馬弘教が開宗された戦後間もない時期の宗教、特に仏教を取り巻く情勢について見ていく。
昭和20年(1945)8月15日、日本は敗戦の日を迎えた。連合軍との本土での戦闘はなかったものの、度重なる空襲により200以上の都市が被災し30万人以上の死者、そして1500万人が家を失うこととなった。敗戦後の国民が直面したのは深刻な食糧難とインフレによる生活難であった。米は遅配、欠配が続き、雑炊暮らしが多くなっていった。そして昭和20年10月から昭和24年(1949)4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は公定価格ベースで約100倍に跳ね上がり、昭和22年(1947)のインフレ率は125%となった。
敗戦より時代を遡る昭和14年(1939)4月8日、宗教法規の整備統一を図り宗教団体の地位を明確とし保護・監督を強化するという目的で宗教団体法が布告されている。宗教団体の地位を認めるような言葉を使用しているが、実質的には国家の統制下に宗教団体を置くことを意図したものである。昭和17年までに、教派神道13派、仏教28派,キリスト教2教団の計43団体が認可されている。認可に当たっては宗派や教団をなるべく合同させる方針だったため、仏教は13宗56派が13宗28派に統合されている。またキリスト教は旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)として認可を受けている。これにより全国で寺院7万余、教会2万5千余が認可を受けることになった。
そして終戦を経て、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は内政に関する改革を進める一方,宗教関係を重視した。昭和20年(1945)10月4日、GHQは日本政府宛てに覚書「政治的,社会的及宗教的自由ニ対スル制限除去ノ件」を発出する。更に同年12月15日には,「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」が出る。戦前に制定された宗教団体法が廃止され、代わりに宗教法人令(昭和20年勅令第719号)が公布される。つまりGHQが目指した信教の自由を実現するため、国からの監視や干渉を排除するため宗教団体に法人格を与える法律である。ここに宗教団体とは、「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」と定義され、礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体と団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体が対象とされた。さらに宗教団体は宗教法人となること可能とし、都道府県知事あるいは文部科学大臣。つまり国家が宗教を統治する宗教団体法が廃され、GHQ の占領戦略を反映した宗教法人令が公布されたことにより、既存の宗教団体から分離独立することが法制的にも容易になった。
上記のように、敗戦により信教の自由が齎され全ての宗教が平等の立場に立って自由に布教活動が行えるようになった。しかし戦時中より食糧状況は悪化を極め、さらに住む場所も失った人が都市にあふれている状況で何ができたのであろうか?経済的な困窮は敗戦直後の布教活動を困難にしたが、それ以上に人心の荒廃は凄まじいものであった。昭和21年(1946)の時事通信社の調査によると、宗教を信じる者56.4%に対して信じない者43%であった。それまで不敗と信じ込まされてきた神国日本が鬼畜の連合国に敗れ去ったのだから、人々は精神的大混乱に陥ったのは当然のことであり、「神も仏もあるものか」という言葉がしきりに使われたとされている。
このような混乱の中で活発な布教行動を展開したのが、GHQの保護を受けたキリスト教であった。戦前、戦中と官憲の圧迫と世間の白眼視を受けていたキリスト教も、敗戦後は戦勝国の宗教として優位な立場にあった。民間人の出入国が難しかった時期に、教会関係者は特別に扱われていた。YWCA会長が日本人として戦後初めて海外渡航を許され米国各地を訪問し、米国カトリックの大司教がマッカーサー元帥の賓客として来日している。国内でも敗戦ショックが鎮まるにつれて急速なアメリカ。ブームが起こり始める。この欧米文化へのあこがれが強まるにつれて、その精神的根幹となるキリスト教に対する注目が増していった。昭和26年(1941)6月24日、日本国内のプロテスタント33教派が合同して成立した日本基督教団は300万人の信者を目指し、教会の倍加とともに全国の市町村ごとに聖書研究会の設立を目標とした。終戦時の信徒数17万人程度から3年後には20万人の決信者を得ることとなった。これに対してカトリックは国際的な背景を持ち、なおかつGHQよりキリスト教団の中でも最も鄭重な取り扱いを受けていた。それいもかからず日本基督教団のような派手な運動を展開することはなかったようだ。時流に便乗せず軽薄な信者を粗製乱造することなく独自の方法で教勢を伸ばしていったのがカトリック教会であった。
これに対して、「斜陽の身をかこった」のが神社神道であった。昭和20年12月には主だった幹部がA級戦犯容疑者に指名されるなど、戦後の神社は前途多難な始まりであった。さらに昭和20年12月15日にGHQが政府に対して「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という覚書を発している。これを神道指令と呼んでいる。国家神道の廃止、神祇院の解体、さらに政教分離を果たすのが目的であった。これにより神社は宗教となる以外に存続の道がなくなった。そして昭和22年(1947)2月に宗教法人・神社本庁が発足した。これは全国神社を包括させるための団体で、「伊勢神宮を本宗とする」と規定しているものの、教義を定めず各神社の独自性を重んじる形をとっている。全国8万8057社が神社本庁に加わったが、靖国、稲荷、住吉、大神、春日、熊野坐、熊野那智等約900社は参加せず、単立の道を選んだ。このようにとりあえず戦後の船出をした神社ではあったが、神社神道の教義の構築、参拝者の激減と国からの供進金の廃止、そして氏子制度の崩壊など問題山積のままであった。しかし一番大きな問題は日本人の神社に対する崇敬の念が失われていったことだろう。GHQの意向を慮った地方の官公吏の中には、神社をことさら手厳しく扱うことが進駐軍に対する忠義だと考える者がおり、必要以上に神社に対して圧迫を加えることがあったようだ。また、これを見た国民は「落ち目」になった神社に対して、金属品の盗難や境内樹木の盗伐を行うことが横行したようだ。
また教派神道13派(黒住教、修成派、出雲大社教、扶桑教、実行教、大成教、神習教、御嶽教、神道大教、神理教、禊教、金光教、天理教)も敗戦による影響はそれぞれ異なっていた。戦時中の国家神道と相容れなかった天理教と金光教は敗戦によって自由を得、教義の立て直しと教勢の復興に着手した。それ以外の11派は多かれ少なかれ忠君愛国的な色彩を持っていたため、新たな対処方法の模索が必要であった。さらに天理教、金光教そして黒住経を除く教派神道の各派は分派分裂が起こり、急速に衰退していった。教義の再構築を行ったとはいえ、教派の本質が変わることなく、多くの教派は時代の急速な転換から遊離していったためと考えられる。
檀信徒5000万人と宗教界最大勢力を誇っていた仏教界も、救世助民の大活動をしなければならない立場にありながら分裂と内紛を繰り返した。かつて13宗56派を数えた仏教宗派は戦時中に「小異を捨てて大同につくべし」という国策に応じて13宗28派に一度は統合した。しかし敗戦を迎え、昭和20年(1945)に寺門派が天台寺門宗へ、翌21年(1946)に真盛派も天台真盛宗として天台宗から分離独立している。この独立はある意味で織り込み済みであったが、仏教界の分派独立の騒動はこのあたりから始まったようだ。天台宗にとって衝撃的であったのは、同21年1月に大阪の四天王寺が離脱し和宗総本山を興したことである。近年出版された資料には、当時の混沌とした情勢を具体的に記したものはないが、昭和38年に出版された「戦後宗教回想録」(新日本宗教団体連合会調査室 1963年刊)には今では書けないような裏事情も記されている。同書によれば、経済的に豊かな大寺院が宗派を離脱して単立化する始まりが四天王寺であったようだ。「誰もこのような離脱が行われることを予想もしていなかったので天台宗当局の驚がくはもとより、文部省当局者さえその処置にとまどったといわれている。」とある。しかも続いて鞍馬寺が昭和24年(1949)12月23日、浅草寺が翌25年(1950)に天台宗から独立し聖観音宗総本山となっている。この他にも法相宗から聖徳宗をたてて独立した奈良の法隆寺、浄土宗からその末寺の多くを率いて脱退した京都の知恩院(昭和36年(1961)の法然上人750年忌を機に浄土宗に合流)などがある。また中山妙宗の日蓮宗からの独立は訴訟沙汰となり数年にわたる紛糾になった。高野山真言宗から120ケ寺脱退して空海宗を創設したり、浄土宗から大本山黒谷金戒光明寺が分派(昭和52年(1977)に浄土宗に合流)するなど、戦後数年の仏教界は今では想像できないほど大きく揺れ動いていた。「戦後宗教回想録」は詳しくは記述していないものの、「宗政に対する不満や経済問題による離脱」が多かったようだ。
ちなみに天台寺門宗、天台真盛宗、和宗、鞍馬弘教そして聖観音宗のいずれも天台宗から分離したものの、現在も大乗連盟宗派(天台宗総本山延暦寺、天台寺門宗総本山園城寺、天台真盛宗総本山西教寺、和宗四天王寺、聖観音宗浅草寺、孝道山本仏殿、妙見宗総本山本瀧寺、鞍馬弘教総本山鞍馬寺、金峯山修験本宗、粉河観音宗粉河寺、羽黒山修験本宗荒沢寺、念法眞教総本山金剛寺)に所属している。
戦後仏教界が低迷した理由として「戦後宗教回想録」は以下の点をあげている。
・宗派内の内紛を一般新聞が報道
・「家」の観念が薄らぐことによる檀家制度崩壊の兆し
・キリスト教、新宗教の大攻勢による信徒の減少
・信仰を持たない僧侶の増加
・農地解放による収入減
このような情勢にあって、仏教界でも「すべての仏教徒が、宗派、僧俗の別を問わず、手をたずさえて仏教活動を展開しよう」という全一仏教運動の機運が次第に膨らんでいく。昭和25年(1950)セイロンのコロンボで25か国の代表を集めた第一回世界仏教徒会議が開催された。国内での宗争に明け暮れていた日本仏教界にとって、セイロンやビルマ、タイなどが海外にまで仏教宣布を行おうとしている現状を見て反省する点が多かったようだ。そして同大会では仏教徒会議を隔年で開くこと、そして第二回大会を日本で開催することが決議された。これを受け、翌26年(1951)2月に国際大会開催準備機関として日本仏教徒会議が創設され、同年秋には日本仏教徒全国会議が開催された。分派独立を繰り返してきた仏教界を連合する機運が高まってきたが、「戦後宗教回想録」によれば紆余曲折があったことが分かる。先ず世界大会開催に積極的だったのは「自由仏教人」と呼ばれる宗団から離れて活動を行っている人々であった。宗団の中では志を遂げることが困難であると考え、宗団外での活動を行ってきた人々であるため、各宗派当局とはある意味疎遠な関係にあった。そのため準備活動も宗団の連絡機関であった仏教連合会を頼りにせず財界等から直接資金集めを行ってきた。しかし募財も一向に集まらず期日は迫る中、両者の歩み寄りにより昭和27年(1952)7月に日本仏教徒会議が仏教連合会と手を握り第二回世界仏教徒会議運営委員会が設置される。これが第二回世界仏教徒会議が東京の築地本願寺で開催される2か月前のことであった。仏教連合会にとっても、国際大会開催を失敗すれば日本仏教界の恥を晒すこととなるため、今までの感情の行き違いに捉われている訳にもいかなかったようだ。東京大会は成功裡に終わり、同年12月に世界仏教徒連盟日本センターを発足し、翌28年(1953)8月には第一回全日本仏教徒会議高野山大会を開催している。その翌年(1954)6月に全日本仏教会創立総会を開催し全日本仏教会を承認している。仏教界を統一し僧俗一体のいわゆる全一仏教運動を強力に推進するための団体である。令和3年(2021)6月現在、全日本仏教会には59宗派、37都道府県仏教会、9仏教団体の合計105団体が加盟している。
「鞍馬寺 その9」 の地図
鞍馬寺 その9 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
赤● | ▼ 鞍馬寺 金堂 | 35.1181 | 135.7708 |
01 | 鞍馬寺 歓喜院・修養道場 | 35.1139 | 135.7728 |
02 | ▼ 鞍馬寺 仁王門 | 35.1143 | 135.7729 |
03 | 鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) | 35.1147 | 135.7726 |
04 | ▼ 鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) | 35.1164 | 135.7727 |
05 | ▼ 鞍馬寺 多宝塔 | 35.1167 | 135.7728 |
06 | ▼ 鞍馬寺 寝殿 | 35.1176 | 135.7708 |
07 | ▼ 鞍馬寺 金剛床 | 35.1179 | 135.7709 |
08 | ▼ 鞍馬寺 閼伽井護法善神社 | 35.1183 | 135.7711 |
09 | ▼ 鞍馬寺 光明心殿 | 35.1181 | 135.7705 |
10 | ▼ 鞍馬寺 金剛寿命院 | 35.1179 | 135.7702 |
11 | ▼ 鞍馬寺 翔雲臺 | 35.1179 | 135.771 |
12 | ▼ 鞍馬寺 與謝野晶子・寛歌碑 | 35.1181 | 135.7696 |
13 | ▼ 鞍馬寺 冬柏亭 | 35.118 | 135.7694 |
14 | ▼ 鞍馬寺 牛若丸息つぎの水 | 35.1177 | 135.7691 |
15 | ▼ 鞍馬寺 革堂地蔵尊 | 35.1167 | 135.7728 |
16 | ▼ 鞍馬寺 義経公背比石 | 35.1185 | 135.7678 |
17 | ▼ 鞍馬寺 大杉権現社 | 35.1175 | 135.7669 |
18 | ▼ 鞍馬寺 僧正ガ谷不動堂 | 35.12 | 135.7673 |
19 | 鞍馬寺 義経堂 | 35.1201 | 135.7673 |
20 | ▼ 鞍馬寺 奥の院魔王殿 | 35.1211 | 135.7658 |
21 | ▼ 鞍馬寺 西門 | 35.1207 | 135.7629 |
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