文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:200912

常寂光寺 その3

 

日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その3 2009年12月20日訪問 常寂光寺 歌遷祠  常寂光寺の仁王門の北側に小倉百人一首編纂の地という小さな石碑が建っている。南面には上記の文字が見え、西面には藤原定家卿山荘址とある。常寂光寺 その2で触れたように、常寂光寺開山時に創建以前よりあった小祠・歌僊祠を山上に移している。これは寺の庫裏を定家卿の祠より上の場所に建設することは恐れ多いという理由からとされている。この石碑が誰によって何時建てられたかについては、フィールド・ミュージアム京都を参照しても分からないが、境内に設置されていることから常寂光寺が建てたと考えるのが自然であろう。定家山荘の場所については諸説あるが、この常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側のいずれかの場所にあったと伝え… ►続きを読む

 

常寂光寺 その2

 

日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その2 2009年12月20日訪問 常寂光寺 多宝塔と比叡山  常寂光寺に引き続き、公式HPの寺歴に従うと、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築し本堂としたとある。これは第二世通明院日韶上人の代のことであり、この桃山城とは伏見城のことである。江戸期の文献や資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の常寂光寺の図絵から、江戸時代中期の本堂の屋根形状が分かる。なお現在の平瓦葺きの屋根は、昭和7年(1932)の大修理の時に改修されている。建立の年代は慶長年間とされている。 小早川秀秋は関ヶ原の戦いの後ほどない慶長7年(1602)10月18日に早世しているので… ►続きを読む

 

常寂光寺

 

日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ) 2009年12月20日訪問 常寂光寺 山門  小倉池の北端から80メートル位北に歩くと常寂光寺の山門が現れる。 常寂光寺は日蓮宗の寺院で、山号は小倉山。元々、この地には天龍寺の弘源寺があった。弘源寺は永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之が、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建した寺院である。小倉山の麓に位置し、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していた。しかし弘源寺に関する記述は実に少ない。地誌においては「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の巻九に他の天龍寺の塔頭とともに、その歴史が簡潔に記述されている。上記のように玉岫英種を開山として細川持之… ►続きを読む

 

御髪神社

 

御髪神社(みかみじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御髪神社  大河内山荘から北に向かって進む。JR西日本山陰本線のトンネル上を越え、トロッコ嵐山駅に出るところで道が分岐する。左手に小倉池が広がる。既に3時近くになり日が傾き、池面に山の影が落ち始めていた。人出はあるもののなんとなく薄寒い感じのする場所である。御髪神社はこの小倉池の西岸にある。トロッコ嵐山駅から落柿舎や常寂光寺、二尊院に向かう観光客は池の東岸を進むため、比較的人通りの多い場所の近くにあるにも係わらず訪れる人があまり多くないのかもしれない。そのため参道の入口には「奉納 御髪神社」の幟が何旒も立てられ、御髪神社の謂れを記した駒札が設置されている。雨露に晒され、少し読みにくくなっているが、なかなか面白い文章なので下記に記しておく… ►続きを読む

 

大河内山荘

 

大河内山荘(おおこうちさんそう) 2009年12月20日訪問 大河内山荘 大乗閣と京の眺め  既に嵯峨野の町並み その5でも記述したように嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられている。ここより北側に入ると野宮神社の黒木鳥居がある。再び分岐点まで戻り、西へと続く道を進む。左手に現れる天龍寺の北門を過ぎてさらに進む。このあたりが嵯峨野の竹林の中で最も美しい場所ではないかと思う。やがてこの道は突き当たり南北に分かれる。南は嵐山公園亀山地区につながり、北はJR西日本山陰本線のトロッコ嵐山駅を越えると小倉池と御髪神社へと続く。大河内山荘の入口は、この突き当たりにある。 大河内山荘 入口 大河内山荘 独特な意匠の中門  大河内山荘は大正、昭和期… ►続きを読む

 

野宮神社 その2

 

野宮神社(ののみやじんじゃ)その2 2009年12月20日訪問 野宮神社  嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられていることは、既に嵯峨野の町並み その5で記述した。この分岐点の北側には野宮神社の黒木鳥居がある。この道は三宅安兵衛遺志の道標にもあるように、野々宮、常寂光寺、落柿舎、二尊院に至る道であるため、嵯峨野を散策する観光客の大部分が通る路となっている。薄暗い竹林の中の細い小路であるため、いつも渋滞している印象が強い。 嵯峨野の町並み その3でも記したように、この路はかつての亀山殿の野宮大路にあたる。財団法人京都市埋蔵文化財研究所が2005年に報告した「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)には… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その5

 

嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その5 2009年12月20日訪問 嵯峨野の町並み 三宅安兵衛遺志の道標 豆腐茶屋の看板の方が大きい  千光寺の石段を下り、大堰川沿いを再び櫟谷宗像神社まで戻る。 渡月橋を渡り嵯峨野に入る。嵯峨野については、嵯峨野の町並み、その2、その3、その4と書いてきたので、新たに書き足すこともないが、美しい竹林の写真が撮影できたので、ここに残しておく。 嵯峨野の町並み 嵯峨野の町並み 小倉百人一首文芸苑 建石町広場 2008年12月21日撮影  渡月橋から丸太町通をつなぐ京都府道29号線宇多野嵐山山田線は、いつ訪れても人通りが途切れることが無い。また訪れる度に新しい店を発見するなど、嵐山が清水寺や哲学の道と同じく、人気の観光地であることを思い知らされる。かつての嵯峨の朱雀大… ►続きを読む

 

大悲閣千光寺 その2

 

黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)その2 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 了以像  大悲閣千光寺では、その位置と角倉了以よる中興までの歴史について記した。ここでは了以が大悲閣千光寺を創建することとなった河川開削事業について書いてみる。 大悲閣千光寺 大悲閣 大悲閣千光寺 大悲閣内部  角倉家の本姓は吉田氏で、近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる。角倉家は洛中帯座頭を務めるなど洛中における経済の中核となる。宗忠は土倉業を長男の光治に継ぎ、次男の宗桂には医者を継がせ… ►続きを読む

 

大悲閣千光寺

 

黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ) 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 大河内山荘からの眺め  渡月橋より大堰川右岸の大悲閣道を凡そ1キロメートル上流に歩くと、大悲閣千光寺へと続く石段が現れる。この石段の始まる左手には、松尾芭蕉の「花の山 二町のぼれば 大悲閣」句碑と称するものがある。確かに芭蕉は弟子の去来が買い求めた落柿舎に元禄4年(1691)4月18日から17日間滞在し、嵯峨の山川名跡を訪れ「嵯峨日記」を残している。しかし前記の句は「嵯峨日記」にも掲載されていない、出典不詳の句とされている。 大悲閣千光寺 参道の入口 大悲閣千光寺 参道の入口に建つ芭蕉の句碑  司馬遼太郎の「街道をゆく 二十六」(朝日新聞社版 1985年刊)に仙台・石巻とともに嵯峨散歩が掲載されている… ►続きを読む

 

大堰川

 

大堰川(おおいがわ) 2009年12月20日訪問 大堰川  櫟谷宗像神社を出て、大悲閣を訪問するため大堰川の右岸を上流に向かって歩いて行く。この道は自動車の通行も無く、ほぼ歩行者のための道となっている。 大堰川 渡月橋を眺める 大堰川  既に嵐山の町並みで大堰川と秦氏による開発、渡月橋でも大堰川あるいは大井川について、葛野大堰で秦氏の末裔の道昌僧正による大堰の修復と一之井堰と書いてきたので、これ以上大堰川について語ることはないが、大悲閣への途上で見かけた美しい景色を写真に収めることができたので、さらに少し大堰川について書いてみる。 大堰川 左岸の亀山 大堰川 右岸の大悲閣道  桂川は一級水系の淀川水系に含まれる一級河川のひとつである。淀川水系の本川としては琵琶湖、勢田川、宇治川と新淀川の5つがあ… ►続きを読む

 

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