徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:洛中

梨木神社 その6

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その6 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その5でも触れたように、安政4年(1857)12月8日、幕府は朝廷に対して外交事情を奏聞するため林大学頭復斎と目付の津田正路へ上京を命じている。これは日米和親条約から新条約締結への交渉経緯とハリスによって齎された重大事件情報への対応策についての説明のためである。重大事件情報、すなわちアヘン戦争に勝利したイギリスが愈々日本に進出してくること、そしてそれを防ぎ得る手段は日本が早期に開国を決断し、アメリカと通商条約を結ぶこととハリスは主張している。ハリスは重大情報として、老中・堀田正睦を始めとした幕吏に凡そ… ►続きを読む

 

梨木神社 その5

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その5 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その4では、天璋院篤姫入輿後の経過と政情の変化について記した。安政4年(1857)の年末、遂に島津斉彬の命を受けた西郷吉之助が橋本左内を訪ねている。この項では橋本左内の江戸における運動の展開について記す。 安政4年(1857)8月20日、松平春嶽は橋本左内を江戸に召し即日侍読兼内用掛に命じている。斉彬の書簡から半年が経ち、いよいよ継嗣問題に猶予ならないものを感じたのかもしれない。この年の6月17日に老中阿部正弘が死去している。同月25日付の中根雪江が橋本左内に宛てた書簡(「続日本史籍協会叢書 橋本景… ►続きを読む

 

梨木神社 その4

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その4 2010年1月17日訪問 梨木神社 拝殿  梨木神社 その3では、関が原の戦い以降の徳川家と島津家との関係から島津家からの将軍入輿までの説明で終わってしまった。このまま天璋院篤姫が選ばれた経緯から実の父である島津忠剛の死去、御所の炎上そして安政大地震の発生による繰延べ等を書いて行くと、ますます梨木神社から離れて行くので、改めて薩摩藩に関係する項で書くこととする。この項では安政3年(1856)12月18日に行われた婚礼の前後あたりから話を始める。 既に梨木神社 その2からその3にかけて記したように、正式に篤姫が斉彬の実子となったのは嘉永6年(1853)3… ►続きを読む

 

梨木神社 その3

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その3 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門  梨木神社 その2では、三条実萬、実美父子の事蹟を書いて行く上で参考とすべき史料から始め、安政の大獄の契機となった継嗣問題について書いてきた。この中で、天璋院入輿と将軍継嗣問題の関係について、「どちらが後か先かは判別が難しい」と記した。一般的には、島津斉彬によって将軍継嗣問題の打開策として天璋院入輿が行われたとされている。確かに御台所となった篤姫は一橋慶喜を儲君とすべく大奥において活動したことは事実である。しかし将軍家からの縁組申し入れ当初から継嗣問題が存在したわけではなかったようだ。この項では安政の大獄の引き… ►続きを読む

 

梨木神社 その2

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その2 2010年1月17日訪問 梨木神社 一の鳥居から二の鳥居を眺める 今はこの光景を見ることができない  大久保利通旧邸でも少し触れたが、昨年末に今まで撮影してきた全ての画像データとブログを書くために参考にした文献のスキャニングデータを格納していた外付ハードディスクが破損してしまった。幸いバックアップを取ってあったため、かなりの時間を要したもののほぼデータを復元することができた。年末にそんな不幸があった上、年が明けた1月にはPCの起動ディスクに不具合が生じ、PCを起動させることもできなくなった。僅か2か月間の間に二度もハードディスクを壊してしまうという事態… ►続きを読む

 

大久保利通旧邸 その3

 

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その3 2010年1月17日訪問 大久保利通旧邸 中央に石薬師中筋が見える 西郷の寓居もこのあたりにあったと思われる  大久保利通旧邸 その2では大久保利通が小松帯刀より御花畑邸にあった茶室を譲り受けて、石薬師邸の南庭に移設したところまでを書いてきた。この項では、有待庵の謂れとともに小松の御花畑邸で締結されたとする薩長同盟について調べてみる。 前述のように大久保利武の「有待庵を繞る維新史談」(「尚友ブックレット9 重野安繹『西郷南洲逸話』、大久保利武『有待庵を繞る維新史談』」(芙蓉書房出版 2011年刊) 以後「維新史談」と記す)にも記されてい… ►続きを読む

 

大久保利通旧邸 その2

 

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その2 2010年1月17日訪問 大久保利通旧邸 京都市教育会が昭和2年(1927)に建立した石碑  大久保利通旧邸では、大久保利通の幕末維新時の行動を時系列に見て来た。最初の上京が文久2年(1862)1月13日であり、明治元年(1868)9月20日に行われた東京行幸までの6年余の期間が大久保にとっての京都における政治活動の全てであった。この期間の前半は錦小路や二本松の京都薩摩藩で暮らしていたが、後半は藩邸外に邸宅を持ち他藩の藩士特に長州藩士との情報交換に用いたことが分かる。薩長同盟が締結された慶応2年(1866)正月の後となる同年春には、御所… ►続きを読む

 

大久保利通旧邸

 

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい) 2010年1月17日訪問 大久保利通旧邸 右端に寺町通が見える  個人的な話で恐縮ですが、先日PCのハードディスクを壊し画像データを含む全てのデータを一時的に失いました。定期的なバックアップを行っていたので、幸いなことに一応は元の状態に復旧することができました。その後の再発防止策等に時間を要し、中々ブログの更新を行うことがませんでした。そのため、この大久保利通旧邸に関する一連の書き込みが2015年最後の更新になります。  2014年6月に京都御所 その3を書き始めて以来、京都御所 その13まで実に長い期間、京都御所あるいは京都御苑について調べ… ►続きを読む

 

京都御所 その13

 

京都御所(きょうとごしょ)その13 2010年1月17日訪問 京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影  京都御所 その12では長州と因州そして有栖川宮家との関係を見てきた。因州鳥取藩と有栖川宮家の関係は、水戸藩と有栖川宮家の縁戚関係が基となっている。つまり徳川斉昭の五男・慶徳が池田家の養子となったことで、水戸との関係が因州に継承されたと考えてもよいだろう。そして藩内の急進的な尊皇攘夷派が、因習的な藩主側近を武力で排除する本圀寺事件を境にして、事件の実行犯である河田等と宮家が直接結ばれるようになっている。さらに中村武生氏の「寺田屋事件の研究」(講談社現代新書2131 2011年刊)によ… ►続きを読む

 

京都御所 その12

 

京都御所(きょうとごしょ)その12 2010年1月17日訪問 京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影  京都御所 その10とその11で7月17日から18日掛けての幕府側と長州の交渉が決裂するまでを見てきた。特に一橋慶喜としては都合7回にわたる説諭も功を奏さず、ついに開戦を迎える。この項では長州と因州そして有栖川宮家との関係がいかに形成されていったかを記す。 長州藩が支援を依頼した因州鳥取藩、津和野藩、備前岡山藩そして対馬藩はいずれも長州と同様の西国の外様大名である。例えば長州と因州の間には石見浜田藩と出雲松江藩が存在するので、必ずしも隣接した藩に対して支援を求めた訳ではない。この二藩… ►続きを読む

 

京都御所 その11

 

京都御所(きょうとごしょ)その11 2010年1月17日訪問 京都御所 諸大夫の間 2014年10月8日撮影  京都御所 その10は7月18日までの大まかな長州の進発に至る経緯である。繰り返しにはなるが、桂小五郎は八月十八日の政変以降、京摂に残り政情分析を続けてきた。しかし文久3年(1863)10月3日に帰国し、一時は諸藩に対して長州藩の雪冤を訴える活動に従事している。そして元治元年(1864)正月12日には再び京に戻るべく山口を発ち、18日に入京を果たしている。ここから甲子戦争までの7ヶ月間、京に於いて政情を観察し、長州藩を支援する諸藩及び堂上人の組織化を計る役割に就いている。 これに… ►続きを読む

 

京都御所 その10

 

京都御所(きょうとごしょ)その10 2010年1月17日訪問 京都御所 承明門より紫宸殿を臨む 2014年10月8日撮影  京都御所 その8と、その9で、禁裏御守衛総督である一橋慶喜を中心に守衛側の行動について書いてきた。この項より、福原越後軍、国司信濃軍そして真木・久坂軍以外の長州藩と長州支援の諸藩の動きについて書いてみる。 元治元年(1864)7月18日の前日、つまり17日の夜から18日の暁にかけて宮中に於いて評定が行われている。一橋慶喜は、この評定が始まる前に水戸藩士大野謙介をして、長州藩留守居乃美織江を説き、伏見・嵯峨に赴き撤兵の周旋を行わせようとしている。これは慶喜が行った通算… ►続きを読む

 

京都御所 その9

 

京都御所(きょうとごしょ)その9 2010年1月17日訪問 京都御所 常御殿 2008年5月13日撮影  京都御所 その8では、禁裏御守衛総督である一橋慶喜に、伏見、山崎に屯集する長州兵への対応が任された後の交渉から元治元年(1864)7月18日深夜の参内、そして共に病にあった松平容保と松平定敬の三大までを見てきた。ここでは参代後の一橋慶喜の行動と十津川郷士による鳳輦奪回の企てについて書いて行く。 戎衣に着替えた一橋慶喜は、手兵を率いて諸門の防御を巡検している。歩兵隊100人余、講武所の小筒組50人、遊撃隊150人、別手組100人、床几隊100人、そして松浦作十郎、原市之進、梅沢孫太郎と… ►続きを読む

 

京都御所 その8

 

京都御所(きょうとごしょ)その8 2010年1月17日訪問 京都御所 建春門の内側 松平容保は左側の穴門から参内 2008年5月13日撮影  京都御苑 鷹司邸跡 その3の真木・久坂軍の山崎への撤退、そして その4 における久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一の死を以って、長州藩が引き起こした甲子戦争は一応の終結を見た。この項からは、上記中に書き尽すことのできなかった一橋慶喜の7月19日の行動、そして桂小五郎と因州藩等との密約、さらには尊攘派の公家衆の処罰について書いてみる。 元治元年(1864)7月19日に最も華々しく活躍したのは一橋慶喜であった。もしこの日の行動が無ければ、第15代将軍に就任… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その4

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡 その2 と その3 では、真木・久坂軍の堺町御門での戦闘とその撤退状況について書いてみた。この項では久坂玄瑞、寺島忠三郎そして入江九一の最期について記す。 中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には、久坂玄瑞は「軍さをする気がなかつた」という記述がある。この見立ては、ある面では正しかったのではないだろうか。鷹司邸に入った久坂は、参内の準備中の鷹司公に御供を願出ている。もし御所内に入り、毛利家に掛けられた疑念について反論する機会が与えられた… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その3

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  堺町御門での戦闘を決したのは、やはり火力であった。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には下記の様に記している。 凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲が一門備えてあった。わが人砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒隊と手はずをきめて、鷹司邸の西北角から攻め入ることを約束した。十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡 その2

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡  京都御苑 鷹司邸跡では、真木・久坂軍の進撃経路について推定した。この項では堺町御門での戦闘状況と山崎への撤退について記して行く。 山崎の軍の大将は家老の益田右衛門介であったが、進軍には加わっていない。「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には、石清水山上に滞在していた益田隊は社頭に貝曲を奉納すると称して申刻(16時半)後一曲を奉し一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し、双方に手配り軍令を発したとしている。真木直人の「天王山義挙日記… ►続きを読む

 

京都御苑 鷹司邸跡

 

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 門内から堺町通を眺める 真木・久坂軍が進行した柳馬場通は一本東側  京都御苑 清水谷家の椋 その4では、来嶋又兵衛の蛤御門内での奮戦とその最期を見てきた。闘将来嶋の討死により、国司軍は崩れ落ちて行った。烏丸通を北から攻めてきた薩摩藩の圧倒的な砲撃に遭い、多大な損害を被った国司信濃は遂に支えることができず、中立売通を西に天龍寺を目指し敗走していった。その際に放置された国司信濃の具足櫃から黒印の軍令書が発見されている。野宮定功日記、7月22日の条に下記のように記されている。 一 十九日於中… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その4

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影  京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製  先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れ… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その3

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋  京都御苑 清水谷家の椋 その2で記したように、北から公家門の支援に駆け付けたのは乾御門の守衛についていた薩摩兵であった。この模様は桑名藩の加太邦憲が「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。 此時南方三丁程離れて蛤門の戦争が始まりましたので、其砲撃が頻に聞えました。さうしますと公卿門前に居りました諸藩の兵が其音に驚いて皆崩れ立ち、北へ遁れて一橋兵を圧迫… ►続きを読む

 
 

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