徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:洛中

泉妙院 その2

 

泉妙院(せんみょういん)その2 2010年1月17日訪問 泉妙院 緒方家墓所 2016年3月5日撮影右側宝塔:光琳・乾山両人の供養塔  2019年最初のエントリーは、正月に相応しい国宝「紅白梅図屏風」の作者・尾形光琳になりました。  泉妙院では、尾形家の来歴から光琳が画家への道を歩み始める契機について、さらに門前に建立された 尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑を手掛かりに、建立者の三越が明治後期から行ってきた尾形光琳に対する顕彰活動について見て来た。この項では白崎秀雄の「尾形光琳取材ノート」を元にして、光琳が生存していた頃の三越との関係を調べてみる。 雑誌「日本美術工芸」に「尾形光琳… ►続きを読む

 

泉妙院

 

泉妙院(せんみょういん)2010年1月17日訪問 泉妙院  妙顯寺の山門を出て、寺之内通を東に20メートル進むと泉妙院の山門が現れる。泉妙院は妙顯寺の多くの塔頭の中の一つである。一般に公開されていないため常に山門は閉ざされており、境内の様子を外から伺うことはできない。山門の右手には尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑が建つ。この石碑は昭和51年(1976)に三越が建立したものである。勿論、東京日本橋の百貨店の三越のことである。 尾形光琳は万治元年(1658)京都の呉服商・雁金屋の当主・尾形宗謙の次男として生まれている。そして光琳の五歳下の弟が陶芸家の尾形乾山である。この2人の芸術家を生… ►続きを読む

 

妙顯寺

 

日蓮宗 龍華 具足山 妙顯寺(みょうけんじ)2010年1月17日訪問 妙顕寺 山門  宝鏡寺の特別公開を拝観した後、寺之内通を100メートル程度東に進むと、妙顯寺の山門が現れる。妙顯寺は日蓮宗の大本山、開基は日像である。 日像は文永6年(1269)下総国に生まれている。俗姓は平賀氏で幼名は経一丸。建治元年(1275)日蓮の弟子で兄の日朗に師事し、後に日蓮の弟子となっている。永仁元年(1293)日蓮の遺命を受け、京都での布教を始める。上洛して間もない永仁2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顯寺2世となる大覚らの帰依を受ける。し… ►続きを読む

 

宝鏡寺 その2

 

臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)その2 2010年1月17日訪問 宝鏡寺  宝鏡寺では、鎌倉時代後期から始まった五山制度から京都尼五山の成立、そして無外如大による景愛寺の創建、そして現在に残る大聖寺と宝鏡寺が子院として景愛寺を継承してきたことで終わった。この項では、いよいよ宝鏡寺創建の歴史に入っていく。 異説はあるものの、無外如大開山開基で景愛寺が創建されたのは、宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」から弘安8年(1285)と考えられる。荒川玲子氏の「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)によれば、景愛寺の歴… ►続きを読む

 

宝鏡寺

 

臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)2010年1月17日訪問 宝鏡寺 山門  小川にかかる百々橋跡を西陣側に渡ると、寺之内通の北側に宝鏡寺門跡の山門が現れる。 話しを宝鏡寺の歴史に進める前に、日本における五山制度の形成と尼五山第1位の景愛寺について見て行くこととする。室町時代に京都五山と鎌倉五山が制定されたことは比較的良く知られている。しかし、それ以前にはどのような格式があったかは明らかではない。元々は中国・南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所すなわち天竺五精舎の故事に倣ったのが始まりとされている。鎌倉時代後期日本にも禅宗の普及が始まり、正安元年(1299)鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智… ►続きを読む

 

表千家 不審菴 その2

 

表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)その2 2010年1月17日訪問 表千家 不審菴紀州藩より文政8年(1825)に拝領された長屋門  表千家 不審菴では、千少庵の大徳寺門前屋敷と二条屋敷に設けられた茶室について書いてきた。この項では千家再興後の少庵、宗旦による本法寺屋敷の不審菴を中心に見て行く。既に裏千家 今日庵の項で一部記したので重複する所もあるが、もう一度時系列的に変遷を辿る。 先ず少庵が二条釜座から本法寺門前に移居したのは、千利休が賜死する直前の天正19年(1591)正月のことであった。詳細不明であるが、秀吉の町割替えによって立ち退かざるを得なくなったようだ。敷地規模は「南… ►続きを読む

 

表千家 不審菴

 

表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問 表千家 不審菴  裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。 千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたとい… ►続きを読む

 

裏千家 今日庵

 

裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)2010年1月17日訪問 裏千家 今日庵 兜門  水火天満宮のある天神公園から小川通を南に下ると最初に現れるのが裏千家である。表千家と裏千家は、この小川通の東側に並んで建っている。2008年5月に訪問した際に、表千家と裏千家を記し、両家及び武者小路を含めた三千家の成り立ちについて触れている。利休亡き後、文禄3年(1594)千家は再興を果たし、2代千少庵そして3代千宗旦と利休の茶を継承してゆく。さらに3代宗旦の三男である江岑宗左が千家の継嗣として不審菴を継ぐ。宗旦が隠居所として不審菴の裏に建てた今日庵を四男の仙叟宗室が受け継ぎ、独立して裏千家を成し… ►続きを読む

 

本法寺

 

日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ) 2010年1月17日訪問 本法寺  水火天満宮のある天神公園から、かつての小川の痕跡を求め、小川通を寺之内通まで下り、百々橋 その2、その3、その4の礎石まで来てしまった。今一度、小川通を北に裏千家の今日庵の前まで戻ると、通りの西側に本法寺の山門が現れる。この山門の前には、小川に掛っていた石橋が今も残されている。 本法寺は日蓮宗の本山で、室町時代の日蓮宗の僧侶・日親によって築かれた寺院。その開創の時期や場所については諸説あるようだが、本法寺の公式HPでは、 永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享… ►続きを読む

 

百々橋 その4

 

百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問 小川  百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。 文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名… ►続きを読む

 

百々橋 その3

 

百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問 小川  百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。 享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元… ►続きを読む

 

百々橋 その2

 

百々橋(どどばし)その2 2010年1月17日訪問 小川 小川町通寺之内の西北角に残された百々橋の礎石  水火天満宮の南に広がる扇町児童公園から小川通に入り南に下る。小川通が寺之内通と交わる北西角に細長い児童公園が現れる。小川の項でも触れたように、かつて小川通“おがわとおり”に沿って小川“こかわ”が流れていた。この寺之内通と交わる場所は百々の辻と呼ばれ、宝鏡寺を含む寺之内通の南北町は今も百々町という町名になっている。応仁以前の景観を描いたとされる中昔京師地図にも「百百ノ辻寺ノ内安居院」と記され、小川にも橋が描かれている。百百ノ辻に掛かる橋から百々橋と呼ばれている。百々の名は古より使われて… ►続きを読む

 

小川

 

小川(こかわ)2010年1月17日訪問 小川 小川町通寺之内の西北角に残された百々橋の礎石 左端に宝鏡寺の建物が見える  水火天満宮の南に広がる扇町児童公園は、天神公園として地元の人々の憩いの場となっている。堀川通を通る京都市営バスの停留所名も天神公園前とあるので、こちらの名の方が通りが良いのかもしれない。この公園の南東角より小川通に入る所、すなわち小川通上御霊前通の交差点の南西側にも小さな空き地がある。遊具が置かれているので、こちらも公園なのであろう。町名は上京区禅昌院町で、本法寺前町と百々町を加えると上御陵前通と寺之内通の間の小川通の両側町となる。なんとなく不自然に余った空間に見える… ►続きを読む

 

水火天満宮

 

水火天満宮(すいかてんまんぐう)2010年1月17日訪問 水火天満宮 堀川通に面した鳥居  上京区扇町の大応寺の左隣には水火天満宮の鳥居が建つ。 水火天満宮はその名称から分るように、菅原道真を祀るために創建された神社である。旧村社、社殿によれば、延長元年(923)6月25日、醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を勧請して建立されたものである。  昌泰4年(901)1月昌泰の変が起き、右大臣菅原道真が大宰員外帥として大宰府へ左遷されている。この左遷の原因が左大臣藤原時平の讒言であったのは有名な話である。事件は単純な2人の人間関係だけではなく、宇多上皇と醍醐天皇及びそれを取り巻く人々の政治主導… ►続きを読む

 

大応寺

 

臨済宗相国寺派 金剛山 大応寺(だいおうじ)2010年1月17日訪問 大応寺  妙覺寺の大門を出て上御霊前通を西に進むと堀川通に出る前に扇町児童公園が現れる。次の訪問地の大応寺は、この児童公園の北側に位置する。 大応寺は臨済宗相国寺派、山号は金剛山。正保2年(1645)悲田院が泉涌寺内に移転した跡地に建立されている。悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。日本においては、聖徳太子が大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てたのを最初とする伝承がある。ちなみに四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの施設で構成されている。敬田院は寺院そのものであり… ►続きを読む

 

妙覺寺

 

日蓮宗本山 具足山 妙覺寺(みょうかくじ)2010年1月17日訪問 妙覚寺 大門  是より洛中碑の室町小学校の校門より北西の下清蔵口町に向う。この辺りには日蓮宗の寺院がいくつかあるが、その内の妙覺寺を先ず訪れる。 妙覺寺は日蓮宗の本山、山号は具足山で通称北竜華。妙顕寺、立本寺とともに日蓮宗の名刹三具足山の一つ。日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は鎌倉時代の日蓮宗の僧で生没年不詳。紀州に生まれ、妙顕寺の大覚に師事。備前及び備中に布教を行う。永和4年(1378)1月18日、弟日成とともに妙顕寺を出て、同年中に四条大宮に妙覺寺を開く。なお寺伝では日像を開山、日実を第4世としている。外護者は日像… ►続きを読む

 

是より洛中碑

 

是より洛中碑(これよりらくちゅうひ)2010年1月17日訪問 是より洛中碑  光照院門跡の山門右脇にある持明院仙洞御所跡の石碑を確認した後、室町通に戻り、室町頭町にある室町小学校を目指す。 室町頭町は室町通の両側町。町名の頭町は室町通の北端という意味を持っている。現在の室町通は、途中東本願寺と京都駅で分断されているものの、北は北山通から南は久世橋通まで通じる南北路である。しかし寺之内通で凡そ30mほど東側に移っている。この寺之内通を北端として、南は上立売通までが室町頭町とされている。なお「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、天文15年(1546)11月1… ►続きを読む

 

持明院仙洞御所跡

 

持明院仙洞御所跡(じみょういんせんとうごしょあと)2010年1月17日訪問 持明院仙洞御所跡  光照院門跡の山門右脇に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。後伏見上皇の皇女・進子内親王が泉涌寺の無人如導によって落飾し、自本覚公尼となったのは、延文元年(1356)のこととされている。この時に室町一条北に光明院が創建されたと考えられている。その後、応仁の乱によって光明院が焼失すると、文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。光明院の開山となった自本覚公尼の父である後伏見天皇が持明院統であったことから、この所縁のある土地を賜ったのであろう。 もともと持明院は藤原基頼の邸宅で… ►続きを読む

 

光照院門跡

 

光照院門跡(こうしょういんもんぜき)2010年1月17日訪問 光照院門跡(常磐御所)  高松伸設計の織陣Ⅲの斜め前に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。1998年と比較的新しい碑の建立者は光照院門跡 田中澄俊と恵聖院門主 中島真栄となっている。持明院仙洞御所については後ほど記すとし、先ずは現在存在している光照院門跡の歴史について書いてみる。 光照院門跡は浄土宗知恩院派の門跡寺院で常盤御所と称する。開山は後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇・光明天皇の妹宮にあたる。寺伝によれば、宮は建武2年(1335)に生まれたとされている。父である後伏見上皇が崩御されたのが建武3年(1336)とされているの… ►続きを読む

 

織陣

 

織陣(おりじん)2010年1月17日訪問 織陣Ⅰ 昭和56年(1981)竣工  宝暦・明和事件の背景とその影響を記すために、藤井右門邸跡から始まり、その2、その3、その4、その5までと、思ってもいなかった程の長文になってしまった。この明和事件の発生した明和4年(1767)は、幕末維新の100年前に当たる。まだ幕府の基盤も安定していた時期であり、尊王の意識はあったものの、実際に倒幕が可能だという見通しは藤井らにとっても無かったと思われる。現在から250年前に発生した小さな事件が、幕末維新の大きなうねりに繋がっていくためには、まだまだ多くの人々の登場を待たねばならなかった。 明田鉄男氏の「幕… ►続きを読む

 
 

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