文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その12



京都御所(きょうとごしょ)その12 2010年1月17日訪問

画像
京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影

 京都御所 その10その11で7月17日から18日掛けての幕府側と長州の交渉が決裂するまでを見てきた。特に一橋慶喜としては都合7回にわたる説諭も功を奏さず、ついに開戦を迎える。この項では長州と因州そして有栖川宮家との関係がいかに形成されていったかを記す。
 長州藩が支援を依頼した因州鳥取藩、津和野藩、備前岡山藩そして対馬藩はいずれも長州と同様の西国の外様大名である。例えば長州と因州の間には石見浜田藩と出雲松江藩が存在するので、必ずしも隣接した藩に対して支援を求めた訳ではない。この二藩の間に親藩の浜田藩と松江藩が挟まれているのは、徳川家による戦略的な配置である。つまり西国から京都に簡単に攻め上がれないような配慮でもある。外様の強国に対して親藩と譜代大名を山陽路、山陰路に巧妙に配した訳である。
 ところで有栖川宮家と因州の関係を見て行く前に、当時の鳥取藩主であった第12代池田慶徳について触れておかなければならないだろう。慶徳は水戸藩主徳川斉昭の五男として天保8年(1837)に生まれている。元服して偏諱を受け昭徳と名乗る。世によく知られているように斉昭には実に多くの子があり、その多くが各地の藩主になり、藩主に嫁いでいる。斉昭の正室は有栖川宮織仁親王の女・吉子女王である。斉昭との婚儀が決まったのは天保元年(1830)で、京都から江戸に降嫁したのは翌2年(1831)であった。斉昭の後を継いで第10代水戸藩主となった長男の慶篤と七男の慶喜の生母である。
 これに対して慶徳の生母は側室の仙洞御所侍松波光寧女・貞子であった。慶徳には同母弟として九男で後に岡山藩主となった池田茂政がいる。京都御所 その9で、甲子戦争の最中に一橋慶喜が会津藩士・手代木直右衛門に「因備は、我親弟なるも、其情未た知らす、宜しく守護職の注意を要す。」と述べたと「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))は記している。慶喜が「我親弟」と云っているが、二人は慶喜にとって異母兄弟であった。 有栖川宮幟仁親王妃は二条斉信の女・二条広子であるが、二条広子の母、すなわち二条斉信の正室は水戸藩第7代藩主・徳川治紀の女・徳川従子であった。つまり従子は第9代藩主となる斉昭の異母姉にあたることから、幟仁親王と斉昭は二条家を通じて二重の義兄弟関係になり、慶徳にとって親王は従兄にあたる。

 水戸藩と有栖川家の関係は斉昭と正室・吉子、さらに織仁親王と妃の二条広子との関係だけで終わらない。斉昭の長男・慶篤すなわち水戸藩第10代藩主の正室にも有栖川宮幟仁親王の長女・幟子女王を迎えている。嘉永元年(1848)将軍徳川家慶の養女となり、降嫁の内意が水戸藩に伝えられている。女王は嘉永3年(1850)に京を発し、先ずは江戸城の大奥に入っている。そして年内には慶篤と婚約し、翌4年(1851)に納采、さらに嘉永5年(1852)末には婚儀が行われ水戸藩邸に輿入れしている。嘉永7年(1854)には長女・随姫を出産したが、安政3年(1856)に死去している。
 さらに徳川斉昭の十一女の貞子が有栖川宮熾仁親王の妃となっている。熾仁親王は幟仁親王の第1王子であり、嘉永4年(1851)に和宮親子内親王と婚約しているが、親子内親王が第14代将軍徳川家茂の正室となるため、安政7年(1860)に婚約が解消されている。貞子との婚約勅許は孝明天皇崩御後の慶応3年(1867)9月14日であったが、その直後に大政奉還が起り延期されている。そして明治2年(1869)に再度婚約が行われ、翌3年(1870)に成婚している。しかし貞子は、熾仁親王が知藩事として福岡に赴任中の明治5年(1872)に死去している。以上のように幕末の水戸藩と有栖川宮家の間には強い縁戚関係が築かれていった。

画像
京都御苑 猿ヶ辻 かつての有栖川宮邸があった地
画像
京都御苑 猿ヶ辻

 再び話を因州と有栖川宮家との関係に戻す。嘉永3年(1850)鳥取藩主池田慶栄が嗣子なく急死したことから、幕命により慶徳が鳥取藩主となる。慶徳は藩政の改革を行うとともに学問を奨励し、軍制の改革に注力する。さらに水戸思想の元ととなる尊皇攘夷を因州藩に導入している。それが評価され文久3年(1863)には朝廷より摂海守備総督を命じられている。
 甲子戦争が勃発する丁度一年前の文久3年(1863)8月の前後に、慶徳は阿波藩世子・蜂須賀茂韶、米沢藩主・上杉斉憲、そして備前藩前藩主・池田茂政とともに、公武合体派と攘夷親征派との間の調整を行ってきた。このことについては、京都御苑 堺町御門 その4からその5にかけて記してきた。この時期在京の諸侯という立場で国事活動に参加したことが、朝廷及び幕府側そして親長州派の人々とも関係を持つことに至ったと考えても良いだろう。結果的には公武合体維持を優先することになり七卿の都落ちと長州の京からの撤退につながったが、水戸の尊王思想を受け継いできた慶徳にとって、八月十八日の政変の結果は必ずしも望んだものではなかったであろう。

画像
京都中央電話局西陣分局 中立売油小路通には因州屋敷があった 1980年代撮影
画像
京都中央電話局西陣分局 1980年代撮影
画像
京都中央電話局西陣分局 2016年3月5日撮影

 そして鳥取藩も政変の前夜に当たる文久3年8月17日の夜に本圀寺事件を引き起こしている。この事件に関しては改めて別の項で詳しく書いて行くつもりなので、ここでは概説に留める。藩重役の黒部権之助、高津省己、早川卓之丞の3名が宿泊所としていた本圀寺で、同藩の尊王攘夷派によって暗殺される内訌事件である。因幡二十二士事件あるいは因幡二十士事件とも云うのは、暗殺側に加わった者の人数である。首謀者は河田左久馬は、水戸藩から藩主として池田慶徳を迎えたのにも係わらず鳥取藩として尊王攘夷に方針変更されないのは君側の奸によるものと考え、前記の3名と加藤十次郎の四奸を排除して君公の忠誠を明らかにすることを計画する。当日、加藤十次郎は本圀寺に居合わせなかったので一旦は難を逃れたが、藩主の意思に従い翌日に自刃している。
 事変後、襲撃側の20人(二十二士の内、一人が自刃、一人が失踪と考えられていた)は、藩家老及び鷹司関白に対して事件の経緯を上申し、池田輝政の正室の菩提所であった知恩院良正院で藩からの沙汰を待った。この本圀寺事件も天誅組と同じく大和行幸に合わせた決起であったが、公武合体派の政変の成功により当初の目論見が大きく外れてしまった。本来ならば重臣を暗殺した者全員の切腹と御家断絶であったが、鷹司関白や有栖川宮の助命と藩内の尊王攘夷派勢力によって、死一等を減ずる恩命が下されたのが事件の一ヵ月後の9月12日であった。「贈従一位池田慶徳公御伝記」(「贈従一位池田慶徳公御伝記 二」(鳥取県立博物館 1988年刊))には、黒部権之介等惨殺一件として記されている。斬殺された高沢省己、黒部権之介、早川卓之丞には、「右は去月十七日之夜逢斬殺候段、重キ御役儀を相勤候身分に候得は、兼々心得方も可有之処、右等不容易場合に相成候上は、家断絶被仰付筈に候得共、此度之儀は非常出格之御含を以、家名其儘御立被遣旨被仰出候間、家続之儀は間柄より相願候様被仰付儀」と正邪は問われず、家名断絶も免れている。襲撃後に自刃した加藤十次郎については、「此度逢斬殺候儀ニ付、御上を憚り致自殺候段、尤之事ニ候」の一文が加えられている。
 これに対して、襲撃側の二十士に与えられた処置も「其方共儀、去月十七日之夜、重キ御役人共下宿え罷越、及斬殺候段、全く君上御大事之御場合と存込、身命を忘、非常之及所行候段、於其志は尤之事ニ候。乍去、重キ犯法憲、御場所柄をも不憚御役人を斬殺し、良正院え立退御裁許を相待候段、其罪不軽候得共、此度は非常之御含を以、当職之面々は家名其儘御立被遣候間、家統之儀は間柄より相願可申候。右ニ付、一同先当所御屋敷え御呼返し、急度慎被仰付候間、厳重相心得在候様被仰付候。」となっている。

 元治元年(1864)5月11日、有栖川宮家は鳥取藩に対して河田左久馬等の借用が申し込んでいる。「贈従一位池田慶徳公御伝記」に所収されている有栖川宮父子連署の藩主慶徳への書簡は下記の通りである。

薄暑之節、弥無御障珍賀存候。先達来、兎角御所労之趣、御長引之事、追々暑天ニ相成候間、深案申入候。此節如何之御模様ニ候哉。尚委敷承度候。就ては、為御見舞医師山本長門介指出申候。尚又、同伴之御家臣豊田謙蔵えも面会にて委敷申含置候。御聞取可脱カ被下候。杈、此壱箱麁肴等仁便宜進入之致候。御一笑相成候はゝ、大悦ニ存候。余情荒々例之乱毫、御推覧希入候也。恐々百拝。
五月十一日
             熾仁
             幟仁
因幡中将殿
    貴下
再白、両人共、今度国事御用掛り之儀被仰出、不肖之身、恐懼不少候得共、御請申上候事ニ候。仍、御風意聴申入候。時下折角御自愛専祈存候。以上。

 ここでは、病身の池田慶徳のために医師山本長門介を送ることのみが記され、追記で国事御用掛就任ついて触れている。河田等の借用については、同日付の熾仁親王の書簡に詳しく記している。

御病中、甚御面倒申入候得共、先般御入来貴面之節、御頼談申候、其御家臣之内、昨年於本国寺御旅亭一事有之候ニ付、其後閉居被命有之候輩弐拾人之儀、
(中略)
方今国事御用も蒙仰候儀故、是右之人数御借用申度、即今在京之御家臣黒田日向え申聞せ候処、何分一応申入候上ならては、難取計申出候。乍併、兼て御直約も申置候事故、呼寄可申と存候。

画像
京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影

 二十士の借用についての申し入れは事件直後にも行われたようだが、当時は処置が決まっていなかったため実現されなかった。両親王が国事御用掛に任命されたのを機として、上記のように再び申し入れたようだ。このような経緯により、藩内の尊王攘夷派である河田等が有栖川邸の警護を行うようになり、長州藩とのつながりが緊密になってきた。
 なお国事御用掛の任命は5月9日に行われ、有栖川宮幟仁・熾仁父子と共に九条道孝及び鷹司輔政が就任している。また一条実良も任命されたが固辞している。これは一条家門流の中山忠能、橋本実麗等の補佐により、横浜鎖港方針について不満があったためとされている。これらの登用については、原口清氏の「禁門の変の一考察」(「原口清著作集2 王政復古への道」(岩田書院 2007年刊))によれば一橋慶喜が二条関白に持掛け、最初は反対していた中川宮も、尊王攘夷派から信望のある人々を用いることで反対派の攻撃を避けられると判断し、同意したと推測している。実際に4月18日の夜、中川家諸大夫の武田相模守邸が何者かによって襲撃されている。相模守は無事であったが母と家来が、この天誅によって殺害されている。このことも影響し、4月21日に中川宮が国事扶助の辞表を、そして同25日には前関白・近衛忠煕も国事御用掛の辞表を提出している。主上は近衛前関白の辞職を認めたが、中川宮に関しては許されなかった。さらに5月26日にも中川宮家御用人・高橋建之丞とその家来2名が大阪道頓堀の旅籠で襲われ、東御堂台所裏口の柱の下に高橋の首が晒されるという事件が起きている。即今攘夷派は八月十八日の政変により、朝廷内の政治的な地位を失ったものの、京の町中での天誅によって、公武合体派に対して十分な恐怖を与えていたことは確かである。このような状況下にあったため、有栖川宮父子が揃って国事御用掛に就任した際に、鳥取藩の尊王攘夷派藩士を雇い入れたのも十分理解のできる行動である。

画像
京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影

 5月27日に京都東山の料亭栂尾で河田左久馬等が主催した会合があり、備前、安芸、筑前、対馬、福山、柳川、岡の諸藩の有志が集っている。この会合については「贈従一位池田慶徳公御伝記 二」(鳥取県立博物館 1988年刊)でも、6月13日に京より帰国した記録方周旋方兼帯山田宗平がもたらした池田屋事件の報と共に記述されている。
 また、末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))にも以下のように記されている。

時に薩越等開国派の諸侯漸く勢力を失して国に帰り将軍亦横浜鎖港を約して関東に帰る是れを以て攘夷派の公卿諸侯等復た勢力を有し竊に喜色あり二十七日諸藩士栂尾に会す因藩之れが会主たり長州応援の事を議するなり
同日乃美織江より山口政府に送りたる書中此会に言及せり事前に発する所なるも概況を知るに足るべし曰く今夕於栂尾集会の由因備芸福山筑前対岡藩柳川も先達て申出御暇を給ひ帰候事に付今日出席之由に御座候長州へ応援の評議と申事にて候席上にては人数差出候積りと申事多く今日は決極之処談合と申事に候因州之主にて候

 原口清氏の「禁門の変の一考察」(「原口清著作集2 王政復古への道」(岩田書院 2007年刊))によれば、この時期京都に潜入している志士の間に水長支援の動きがあり、長州藩にも武器の借用の申し出があった。長は長州藩であり京を取り巻く長州兵に対する支援であるが、水とは水戸藩の筑波挙兵のことである。これら東西で分かれた軍事的な緊張感の高まりは個々の事件ではなく、ある程度連携したものであったことを原口は指摘している。「木戸孝充文書」(「日本史籍協会叢書 木戸孝充文書 二」(東京大学出版会 1930年刊 1985年覆刻))に所収されている元治元年(1964)5月29日付で大阪藩邸の北条瀬兵衛に贈った書簡(二-18)に、小銃100挺を用意することを依頼している。これは筑波挙兵への長州藩からの支援である。このような水長に対する「援兵論」が栂尾会議でも語られている。桂の上記の書簡中に下記のような記述が見られる。

皇国鼓舞之事とは乍申十分難被尽工合も有之候処宮部も其趣意尽力致し候と相見へ因備は成丈迅速に援兵差出候都合に相決一昨廿七日別帋之藩丈け相会し公然と申論じ候処一等異論も無之芸筑はとふ歟早々差出し候様子に相見因にも一入よろこび居候

 文中の宮部は肥後藩の宮部鼎蔵であり、宮部も援兵論を支持し、長州藩も諸藩の支援をある程度見込んでいたことが分かる。なお栂尾会議が行われた5月27日には、まだ長州を出軍していないため京近郊に長州兵の姿はない。そのような状況で因州藩は諸藩に対して長州支援の周旋を行っている。原口氏が指摘しているように、栂尾会議には桂小五郎も、また他の長州藩士は出席していない。この会議に長州人が参加すると、薩長間の私闘に話が及び諸藩の支援を取り付けにくくなるという河田等の考えがあったのかもしれない。しかしながら上記の桂が北条瀬兵衛に贈った5月29日の書簡からも分かるように、会議の詳細は因州藩を通じて長州藩に逐一伝わっていたことは確かである。そしてこのような活動が幕府あるいは会津藩に漏れ6月5日の池田屋事件に繋がったと考えても良いだろう。
 桂小五郎は池田屋事件後に2通の書簡を送っている。いずれも6月11日付で一通は大阪の宍戸九郎兵衛、北条瀬兵衛、もう一通は国元の久坂義助(玄瑞)である。前者の書簡で「於因藩少々企も有之候得ども何分にも疎漏に渉り終に古高被縛候」、後者でも「此度の一破彼因の一企何分にも粗に相渉逐々世間へ漏洩」と因州藩からの情報の漏洩が池田屋事件の原因となったと嘆いている。そして「兎角正義家に而機をもらせぬ様秘密に御謀り候と申事中々六つ敷一二之有志之極秘と唱居候事も忽諸浪士名々極秘々々と申漫に相唱候様なる事に而實に歎息至極之訳に御坐候」と正義家の口の軽さが大事を招くことを戒めとしている。原口氏はこのあたりに池田屋事件発生の原因を見ている。

画像
京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影

 以上が因州を通じた長州藩と有栖川宮家との関係である。これ以外にも長州藩は有栖川宮家に独自の交渉経路を持っていたようである。中村武生氏の「寺田屋事件の研究」(講談社現代新書2131 2011年刊)には、八月十八日の政変以降に古高俊太郎を通じて宮家に接近していった様子が描かれている。古高俊太郎は本名を隠し河原町四条上ル真町で古道具・馬具を扱う枡屋喜右衛門を名乗っていた。6月5日に新選組に捕縛され、その日の内に「御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮を幽閉、京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害」などの計画を白状したことで、その晩の大捕物につながったとされる人物である。確かに古高に関することは新選組に捕縛され拷問された人物ということ以外に語られることはなかった。そもそも池田屋事件は古高奪回のために新選組の屯所を襲撃するための会議だったとされている。中村氏は古高が長州藩にとって重要人物であったことを確信し、前歴を調べ古高と長州藩の関係及び有栖川宮家への交渉の過程を明らかにしている。
 中村氏の説に従うならば古高の祖父である松本多門の後妻となった里は、徳山毛利家第8代当主広鎮に仕え男子を生んでいる。この子が長じて堅田駿河守(元琦)となり、その弟の毛利元徳が嘉永5年(1852)に毛利慶親の養子となり広封ついで広定を名乗っている。ちなみに元琦の弟は長州藩家老福原家を継いだ福原元僴(越後)である。つまり古高俊太郎にとって長州藩世子広定は、祖父の腹違いの弟となる。古高が長州屋敷を訪ね、長州藩と自分の系図上のつながりを示し、助力を申し出たのは、文久3年(1863)8月28日頃とされている。後日寺島忠三郎から連絡があり、三条実美等七卿の長州藩内への滞在について藩内でも色々な意見が出ているため、有栖川宮に鎮静の処置を願いたいという依頼を受けている。古高が有栖川宮家出身、山科毘沙門堂門跡の慈性法親王に仕えていることからの依頼であった。古高は有栖川宮家の諸大夫の粟津駿河守義風へ話し持ち込んでおり、京都留守居役の乃美織江より銀15枚の謝礼を受けている。「防長回天史」にも文久4年(1864)正月18日に有栖川宮の書を携えて寺島忠三郎が帰国していることが記されている。同書には宮の書簡は既に失われたとあるが、諸大夫の前川太宰大監と粟津駿河守連署の益田右衛門介宛の書と益田から2人に対する正月25日付の書簡が所収されている。
 これより前、文久3年(1863)11月から12月にかけて、京都御苑 凝華洞跡からその2でも記したように、長州藩家老・井原主計が雪冤運動を行うため入京を幾度となく嘆願している。最終的に井原の入京は許されず、12月21日伏見の藤森神社に於いて勧修寺経理が武家伝奏の飛鳥井雅典と野宮定功の2名と共に引見している。この際に自尽も覚悟していた井原を慰論するため、有栖川宮家から井原宛に12月21日付で前川太宰大監、粟津駿河守連署の書簡が下されている。この「防長回天史」に所収されている書簡は、長州伏見屋敷の留守居役より長州京都屋敷の乃美織江に井原に対する慰論の方策の問い合わせがあり、寺島忠三郎から古高俊太郎を経由して有栖川宮家に申し入れを行い実現している。 以上のように長州藩は因州藩を通じて有栖川宮家の支援を得ただけでなく、藩と縁故のある古高俊太郎を通じて宮家に願い出ることのできる経路を既に持っていたことが分かる。

画像
京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影

「京都御所 その12」 の地図


大きな地図



京都御所 その12 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  安政度 御所 35.0246 135.7627
01  京都御苑 中立売御門 35.025 135.7596
02  京都御苑 蛤御門 35.0231 135.7595
03  京都御苑 下立売御門 35.0194 135.7595
04  京都御所 清所門 35.0258 135.761
05  京都御所 宜秋門 35.0246 135.761
06  京都御所 建礼門 35.0232 135.7621
07  京都御所 建春門 35.0236 135.7636
08  京都御所 朔平門 35.0272 135.7624
09  京都御所 月華門 35.0238 135.7617
10  京都御所 承明門 35.0235 135.7621
11   京都御所 日華門 35.0238 135.7625
12  京都御所 紫宸殿 35.0241 135.7621
13  京都御所 清涼殿 35.0243 135.7617
14  京都御所 小御所 35.0245 135.7625
15  京都御所 御学問所 35.0249 135.7625
16  京都御所 御池庭 35.0247 135.763
17  京都御所 御常御殿 35.0253 135.7628
18  京都御所 御内庭 35.0253 135.7631
19  京都御苑 清水谷家の椋 35.0231 135.7608
20  京都御苑 凝華洞跡 35.0213 135.7624

「京都御所 その12」 の記事

「京都御所 その12」 に関連する記事

「京都御所 その12」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2015年11月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿