カテゴリー:洛北
幡枝・木野の町並み
幡枝・木野の町並み(はたえだ・きののまちなみ) 2010年9月18日訪問 幡枝・木野の町並み 比叡山を望む 幡枝・木野の町並み 木野駅周辺 補陀洛寺から鞍馬街道に戻り、篠坂を北に上り叡山電鉄鞍馬線の市原駅に戻る。ここより次の訪問地・妙満寺を目指す。最短距離を選んで木野駅下車にしたが、このまま徒歩で鞍馬街道を南に進むか、あるいは京都精華大前駅で下車した方が幡枝の風景を体感する上では良かったのかもしれない。木野駅から妙満寺まで、そして妙満寺から岩倉の山住神社までの地域は左京区岩倉〇〇という地名になっている。ちょうど訪問した12年前、叡山電鉄鞍馬線の南側の一帯は正に区画整理が成されており… ►続きを読む
妙満寺 本坊庭園
妙満寺 本坊庭園(みょうまんじ ほんぼうていえん) 2010年9月18日訪問 妙満寺 本坊庭園 中央台形部分が旧雪の庭と思われる 妙満寺 その2では、岩倉幡枝への移転から境内の様子を見て行った。妙満寺の最後の項として本坊庭園について書いてみたい。 この妙満寺の庭園は、「雪月花の庭」や「雪の庭」の検索ワードでヒットする。先ずは「雪月花の庭」について調べてみる。もともと「雪月花の庭」とは誰が呼んだのであろうか?このあたりから分からないことが始まる。重森三玲の「日本庭園史大系」を調べてみても、清水寺成就院は所収されているものの、妙満寺は全国庭園所在一覧の京都府202件の中に含まれているが、「江… ►続きを読む
妙満寺 その2
妙満寺(みょうまんじ)その2 2010年9月18日訪問 妙満寺 その2 本坊 妙満寺では、開祖である日什上人の生涯と妙満寺の開創から昭和の遷堂までの歴史を見てきた。この項では現在の岩倉幡枝の境内の様子を記していく。 妙満寺 その2 境内図 妙満寺 その2 仏舎利大塔 妙満寺 その2 仏足石 天正11年(1583)豊臣秀吉の命による寺町二条下ルへの移転後、約400年間妙満寺は寺町二条で数度の焼亡と復興を繰り返してきた。明治初年の上知令によって多くの塔頭を失い寺地も半減、さらに昭和20年(1945)の強制疎開によって再び塔頭4院の寺地と建物を失うという痛手を蒙った。戦後、寺… ►続きを読む
妙満寺
妙満寺(みょうまんじ) 2010年9月18日訪問 妙満寺 境内から比叡山を望む 叡山電鉄鞍馬線の木野駅で下車して妙満寺に向かう。修学院離宮や円通寺を訪問した際にも立ち寄る機会があったものの、なぜか予定には入れてこなかった。今回は鞍馬から岩倉を廻る中でこの寺院の訪問を決めた。もし京の訪問から外したら、別の日にここだけを訪れるような予定を組まなければならなくなると思いがしたためである。 正式には顕本法華宗総本山 妙塔山 妙満寺という名称になる。公式HPの宗名由来を見ると、明治9年(1876)に「日蓮宗妙満寺派」を公称するとあるので、もともとは日蓮宗であったことが分かる。明治31年(1898)… ►続きを読む
篠坂
篠坂(しのざか) 2010年9月18日訪問 篠坂 補陀洛寺前の坂 南に下って行く 補陀洛寺と恵光寺のあるあたりから鞍馬街道(府道40号下鴨静原大原線)は南にやや下って行く。この坂は篠坂と呼ばれている。竹村俊則は「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂 1982年刊)で下記のように記している。 [篠坂]は小町寺の前の峠路をいう。一に「志野坂」とも記す。 また綱本逸雄氏の「京都三山石仏・石碑事典」(勉誠出版 2016年刊)によれば、補陀洛寺の墓地には約300体の墓石や供養塔が立ち並んでいる。室町から江戸にかけてのものが多いが中には鎌倉後期の石仏も見られるようだ。鞍馬川流域の人々は、その流域に死者… ►続きを読む
補陀洛寺
天台宗延暦寺派 如意山 補陀洛寺(ふだらくじ) 2010年9月18日訪問 補陀洛寺 小野小町供養塔境内北隅の最も高い場所に位置する 叡山電鉄鞍馬線の市原駅を下車し鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩くと、観音道是より三町と惺窩先生幽栖址従是西二丁の2つの道標が現れる。ここよりさらに200mほど進むと東側の高台の上に補陀洛寺がある。 補陀洛寺 鞍馬街道沿いの寺号標 こまち寺とある 補陀洛寺 鞍馬街道から石段で本堂へ登っていく 補陀洛寺は天台宗延暦寺派、山号は如意山である。創建、変遷の詳細は不明であるが、「近畿歴覧記」(新修 京都叢書 第三巻「近畿歴覧記 雍州府志」(… ►続きを読む
惺窩先生幽栖址是より西二町 その2
惺窩先生幽栖址従是西二丁(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう)その2 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 その2 小さな石碑 惺窩先生幽栖址従是西二丁では藤原惺窩の生涯と門人・交友のあった人々について記した。ここではこの道標と市原にあった惺窩山荘について書いていくこととする。距離の単位1町は現在の109mとされているので、この道標から西に200m強離れた場所に藤原惺窩の市原山荘があったということになる。どうもこの西二町をあてにしてはいけないように思われる。今回は訪れなかったが、西二町の道標から500m以上離れた北市原第二児童公園に藤原惺窩市原山荘跡の石碑が建て… ►続きを読む
惺窩先生幽栖址是より西二町
惺窩先生幽栖址是より西二町(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう) 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 鞍馬街道沿いの小さな石碑 鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩いて行くと、観音道是より三町の道標が目に入ってくる。この道標については市原の町並みで記したように小字堂山にある帰源寺の本尊十一面観音立像を詣でるためのものと思われる。同じ民家の南端の軒下に惺窩先生幽栖址従是西二丁という小さな自然石の道標がある。勿論、惺窩先生とは戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者・藤原惺窩のことである。藤原惺窩は永禄4年(1561)公家の冷泉為純の三男として下冷泉家… ►続きを読む
市原の町並み
市原の町並み(いちはらのまちなみ) 2010年9月18日訪問 市原の町並み また同書の市原野の条には、「幡枝村から市原村中心部に至る鞍馬街道沿いの細長い山間」を市原野と呼ぶと記されている。この地は弘仁4年(813)10月7日に嵯峨天皇が遊猟したことからも分かるように平安時代には遊猟地として知られていた。次いで鞍馬寺への参詣や大原へ行くための街道として利用されてきた。「山槐記」治承3年(1179)5月25日の条には「巳終刻参鞍馬寺云々、於櫟原野河辺避暑」とある。この参拝客を狙った盗賊も出没していたようだ。鎌倉時代の説話集「古今著聞集」には、市原野で源頼光を待ち伏せた鬼童丸が逆に一刀のもとに… ►続きを読む
鞍馬寺 その11
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その11 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 魔王殿 鞍馬寺 その10では、鞍馬弘教と魔王尊について書いてきた。ここからは鞍馬寺最後の項として奥の院の景色を見ていきたい。 先ず与謝野晶子の荻窪での書斎・冬柏亭の裏側に息つぎの水と呼ばれる湧き水がある。僧正谷での武芸修行のため、由岐神社の上にあった東光坊から毎夜抜け出した牛若丸が途中で喉を潤したところとされている。この近くの屏風坂には革堂地蔵尊がある。一枚岩の屏風を立てたような急坂があったことから名付けられている。鞍馬山の頂上付近には義経公背比石と呼ばれる1.2m程度の石英閃光緑岩が立てられて… ►続きを読む
鞍馬寺 その10
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その10 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 大杉権現社 鞍馬寺 その9では、大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と天台宗からの分離独立の背景について書いてきた。この項では戦後すぐに開宗した鞍馬弘教の教えについて見ていく。 鞍馬弘教の中でも特に初期の教えについて学ぶには、色々探してみたが信楽香雲貫主が記した「鞍馬山歳時記」(鞍馬弘教総本山 1988年刊)を参照するのがよさそうである。これは鞍馬寺が1988年に「くらま山叢書 4」として発刊したものでる。一見、その書名からすると鞍馬寺の年中行事を紹介する随筆集のようにも見える。確かに季節毎の行事を紹介… ►続きを読む
鞍馬寺 その9
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その9 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金堂 鞍馬寺 その8では、日本独自の天狗の進化を中心に義経伝説の発生まで見てきた。この項では大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と戦後すぐに開宗した鞍馬弘教について書いみる。 鞍馬寺 山門 鞍馬弘教の説明に入る前に、信楽香雲貫主の生い立ちから整備事業を見ていく。前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜に従うと、香雲貫主は明治28年(1895)10月20日、岐阜県郡上郡八幡町の服部真静とかつの三男・誠三として生まれている。同40年(1907)地元の八幡尋常小学校… ►続きを読む
鞍馬寺 その8
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その8 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 鞍馬寺駅前の天狗像 鞍馬寺 その7では、中国と日本の天狗のイメージ形成について調べ、「今昔物語」の巻20第2話の「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」まで見てきた。ここからはさらに進めて鞍馬山の天狗伝説と牛若丸について書いてみる。 「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」では叡山の高僧にあっけなく調伏されてしまう中国天狗が出てきた。怪異に対する仏法の優位性を示す構成となっているので、やや気弱でコミカルな天狗となっている。しかし同じ「今昔物語」でも巻20の第7話「染殿后為天狗被嬈乱語 第七」には、おどろおどろしい天狗… ►続きを読む
鞍馬寺 その7
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その7 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 鞍馬寺 その6では、鞍馬寺の教義の推移と修験者について、そして僧正が谷の由来となった権僧正壹演まで見てきた。ここではさらに一歩進めて中国と日本の天狗の違いについて書いてみる。 鞍馬山の天狗はどこから来たのであろうか?元々天狗は中国から日本に入ってきたものであるが、その姿やイメージは現在の日本の天狗とはかなり異なっていた。司馬遷の「史記」天官書87に以下のような記述が見られる。?最初の「天狗,狀如大奔星,有聲」は、「天狗(てんこう)、その姿は大流星で音がする」という意味である。つまり大気圏に突入した… ►続きを読む
鞍馬寺 その6
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その6 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院の入口 鞍馬寺 その5では、鞍馬寺と与謝野鉄幹・晶子夫妻の関係から2人が創設に関わった文化学院の挫折、そして2人の歌碑と冬柏亭を見てきた。ここからは鞍馬寺の教義の推移、鞍馬山と修験者について書いてみたい。鞍馬寺の成り立ちを知る上で、第一に挙げねばならない書物は「鞍馬蓋寺縁起」であろう。これは室町時代に纏められたもので、大日本仏教全集に収録されている。「鞍馬蓋寺縁起」はその名称通り鞍馬寺開創の歴史を綴ったものである。上一と二段に鑑禎上人が鬼女と毘沙門天王に出会った説話が残されているが、この説話は「鞍馬… ►続きを読む
鞍馬寺 その5
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その5 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 冬柏亭 由岐神社の拝殿を潜り、鬼一法眼社、魔王の滝、吉鞍稲荷社、そして放生池を過ぎると再び普明院に戻る。ここから再びケーブルを使い本殿金堂を目指す。そこから今度は奥の院参道に入って行く。 鞍馬寺 奥の院入口 本殿左側の参道を進むと霊宝殿の手前に與謝野晶子・寛歌碑と冬柏亭がある。先代管長の信楽香雲が與謝野晶子・寛に師事したことからこの鞍馬寺に造られた。香雲管長の前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜によれば明治28年(1895)に岐阜県郡上郡八幡町の服部真静… ►続きを読む
由岐神社
由岐神社(ゆきじんじゃ) 2010年9月18日訪問 由岐神社 本殿 鞍馬寺 その4で、九十九折の参道を下っていくと、川上地蔵堂と義経公供養塔を越えた先に由岐神社の割拝殿が見えてくる。由岐神社は鞍馬寺の鎮守社であり靭明神とも呼ばれる。大己貴命と少彦名命を主祭神として由岐大明神と総称する。また八所大明神を相殿に祀る。もともと八所神社は鞍馬山山頂にあったが文化年間(1804~18)に由岐神社に合祀されている。恐らく文化11年(1814)鞍馬寺は全山炎上の大火災を被っているので、それ以降のことと考えられる。 由岐神社 本殿 縁の上に石造狛犬が見える 大己貴命は大国主神で国津神の主宰神とされ… ►続きを読む
鞍馬寺 その4
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その4 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金剛床と本殿金堂 寝殿と転法輪堂の間の石段を登っていくと本殿金堂が建つ地盤面に到達する。仁王門前からここまでの間でこれだけ広い平坦な土地はなかった。ここに鞍馬寺の主要な堂宇が建設されるのは必然の事であろう。本殿金堂は文化11年(1814)3月29日に焼失し、明治5年(1872)秋に再建されている。しかし昭和20年(1945)にまたも全焼したため、昭和46年(1971)にRC造で再建したものである。この年の6月7日に落慶供養が執り行われている。七間七間で一重入母屋造。内部は外陣、内陣、内内陣に分かれ、内内陣… ►続きを読む
鞍馬寺 その3
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その3 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 多宝塔 鞍馬寺では鞍馬の地名について、そして鞍馬寺 その2では鞍馬寺の開創から現在の鞍馬弘教総本山までの歴史を見てきた。ここでは境内について書いていくこととする。仁王門へと続く石段の左手には歓喜院修養道場がある。既に廃絶した山内の十院九坊を結集するために昭和39年(1964)に建立されている。聖観音像を奉安し写経・法話ならびに書道・華道・茶道・水 墨画によって心を磨く修養道場となっている。石段の上に建てられた仁王門を潜るとすぐに普明殿と呼ばれる堂宇に参拝者のためのケーブル駅が設けられている。この鞍馬山ケー… ►続きを読む
鞍馬寺 その2
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その2 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 仁王門 叡山電鉄の鞍馬駅から大天狗を左手に眺めながら進んでいくとすぐに鞍馬街道に合流する。道なりに歩を進めると鞍馬寺の石段とその上の仁王門が見えてくる。石段の右手には赤褐色の鞍馬石で造られた寺号標が建つ。仁王門は柱間が正面三つで中央の一間が戸口になっている三間一戸の丹塗の楼門様式。元からあった古い楼門が明治24年(1891)11月に焼失している。今の仁王門は20年後の明治44年(1911)4月に復興竣工したものとされている。この仁王門の脇には勅使門があったことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブ… ►続きを読む