徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:訪問地

伏見の町並み その2

 

伏見の町並み(ふしみのまちなみ)その2 2009年1月11日訪問 伏見の町並み 魚屋通の交差点から伏見奉行所跡を眺める 桃山へと続く左手側に上っていく  旧幕府軍の伏見奉行所跡から、新政府軍の本営である御香宮神社に向かう。伏見奉行所跡の石碑が面する通りの名称は分からないが、京町通と本町通の延長すなわち国道24号奈良街道の間の道を北に進む。この道を歩くと実感することは、御香宮神社と伏見奉行所跡との位置関係である。南北に走る魚屋通から大手筋通まで約100メートル程度。この僅かな距離で旧幕府軍と新政府軍が対峙していたことは、実際にこの場所に立たないとなかなか理解できない。そして宇治川に面してい… ►続きを読む

 

伏見奉行所跡 その2

 

伏見奉行所跡(ふしみぶぎょうしょあと)その2 2009年1月11日訪問 伏見奉行所跡  京町通の魚三楼の前を過ぎ、さらに南に進むと、東西に走る魚屋通に出会う。ここで左に折れ、近鉄京都線の高架の下を潜ると目の前に大きな団地が広がる。右に曲がり30メートルくらい進むと、団地の入口の脇に伏見奉行所跡の碑が建つ。ここが慶応4年(1868)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおける伏見方面の主戦地となった伏見奉行所の跡地である。 伏見奉行は、江戸以外の幕府直轄領すなわち天領の内で重要な場所に置かれた遠国奉行の一つである。京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行の各町奉行に対して伏見奉行は長崎奉行、山田奉行… ►続きを読む

 

魚三楼 その2

 

魚三楼(うおさぶろう)その2 2009年1月11日訪問 魚三楼 南側から眺める 左の建物は比較的新しい 右の建物の暖簾の右側の窓格子に銃痕が見られる  東福寺駅前にある仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道の道標を眺めながら、京福電鉄京阪本線に乗車し、7つ先の伏見桃山駅で下車する。改札口を出ると目の前を大手筋通が東西に走る。通りの名前から分かるように、豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門へと続く道とされている。 この道を東に進み、近鉄京都線のガード下に入る手前を右に折れる。この道が京町通であることを示す表示板が立つ。伏見築城の際、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」… ►続きを読む

 

東山本町陵墓参考地 その2

 

東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)その2 2009年1月11日訪問 東山本町陵墓参考地  六波羅門から東福寺の境外に出る。塔頭寺院の東光寺、桂昌院、荘厳院そして願成寺の前を通り、南門を潜り伏見街道に出る。伏見街道、すなわち本町通を北上し、京阪電鉄京阪本線の東福寺駅に向かう。東福寺の中門を過ぎた先、東側の町家の並びが一瞬途絶える箇所がある。地図上では、リカー&フーズおおにしの手前、丁度霊雲院の九山八海の庭の西側に位置する。ここは仲恭天皇の陵墓参考地とされている。既に仲恭天皇については仲恭天皇九條陵 その2で、陵墓参考地についても東山本町陵墓参考地で既に書いているので… ►続きを読む

 

東福寺 その5

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その5  2009年1月11日訪問 東福寺 五社成就宮  東福寺の三門の東側に鳥居が見える。鳥居の北側に見える最勝金剛院の参道が緩やかに上っていくのに対して、この部分はいきなり高台となっているので、鳥居の先から石段が始まる。登り切った先に五社成就宮が現れる。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社ともいわれる東福寺の鎮守社である。 東福寺 五社成就宮 東福寺 五社成就宮  東福寺 その4で触れたように、寛元元年(1243)3月15日に九条道家は法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行い、成就宮と号している。… ►続きを読む

 

東福寺 その4

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その4  2009年1月11日訪問 東福寺  東福寺 その2、東福寺 その3に続き、創建の頃の東福寺の歴史と共に、東福寺の開山となる聖一国師が住した普門寺と東福寺の北側にあった三聖寺、後の時代に移転してきた万寿寺の歴史についても眺めていく。 東福寺 海蔵院 東福寺 龍眠庵  東福寺開山堂・普門院その3でも記したように、東福寺自体が完成する前に創建された普門寺の存在も現れてくる。凌霄山普門寺は、東福寺常楽庵(現在の開山堂と普門院のある寺域)の西方低地に実在した寺院で、かつては京都十刹の六位に位置付けられていた。開山は東福寺と同じ… ►続きを読む

 

東福寺 その3

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その3  2009年1月11日訪問 東福寺 偃月橋から洗玉澗を眺める  東福寺 その2に続き、福山敏男氏の「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)を参照しながら、どのように法性寺が東福寺に替わって行ったかについて考えていく。 東福寺 九条通に面した寺号標石  九条道家の日記・玉藻から、嘉禎3年(1237)10月、最勝金剛院の地より東福寺造営に着手したことが分かるようだ。東福寺 その2で記したように、この時期の法性寺と最勝金剛院の力関係は逆転していたから、法性寺を改めて東福寺とすることは最勝金剛院の敷… ►続きを読む

 

東福寺 その2

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その2  2009年1月11日訪問 東福寺 三門 (国宝 応永32年(1425)再建、現存する禅寺の三門としては日本最古)  最勝金剛院の山門を出て参道を下ると、正面に東福寺の本堂が現れる。 東福寺の公式HPに記されている歴史は、京都五山の第四位の大寺院にしては非常に簡潔なものである。嘉禎2年(1236)九条道家が奈良の東大寺と興福寺から一字づつ採り、それを寺号とする京都最大の伽藍の造営を思い立ったこと、寛元元年(1243)に聖一国師を開山に迎え、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したことを記した後、戦火等を受けるもその度に復興し、現在… ►続きを読む

 

東福寺 最勝金剛院

 

東福寺 最勝金剛院(さいしょうこんごういん) 2009年1月11日訪問 東福寺 最勝金剛院 山門へと続く参道に並ぶ石灯籠  前回の訪問の時、一番奥にある最勝金剛院の山門前で時間切れとなり、引き返らざるを得なかった。 もともと月下門と勅使門は使用されていないため、残りの日下門と六波羅門を閉じると、臥雲橋の架かる道から東側の東福寺の境内は隔離される。拝観時間終了前に寺院関係者がスクーターに乗車し、境内に人が残っていないか確認していた。広い境内だから当たり前のことかもしれないが、初めて見る光景だったので驚いた。速やかに日下門から外に出るように促されたため、最勝金剛院の山門より中に入ることができ… ►続きを読む

 

東福寺 退耕庵

 

東福寺 退耕庵(たいこうあん) 2009年1月11日訪問 東福寺 退耕庵 客殿の妻面の眺める  東寺の南大門を潜り、九条通に出る。次の東福寺退耕庵は、徒歩でも行ける距離ではあるが、何回か歩いたことがあるので、今回はバスに乗車することとした。比較的待たずにバスは来たが、車庫に入るため途中の九条車庫前で一度下車させられた。時間が押していたので、バスの方が早く着くと考えたが、どうも徒歩と変わらなかったようだ。 九条通の陸橋に登り鴨川を渡り、JR奈良線、京阪電鉄そして伏見街道を越えると、万寿寺の前にある東福寺停留所に至る。東福寺の大きな「大本山東福寺」の寺号標石の脇を抜け、そのまま南に進むと退耕… ►続きを読む

 

教王護国寺 観智院

 

教王護国寺 別格本山 観智院(かんちいん) 2009年1月11日訪問 観智院 五大の庭  東寺の北大門を潜ると櫛笥通に出る。この通りは、西の壬生大路と東の大宮大路の中間に造られた平安京の小路にあたる。平安京の東市の西側に面し、二条大路から九条大路の間に造られた小路と推測されるが、神泉苑や平安時代末期には平清盛の西八条邸により分断されている。さらに平安時代中期以降の右京の衰退に伴い、朱雀大路やこの小路も衰退していった。現在では、途切れ途切れの細い道となっている。 観智院 東寺の北大門からの眺め 右手に観智院の南大門が見える 観智院 南大門 観智院  以前の訪問の時に触れた… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その4

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その4 2009年1月11日訪問 教王護国寺 五重塔  今回、東寺を訪問した目的は、境内の東南に建立された五重塔の特別公開が行われるためである。拝観受付で五重塔の拝観を含めたチケットを購入する。 教王護国寺 五重塔の初層 教王護国寺  東寺の五重塔は、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海により創建着手にはじまるとされているが、普請の勧進が進まなかったことや御神木事件が発生し、五重塔の竣工は遅れていた。御神木事件とは、時の天皇・淳和天皇が病に臥したのは、東寺造営用の木材を稲荷山から神… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その3

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その3 2009年1月11日訪問 教王護国寺 大宮通から眺め  リーガロイヤルホテル京都の車寄前に建つ新選組不動堂村屯所跡を説明する石碑を見た後、堀川通を南に下っていく。油小路通の項で記したように、この地で堀川通が油小路通に合流し、油小路通となる。現在の堀川通は6車線の南北方向の主要幹線であるため、油小路通の方が合流したようにも思える。堀川通は、平安京の堀川小路であり、川幅4丈の堀川の両側に2丈ずつの小路があった。そのため川と道路を合わせると幅員は24メートルとなるため、大路と間違えられることもあったようだ。 JRの東海道線と東海道新… ►続きを読む

 

不動堂村屯所跡

 

不動堂村屯所跡(ふどうどうむらとんしょあと) 2009年1月11日訪問 不動堂村屯所跡 リーガロイヤルホテル京都前  木津屋橋通を越えて、さらに油小路通を南に下ると塩小路通に出る。京都駅前の広場につながる通りであるため、再開発が進み大規模な建物が並ぶ地域になっている。油小路通も塩小路通に出ると、横断歩道橋越しにリーガロイヤルホテル京都が見えてくる。この車寄せに向かっていくと新選組不動堂村屯所跡の石碑が建つ。霊山歴史館の木村幸比古氏による説明板には「この付近」という文字が書き加えられている。かつての屯所の位置は、正確には特定されていないことが分かる。現在もこの地には北不動堂町と南不動町の地… ►続きを読む

 

七条油小路の辻

 

七条油小路の辻(しちじょうほんこうじのつじ) 2009年1月11日訪問 七条油小路の辻 南側から眺める 当時の七条通は現在の半分位の幅員だったと考えられている  油小路通を下り、木津屋橋通の本光寺の山門まで至る。慶応3年(1867)11月18日の夜、この山門前に置かれた題目石塔に倒れ掛かるようにして伊東甲子太郎は絶命する。新選組は伊東の遺骸を七条油小路の辻に運び、月真院に伊東の死を伝えさせる。現在の七条通は4車線の大通りとなっている。これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業により、七条通が北側に拡幅された結果である。そのため伊東の遺骸が置かれた幕末の七条通は現在の中央線から南側… ►続きを読む

 

本光寺

 

日蓮宗 実相山本光寺(ほんこうじ) 2009年1月11日訪問 本光寺 山門  正面通を過ぎてさらに油小路通を南に下ると七条通に出る。現在の七条通は4車線の大通りとなっているが、これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業によって西大路通までが拡幅された結果である。そして京都市電七条線が敷設された。そのため幕末の七条通は現在の中央線から南側で、北側に向かって拡幅されたようだ。新選組はこの七条油小路に伊東甲子太郎の遺骸を移し、御陵衛士をおびき出した。油小路事件の後半部分は、時系列に合わせて記すため本光寺の項の後に触れることとする。  七条通を渡りさらに油小路通を進むと、油小路町の地名が… ►続きを読む

 

天満屋事件跡

 

天満屋事件跡(てんまんやじけんあと) 2009年1月11日訪問 天満屋事件跡 祠の左の石碑  油小路通でも触れたように、旧花屋町通を過ぎた西側に美好園茶舗の町家がある。この先に間口の狭い1階を車庫とした搭状の建物が並び、その間に小さな祠が祀られている。この祠の脇に中井正五郎殉難地の石碑が建つ。 天満屋事件跡 町家の左側  中井庄五郎(正五郎)は弘化4年(1847)十津川野尻郷の郷士・中井秀助の三男に生まれる。幼少時から剣術を学び、田宮流抜刀術の居合い術を取得している。文久3年(1863)同じ十津川郷士で横井小楠暗殺の容疑者とされる上平主税に連れられて上京し、御所警衛に参加している。… ►続きを読む

 

洛中の町並み その11 油小路通2

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ)その11 油小路通2 2009年1月11日訪問 洛中の町並み 油小路通 正面通の町並み 洛中の町並み 油小路通 天満屋事件跡  中井正五郎殉難地を過ぎてさらに南に進む。正面通と交わる角に伊東忠太が設計した西本願寺伝道院が建つ。改修工事の仮囲いがあったためか、撮影した写真の中に映像が残っていなかった。現在(2011年8月)は改修工事も終了し、一般に公開されているようだ。日を改めて訪問したい建物のひとつである。 伝道院は明治45年(1912)に真宗信徒生命保険会社の社屋として建築されている。レンガ造りの2階建で正面および東面に塔屋が付き、また北面お… ►続きを読む

 

洛中の町並み その10 油小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ)その10 油小路通 2009年1月11日訪問 洛中の町並み 油小路通 天満屋事件跡  四条烏丸より市営地下鉄に乗車し、一駅南に下った五条で下車する。地上に出ると目の前に烏丸通が現れる。本日の最初の訪問地は油小路通にあるため、丁度1坊分、西に移動する。油小路通は幕末の油小路事件で有名な通りでもある。 洛中の町並み 油小路通 五条通から南を眺める  油小路通は京都市の主要な南北の通りの一つで、平安京の油小路にあたる。紫明通から北は堀川通と新町通の間を通る道となっている。この部分は大徳寺の東北にあたり、区画が整理された住宅地である。そして紫明通から上立… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その4

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その4  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口から全景を眺める  石田孝喜著「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)には、この墓地の成り立ちついて詳細に記されている。鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)1月10日に終わり、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24体の遺体は、この地に埋葬され、一名ずつ木の墓標が建てられた。そして明治33年(1900)の33回忌に墓標が現在の石標に替えられ、この時に14名の戦傷病死者が追祀されている。 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口… ►続きを読む

 
 

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