幡枝・木野の町並み
幡枝・木野の町並み(はたえだ・きののまちなみ) 2010年9月18日訪問
補陀洛寺から鞍馬街道に戻り、篠坂を北に上り叡山電鉄鞍馬線の市原駅に戻る。ここより次の訪問地・妙満寺を目指す。最短距離を選んで木野駅下車にしたが、このまま徒歩で鞍馬街道を南に進むか、あるいは京都精華大前駅で下車した方が幡枝の風景を体感する上では良かったのかもしれない。木野駅から妙満寺まで、そして妙満寺から岩倉の山住神社までの地域は左京区岩倉〇〇という地名になっている。ちょうど訪問した12年前、叡山電鉄鞍馬線の南側の一帯は正に区画整理が成されており、これから大量の戸建て住宅が建てられていくことが約束されていた。さらにその2年前の2008年に幡枝の圓通寺を訪問した際、庭園の東側に下り栗栖野瓦窯跡を見ながらバス通り(檜峠)に出た。この時も幡枝(岩倉幡枝町)の長閑な田園が造成されていく様を見せられたが、今回はまた一段と開発が進んでしまった印象を受けた。京都市営地下鉄烏丸線の国際会館駅から叡山電鉄鞍馬線の岩倉駅と京都精華大前駅の三角地帯は、今までは宝が池の裏側というイメージが強かった。しかしそんなに交通の便も悪くはない上、まだ周囲に手つかずの丘陵地も残っているので住宅地としての価値はかなり高いと思われる。だから人々が多く集まってくるのはやむ得ないことでもある。Google Mapのストリートビューで圓通寺の駐車場周辺の2009年12月と2020年8月の風景を見比べていただければ、ほぼこの10年間の風景の違いが分かると思われる。
もともとこの地域は愛宕郡小野郷の一部だったと考えられる。「山城名跡巡行志」(新修 京都叢書 第十巻「山城国名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊))には小野郷について下記のような記述がある。
〇小野 古ノ郷名也小野村今高野小野ノ郷ハ松崎山端松崎出戸已上大原静原ニ至テ皆小野ノ郷也當國ニ小野三所アリ一ハ宇治郷山科ノ小野自二小野村一至二朱雀安禅寺一皆小野庄也一ハ葛城郡北山ノ小野眞弓杉垢坂等ノ六村ニ愛宕郡雲畑ヲ加テ小野七村トイフ一ハ愛宕郡 即チ此三所共ニ在二和歌ニ一
つまり山城国には小野郷は3か所あり、その内の「小野村今高野小野ノ郷ハ松崎山端松崎出戸已上大原静原ニ至テ皆小野ノ郷也」という広域の小野郷の中に幡枝と木野が含まれていると考える。つまり修学院、高野から八瀬、大原にかけて、さらに小野氷室を松ヶ崎氷室とも称したことを考慮に入れると松ヶ崎も含まれていたとも考えられる。さらに高野川に架かる南北の橋を小野橋、その橋を渡り狐坂(宝が池と松崎をつなぐ坂)へと続く山沿いの道を小野畷と称することから、現在の岩倉の一部も小野の郷域内だったのかもしれない。
明治元年(1868)山城国愛宕郡下の、岩倉村、木野村、中村、長谷村、幡枝村、花園村の六村が京都府に編入されている。その4年後の明治5年(1872)木野村は岩倉村編入される。
明治11年(1878)の郡区町村編制法で愛宕郡岩倉村、中村、長谷村、幡枝村、花園村の五村が発足した。明治22年(1889)の町村制発足で、五村は統合し愛宕郡岩倉村が誕生、旧村名を継承した5大字が設置される。
そして昭和24年(1949)に京都市左京区に八瀬、大原、静市、花脊とともに編入されている。
大字岩倉は岩倉を冠する9町に編成され、他の4大字は岩倉中町、岩倉長谷町、岩倉幡枝町、岩倉花園町となった。明治元年(1868)山城国愛宕郡下の、岩倉村、木野村、中村、長谷村、幡枝村、花園村の六村が京都府に編入されている。その4年後の明治5年(1872)木野村は岩倉村編入される。
明治11年(1878)の郡区町村編制法で愛宕郡岩倉村、中村、長谷村、幡枝村、花園村の五村が発足した。明治22年(1889)の町村制発足で、五村は統合し愛宕郡岩倉村が誕生、旧村名を継承した5大字が設置される。
そして昭和24年(1949)に京都市左京区に八瀬、大原、静市、花脊とともに編入されている。
大字岩倉は岩倉を冠する9町に編成され、他の4大字は岩倉中町、岩倉長谷町、岩倉幡枝町、岩倉花園町となった。
かつての幡枝村は現在の岩倉幡枝町、岩倉南池田町、岩倉北池田町、岩倉南平岡町、岩倉北平岡町、岩倉南木野町、そして旧木野村である岩倉木野町を加えた7町が今回の範囲ということになる。かつての幡枝村は現在の岩倉幡枝町、岩倉南池田町、岩倉北池田町、岩倉南平岡町、岩倉北平岡町、岩倉南木野町、そして旧木野村である岩倉木野町を加えた7町が今回の範囲ということになる。
「京都府愛宕郡村誌」(愛宕郡役所編 1911年刊)によれば幡枝は「口碑に舊と鉾枝と称せしが寛平六年男山八幡宮を勧請せしより幡枝と改むといふ」とある。寛平6年は894年で石清水八幡宮から応神天皇と神功皇后を祭神として、迎え幡枝八幡宮を創祀している。
また木野についても以下のように説明している。
本部落の住民は舊と葛城郡嵯峨村深草里に住し野宮社愛宕社の神職となり土器製造を業とし朝廷の御用器を調進せるを以て其原料土を随所に掘採する事を許されたり応仁年間大字幡枝 小字福枝ニ良土を発見し此に移住するもの多く元亀年間に至り此地を拝領して開拓し元亀年間より移住して一部落を成せり
室町幕府により、土器製造用の土を嵯峨土器師に自由に取らせるように上賀茂神社はじめ各所に指令した文書が岩倉木野町に鎮座する愛宕神社に愛宕社文書として残されている。また土の採取以外にも諸公事免除の特権など保証されていたようだ。嵯峨野の野宮に居住していた人々は応仁文明年間(1467~87)に幡枝へ移住、元亀3年(1572)には木野へ移ったことが分かる。土器師は愛宕社と野宮社に仕え、朝廷や足利将軍家に祭器や食器を献上したと伝えられている。江戸時代に入っても毎年1月5日と8月1日に烏帽子、素襖を着て土器を禁裏および仙洞に献上していることが「日次紀事」(新修 京都叢書 第二巻「扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊))でも確認できる。
〇初五日 [公事] △北山幡枝土器師 土器師五郎作太夫著二烏帽子蘇芳一而参二禁裏院中一献二三度五度土器於清所一
八月 [公事] △北山幡枝陶家著二烏帽子蘇袍一献二土器数品於禁裏院中及高貴家一同二于正月之儀一
また「史料京都の歴史 第8巻 左京区」(平凡社 1985年刊)の岩倉村の項には、岩倉内の土器村の由来を示す文書として江戸時代初期の延宝3年(1675)4月14日付の京都代官五味藤九に宛てた口上書(53)がある。
乍ㇾ恐口上書
一、私共往古ハ嵯峨ニ罷有、禁中様土器御用承相勤来リ申候処ニ、土悪敷御座候而、土器御用ニ立不ㇾ申候故、土能所ヲ見立参候様ニと被ㇾ為二仰付一、則幡枝村ニ七拾間四方之御領地被ㇾ為二仰付一、所持仕、其御綸旨・諸法度万事を相守り、一分之御役相勤申候。御用土器仕候ニ付、当村ハ余方へ構(ママ)不ㇾ申候。御法度其外何ニよらす、村一分ニ仕来申候故、乍ㇾ憚御断申上候間、被ㇾ為二聞召上一往古通ニ被ㇾ為二仰付一被下ㇾ候ハヽ、難ㇾ有可ㇾ奉ㇾ存候。以上。
延宝三年卯ノ、四月十四日 かわらけ村惣中
五味藤九郎様
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