文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その8



京都御所(きょうとごしょ)その8 2010年1月17日訪問

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京都御所 建春門の内側
松平容保は左側の穴門から参内 2008年5月13日撮影

 京都御苑 鷹司邸跡 その3の真木・久坂軍の山崎への撤退、そして その4 における久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一の死を以って、長州藩が引き起こした甲子戦争は一応の終結を見た。この項からは、上記中に書き尽すことのできなかった一橋慶喜の7月19日の行動、そして桂小五郎と因州藩等との密約、さらには尊攘派の公家衆の処罰について書いてみる。
 元治元年(1864)7月19日に最も華々しく活躍したのは一橋慶喜であった。もしこの日の行動が無ければ、第15代将軍に就任し困難な政治情勢の中で大政を投げ出した最後の将軍というイメージしか残らなかっただろう。むしろ、この日の慶喜の決断と行動を見ると、どうして同じ人物が4年後の慶応4年(1868)1月3日に、あの様な優柔不断な決断を行わざるを得なかったかという疑問が残る。

 しかし会津・薩摩藩を中心とする長州討伐派から見ると、7月19日に至る一橋慶喜の態度は隠忍と云うよりは、いかにも優柔不断と映っていたようだ。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))に以下のように記している。

一橋殿にも、最初は大いに憤発にて、二十七日にただちに追討致し候もしかるべくとの儀を御所にても御発言これあり候。しかれども、その日はその場も遁れ候えば、いずれも人事を尽し候には如かずと申す議にて、当二日に大監察永井主水正、小監察戸川鉡三郎を伏見につかわし、退去の儀を厚く論解致し候。御所の沙汰をもって申し聞かせ候ところ、それ以来、かれこれ申し立て、退去仕らず、もはや追討の外はこれあるまじくと一橋殿も決心致され候ところ、またまたその説を変じ、この上にも人事を尽したき旨にて、諸藩のうち見込み次第説得致し候よう申しつけられ候。しかしながら朝命、幕命をもって、大小監察の論解に承服仕らず候間、諸藩の家来共にて論解相届き候はこれあるまじく、且つ不体裁の至極に御座候。よって、多分は御請仕らず候ところ、その中にも御請け申し上げ候藩もこれあり、当十一日までには、服、不服の段申し出で、そこにて決着致し候わずのところ、その間仔細これあり、おくれて御請申し上げ候など申すわけにて、一橋殿はまたまた御勧めに相成り候。その辺の義は、なにぶん筆紙に述べがたく候。つまり、一橋殿御勧めにより起り、そのまた起りは、水、因、備三藩等の入説より出で候由に御座候。

 実際に「徳川慶喜公伝」(「徳川慶喜公伝3」(平凡社 1967年刊))によれば、6月29日に一橋慶喜に対して屯衆処分の全権を委任する勅命が発せられている。これを受け同日に目付羽太荘左衛門を伏見に送り長州藩家老の福原越後に勅命の趣を告げ、第1回目の説諭を行っている。越後は真木和泉、入江九一等を伏見に招き、慶喜の「嘆願の事は追々何分の御沙汰あるべき」を伝えたが、真木等は当然これを信じなかった。7月2日に朝議があり、長州藩の嘆願についての処置について話し合われている。そして翌3日、大目付永井主水正と目付戸川鉾三郎を伏見に遣り朝命を以って越後を召したが、病と称して出頭しなかった。越後は使いを山崎に送り真木和泉や久坂玄瑞に応接についての協議を行わせ、4日に伏見奉行所に出頭し朝命を受けている。福原越後は入京の許可を請うとともに、屯衆を諭したものの矯勅だと主張し従う気配がないこと、さらに毛利父子が上京の上で建白書を奉ることを告げている。
 2回の幕府からの説諭に失敗した朝廷は、屯衆が哀訴を依頼している諸藩を指名して更に説得させることを朝議で決している。直接、朝廷より諸藩を指名することは朝威を貶めることとなると慶喜より指摘され、再び交渉を慶喜に任せることになった。稲葉美濃守は在京二十五藩の藩士を召してその旨を伝えたところ、因州、芸州、筑前、備前、対州、津和野の六藩士が慶喜の要請を受け入れ、6日に伏見に赴き、7月8日を日限として撤兵すべきと説いた。これが3回目の説諭であったが、これもまた効果は無かった。続いて7日には慶喜の要請をうけた芸州藩士熊谷右衛門と因州藩士山部準太そして対州藩士樋口謙之丞が伏見を訪れ、11日限りに嵯峨や山崎の屯営を撤収して帰国させ、越後と僅かな者のみ大阪に留まり命を待つことが国家の危難を避ける方策と福原越後に説いた。越後は山崎と嵯峨の屯衆を説諭すること約束し、山崎に再び使いを送りその意を伝えたが、屯衆は憤激し制止することができなくなった。ここに於いて越後自らが山崎に至り諸隊長に面会し、世子が上京するので一度撤兵し時期を待って再び嘆願することを提案した。久坂、入江、寺島等は同意したものの真木、松山等が撤兵反対を主張し、諸隊の多くがこれに賛同した。この4回目となる説諭も不調に終わり、これより屯衆は京都攻撃についての軍議を重ねることとなる。なお慶喜は16日に大目付永井主水正と目付戸川鉾三郎を伏見に遣り17日を限りに引払う命を伝えている。福原越後は、この命を各陣営に伝えたが応ずるものはいなかった。翌17日にも水戸藩士大野謙介を送り、再度の周旋を依頼している。しかし乃美はこの依頼を辞退し、長州藩の近況を書面に著わし提出している。これが幕府守衛側に開戦が避けられないことを印象付けた。さらに18日にも京都藩邸留守居の乃美織江に対する説諭を行っている。これが慶喜の通算7回目であり最終の説諭となる。乃美も馬を馳せて伏見に向ったが、既に出軍の指物、旗などの準備の最中であり、既に制止することは不可能であった。

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長州藩伏見藩邸跡 2011年12月24日撮影
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長州藩伏見藩邸跡 2011年12月24日撮影

 一会桑、すなわち一橋慶喜、会津藩そして桑名藩が共通の意思を以って一つの勢力となるのは、甲子戦争終了後のことである。一会桑勢力の提唱者である家近良樹氏は「孝明天皇と「一会桑」 ―幕末・維新の新視点」(文芸春秋 2002年刊)において、一会両者の間に協調関係が成立するのは禁門の変後であり、一橋慶喜が対長州強硬論に固まって来たためとしている。つまり慶喜が対長州関係において優柔不断な態度を見せていた事変直前の時期は、一橋家と会津藩の間は家近氏の言葉を借りれば、非常にぎくしゃくしていたということであろう。
 当時の慶喜の態度について「徳川慶喜公伝」では以下のように記している。

公の避けんとするは此無名の私戦なり。長人京郊に押寄せたりとも、公然京内に入れるにはあらず、兵仗を以て威を示せりとも、対悍劫奪の暴あるにあらず、若し之を討伐して一挙に攘掃し尽すとも、従つて堂上・諸藩の中に非議の紛起せんは分明なり。寧ろ彼の蜂起を待ちて徐に之を討伐せば、出帥の名正しくして他の非議をも防遏することを得ん。

 屯衆対策の全権を任された慶喜にとって大義の伴わない討伐を行えない状況にあったことは確かであり、特に諸藩の中より長州藩に与するものが出てくることに細大の注意を払っていたであろう。会津藩にとってこの慶喜の煮え切らない態度に対して、上記の「京都守護職始末」で「その辺の義は、なにぶん筆紙に述べがたく候」とあるように、苛立ちを隠せないでいた。そのよう状況下で九条河原を防備していた会津藩士や新選組の中よりも、慶喜卿の優柔不断を憤り卿の旅館に乱入する声が生じている。現場の会津及び新選組の組頭も鎮撫の術がなく凝華洞に急使を送り、会津藩は公用人・外島機兵衛を派遣し事なきを得ている。会津にとって最も恐れていたのは幕府や朝廷から見放され、長州藩との私戦に巻き込まれることであった。そして慶喜が諸藩に対して討伐の号令を命じない限り、私戦となる可能性が徐々に高まりつつあった。

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石清水八幡宮 2014年10月5日撮影

 長兵の屯集から甲子戦争開戦への推移は既に京都御苑 凝華洞跡 その3から、その5にかけてで記したので、ここではなるべく重複しないように一橋慶喜の7月18日夜の行動を中心に書いて行く。 7月17日、石清水八幡宮社畔の益田右衛門介の営所で行われた会議により、長州藩の京への進撃が決している。そして進撃の準備と共に「元治元子七月」の日付で、益田右衛門介、福原越後、国司信濃連署の上書を始め複数の書面を用意している。「孝明天皇紀 第五」(平安神宮 1969年刊)には「松平大膳大夫家老益田右衛門介等ヨリ松平肥後守九門外ヘ斥退天誅ヲ受候様被仰付度品々ニ付指出候願書并家来共嘆願書写」として掲載している。ここでは「何卒肥後守義早々九門内御逐払洛外へ成トモ引退尋常天誅ヲ請候様被仰付」とあるように、既に敵を会津藩に絞り込んでいる。「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀 二」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))と「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には幕府に提出したもの以外に、三家老連署で諸藩に投じた別の書も残されている。その宛先は津和野、小田原、宮津、浜田、膳所、水口であった。三家老連署に続いて別紙願書として差出人が長州浪士 濱忠太郎 入江九一の書がある。「防長回天史」では「元治元甲子年七月十八日」付の書面は、長門国浪士 濱忠太郎名になっているが、これとは別に、「元治元子七月」付で、濱忠太郎、入江九一連署で作成された幕府への上書も存在している。さらに別紙として長州浪士中名義の書も用意されている。こちらは前の二通の書より具体的な罪状を挙げ糾弾している。「尤甚敷に至候ては、去月五日の夜遂に兵勢を繰出し、藩邸を取囲み、且旅宿等に押入、多人数殺害縛収、所在家財衣服等迄盗取」とあるのは池田屋事件のことである。

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京都御所 猿ヶ辻 かつてこの地に有栖川邸があった

 具体的な入手経路は明らかではないが、諸藩に投じられた長州側の書面を携え有栖川宮父子が参内したのが戌の刻(20時)とされている。また中山忠能、大炊御門家信、正親町実徳、橋本実麗等も同様に投書を懐に入れ参内している。これらの諸卿の行動は予め話し合われていたものであろう。議奏の正親町三条実愛、柳原光愛、六條有容、広橋光成、阿野公誠、久世通煕そして伝奏の坊城俊克、飛鳥井雅典、野宮定功が召されて対応にあたった。中山は松平容保を凝華洞より追い出すこと請い、橋本は宮門の衛士に命じて容保の参内を阻止しようとした。
 異変を察した中川宮は、京都守護職・松平容保に急報している。亥の半刻(23時)に中川宮にも御召があり、子の刻(0時)には参内している。宮が参内すると、有栖川宮父子を中心とした親長州派が会津藩追放の勅命を降ろそうとしていた。町田明広氏は「禁門の変における薩摩藩の動向」において、長州藩と鳥取藩(因州)が中心となり岡山藩(備前)と加賀藩と通じたクーデターと捉えている。その計画とは有栖川宮幟仁親王が中心となり、親長州派の延臣が数十人参内し時勢の切迫を奉聞し長州藩に対して寛典な処置を求め、長州藩もまた哀訴を申し立てる。鷹司輔熙等の幽居中の延臣及び諸侯に書面を送付する。そして因州、備前、加賀の兵が四門を守衛させ、中川宮の参内を停止した上で、会津追討の勅命を降し開戦に及ぶという筋書きであった。
 容保は一橋慶喜と二条関白に報せを送っている。慶喜には伝奏からも至急参内の命が入り、衣冠を著して参内している。この時、慶喜に従うもの僅か四五騎であり、竹屋町で白鉢巻に甲冑を着し抜身の槍を携えた兵2人と遭遇している。慶喜は会津藩の偵察だと思っていたが、既に長州兵が市内に闖入していた。長州兵側も慶喜を参内を急ぐ公家と思い込んだようで、行き先を咎めることもなかった。このようにして中立売御門に到着した慶喜は、口取も間に合わないため馬を門柱に繋ぎ急ぎ参内している。ただし「徳川慶喜公伝」(「東洋文庫 徳川慶喜公伝 3」(平凡社 1967年刊))では触れていないが、「朝彦親王日記」によれば「早々一橋被召候処遅刻」とある。関白より渡された長州藩の上書を読み、開戦が必至であることを確認している。この時、伏見を進撃した福原隊が大垣兵と交戦状態に入った報せが早馬で届けられた。既に大小の砲音が遠雷のように、御所でも聞こえるようになった。御召により御前に参り、「速に誅伐すべし」の勅語を賜っている。これにて長州討伐の勅命「長州脱藩士等挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、速総督以下在京諸藩兵士等、尽力征討、弥可輝朝権事」が慶喜以下在京諸藩主に対して降される。

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京都御苑 中立売御門

 「徳川慶喜公伝」では、討伐の勅命が降ったものの、守護職も所司代も未だ参内していなかったばかりか予ねて諸藩に達した守衛も出兵されて居らず、近習の者に悉く九門を閉ざし、伝奏より諸藩へ討伐の御沙汰書を下さした。中川宮の日記とは異なるものの、山階宮、中川宮、近衛内大臣、徳大寺大納言、松平肥後守、稲葉美濃守、松平越中守等も追々参内し、諸家の兵もまた集合したとしている。慶喜の後を追ってきた一橋兵は白川門(宜秋門あるいは清所門のことか?)より入り、公卿の間(現在の諸大夫の間か?)近くの広庭で守衛していたので、慶喜は原市之進に七つ時(午前4時)までに増兵を到着させるように命じ、伝奏に断り菊亭家で戎衣に着替えている。「朝彦親王日記」によれば「今辰刻比一橋菊亭迄退衣躰相改」とあるが、午前8時では既に中立売御門は勿論のこと蛤御門辺りでも戦闘が始まっているので、少し遅すぎるように思われる。菊亭とは今出川邸の別称であり、中立売御門内の北側に位置する。そのため国司軍が中立売御門に攻撃を始める前に、慶喜は既に着替えを終えていたと考えてもよいだろう。すなわち戦闘中にわざわざ着替えに入っていったとは考え難い。

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京都御苑 凝華洞跡

 当時病にあった松平容保が凝華洞から参内した様子については、北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))に記述がある。

是の時に方り肥後守容保は病を勉めて、参内せんと用意ありしに、小森一貫斎、伝奏の旨を奉し馳せ来りて、建春門より参内を免るさるヽれば、肥後守は乃ち左右に扶けられて、暁更建春門より承明門前を過ぎ、唐門内の仮屋に到りぬれば、大原三位出来りて、肥後守か疲労の体を慰め、手を取て内に誘引ありければ、肥後守は、伝奏により天機を候せられけり。

 明確な時刻の記述はないが、暁更とあるので国司軍の攻撃が始まる前後の頃と思われる。このあたりは「徳川慶喜公伝」通りで、慶喜よりさらに遅れて京都守護職松平肥後守が参内したのであろう。が参内したのであろう。京都所司代松平越中守の参内も「七年史」に記されている。

所司代邸には、長州人川端亀之助来りて、哀訴状、送戦書、決心書を呈して、既に山崎出兵の時刻なりと告げれば越中守は病を力めて、参内せられけり、間も無く、伝奏は征伐すべきの勅書を伝へられけり。

 同じく病にあった松平定敬も一橋慶喜に次いで、国司軍の攻撃以前に参内していたと思われる。

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京都御所 月華門 2008年5月13日撮影

「京都御所 その8」 の地図


大きな地図



京都御所 その8 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  安政度 御所 35.0246 135.7627
01  京都御苑 乾御門 35.0274 135.7596
02  京都御苑 中立売御門 35.025 135.7596
03  京都御苑 蛤御門 35.0231 135.7595
04  京都御苑 下立売御門 35.0194 135.7595
05  京都御苑 堺町御門 35.0177 135.7631
06  京都御所 清所門 35.0258 135.761
07  京都御所 宜秋門 35.0246 135.761
08  京都御所 建礼門 35.0232 135.7621
09  京都御所 建春門 35.0236 135.7636
10  京都御苑 凝華洞跡 35.0213 135.7624
11  京都御苑 賀陽宮邸 35.0199 135.7611
12  京都御苑 清水谷家の椋 35.0231 135.7608
13  京都御苑 九条邸跡 35.018 135.7615
14  京都御苑 鷹司邸址 35.0185 135.7631

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