徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2022年 8月

幡枝・木野の町並み

 

幡枝・木野の町並み(はたえだ・きののまちなみ) 2010年9月18日訪問 幡枝・木野の町並み 比叡山を望む 幡枝・木野の町並み 木野駅周辺 補陀洛寺から鞍馬街道に戻り、篠坂を北に上り叡山電鉄鞍馬線の市原駅に戻る。ここより次の訪問地・妙満寺を目指す。最短距離を選んで木野駅下車にしたが、このまま徒歩で鞍馬街道を南に進むか、あるいは京都精華大前駅で下車した方が幡枝の風景を体感する上では良かったのかもしれない。木野駅から妙満寺まで、そして妙満寺から岩倉の山住神社までの地域は左京区岩倉〇〇という地名になっている。ちょうど訪問した12年前、叡山電鉄鞍馬線の南側の一帯は正に区画整理が成されており… ►続きを読む

 

妙満寺 本坊庭園

 

妙満寺 本坊庭園(みょうまんじ ほんぼうていえん) 2010年9月18日訪問 妙満寺 本坊庭園 中央台形部分が旧雪の庭と思われる 妙満寺 その2では、岩倉幡枝への移転から境内の様子を見て行った。妙満寺の最後の項として本坊庭園について書いてみたい。 この妙満寺の庭園は、「雪月花の庭」や「雪の庭」の検索ワードでヒットする。先ずは「雪月花の庭」について調べてみる。もともと「雪月花の庭」とは誰が呼んだのであろうか?このあたりから分からないことが始まる。重森三玲の「日本庭園史大系」を調べてみても、清水寺成就院は所収されているものの、妙満寺は全国庭園所在一覧の京都府202件の中に含まれているが、「江… ►続きを読む

 

妙満寺 その2

 

妙満寺(みょうまんじ)その2 2010年9月18日訪問 妙満寺 その2 本坊 妙満寺では、開祖である日什上人の生涯と妙満寺の開創から昭和の遷堂までの歴史を見てきた。この項では現在の岩倉幡枝の境内の様子を記していく。 妙満寺 その2 境内図 妙満寺 その2 仏舎利大塔 妙満寺 その2 仏足石 天正11年(1583)豊臣秀吉の命による寺町二条下ルへの移転後、約400年間妙満寺は寺町二条で数度の焼亡と復興を繰り返してきた。明治初年の上知令によって多くの塔頭を失い寺地も半減、さらに昭和20年(1945)の強制疎開によって再び塔頭4院の寺地と建物を失うという痛手を蒙った。戦後、寺… ►続きを読む

 

妙満寺

 

妙満寺(みょうまんじ) 2010年9月18日訪問 妙満寺 境内から比叡山を望む 叡山電鉄鞍馬線の木野駅で下車して妙満寺に向かう。修学院離宮や円通寺を訪問した際にも立ち寄る機会があったものの、なぜか予定には入れてこなかった。今回は鞍馬から岩倉を廻る中でこの寺院の訪問を決めた。もし京の訪問から外したら、別の日にここだけを訪れるような予定を組まなければならなくなると思いがしたためである。 正式には顕本法華宗総本山 妙塔山 妙満寺という名称になる。公式HPの宗名由来を見ると、明治9年(1876)に「日蓮宗妙満寺派」を公称するとあるので、もともとは日蓮宗であったことが分かる。明治31年(1898)… ►続きを読む

 

篠坂

 

篠坂(しのざか) 2010年9月18日訪問 篠坂 補陀洛寺前の坂 南に下って行く 補陀洛寺と恵光寺のあるあたりから鞍馬街道(府道40号下鴨静原大原線)は南にやや下って行く。この坂は篠坂と呼ばれている。竹村俊則は「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂 1982年刊)で下記のように記している。 [篠坂]は小町寺の前の峠路をいう。一に「志野坂」とも記す。 また綱本逸雄氏の「京都三山石仏・石碑事典」(勉誠出版 2016年刊)によれば、補陀洛寺の墓地には約300体の墓石や供養塔が立ち並んでいる。室町から江戸にかけてのものが多いが中には鎌倉後期の石仏も見られるようだ。鞍馬川流域の人々は、その流域に死者… ►続きを読む

 

補陀洛寺

 

天台宗延暦寺派 如意山 補陀洛寺(ふだらくじ) 2010年9月18日訪問 補陀洛寺 小野小町供養塔境内北隅の最も高い場所に位置する 叡山電鉄鞍馬線の市原駅を下車し鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩くと、観音道是より三町と惺窩先生幽栖址従是西二丁の2つの道標が現れる。ここよりさらに200mほど進むと東側の高台の上に補陀洛寺がある。 補陀洛寺 鞍馬街道沿いの寺号標 こまち寺とある 補陀洛寺 鞍馬街道から石段で本堂へ登っていく 補陀洛寺は天台宗延暦寺派、山号は如意山である。創建、変遷の詳細は不明であるが、「近畿歴覧記」(新修 京都叢書 第三巻「近畿歴覧記 雍州府志」(… ►続きを読む

 

惺窩先生幽栖址是より西二町 その2

 

惺窩先生幽栖址従是西二丁(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう)その2 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 その2 小さな石碑 惺窩先生幽栖址従是西二丁では藤原惺窩の生涯と門人・交友のあった人々について記した。ここではこの道標と市原にあった惺窩山荘について書いていくこととする。距離の単位1町は現在の109mとされているので、この道標から西に200m強離れた場所に藤原惺窩の市原山荘があったということになる。どうもこの西二町をあてにしてはいけないように思われる。今回は訪れなかったが、西二町の道標から500m以上離れた北市原第二児童公園に藤原惺窩市原山荘跡の石碑が建て… ►続きを読む

 

惺窩先生幽栖址是より西二町

 

惺窩先生幽栖址是より西二町(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう) 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 鞍馬街道沿いの小さな石碑 鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩いて行くと、観音道是より三町の道標が目に入ってくる。この道標については市原の町並みで記したように小字堂山にある帰源寺の本尊十一面観音立像を詣でるためのものと思われる。同じ民家の南端の軒下に惺窩先生幽栖址従是西二丁という小さな自然石の道標がある。勿論、惺窩先生とは戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者・藤原惺窩のことである。藤原惺窩は永禄4年(1561)公家の冷泉為純の三男として下冷泉家… ►続きを読む

 

市原の町並み

 

市原の町並み(いちはらのまちなみ) 2010年9月18日訪問 市原の町並み また同書の市原野の条には、「幡枝村から市原村中心部に至る鞍馬街道沿いの細長い山間」を市原野と呼ぶと記されている。この地は弘仁4年(813)10月7日に嵯峨天皇が遊猟したことからも分かるように平安時代には遊猟地として知られていた。次いで鞍馬寺への参詣や大原へ行くための街道として利用されてきた。「山槐記」治承3年(1179)5月25日の条には「巳終刻参鞍馬寺云々、於櫟原野河辺避暑」とある。この参拝客を狙った盗賊も出没していたようだ。鎌倉時代の説話集「古今著聞集」には、市原野で源頼光を待ち伏せた鬼童丸が逆に一刀のもとに… ►続きを読む

 
 

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