徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:陵墓

安樂壽院南陵

 

安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院南陵  近鉄京都線の竹田駅から安楽寿院へ向かう道で見えた多宝塔が近衛天皇の安樂壽院南陵である。現在の安楽寿院の書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西軸に並ぶのに対して、安樂壽院南陵はその南に位置している。さらに御陵の南側には新しい小枝橋へとつながる4車線の幹線道路・新城南宮道が西に向かって走る。 この安樂壽院南陵に祀られている近衛天皇は、安樂壽院陵でも触れたように、鳥羽上皇の第九皇子・体仁親王である。生母は上皇の寵愛を受けた藤原得子(美福門院)であった。保延5年(1139)に生まれた親王は、… ►続きを読む

 

安樂壽院陵

 

安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院陵 工事中  安楽寿院の収蔵庫から道路を隔てた西側に鳥羽上皇の安樂壽院陵がある。丁度訪問した時は陵の塀の工事中のようで、一部仮囲いが架かり、宝形の屋根のみがぽつんと見えた。 鳥羽天皇は康和5年(1103)堀川天皇と女御・藤原苡子の間に宗仁親王として生まれている。苡子は大納言藤原実季の娘で堀川天皇の中宮ではない。中宮である篤子内親王が高齢で子女に恵まれなかったため、苡子は皇子出産の期待をかけられて入内している。宗仁親王を出産したものの、苡子はその直後に28歳の若さで亡くなっている。宗仁親王は祖父の白河法皇の下に引き… ►続きを読む

 

東山本町陵墓参考地 その2

 

東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)その2 2009年1月11日訪問 東山本町陵墓参考地  六波羅門から東福寺の境外に出る。塔頭寺院の東光寺、桂昌院、荘厳院そして願成寺の前を通り、南門を潜り伏見街道に出る。伏見街道、すなわち本町通を北上し、京阪電鉄京阪本線の東福寺駅に向かう。東福寺の中門を過ぎた先、東側の町家の並びが一瞬途絶える箇所がある。地図上では、リカー&フーズおおにしの手前、丁度霊雲院の九山八海の庭の西側に位置する。ここは仲恭天皇の陵墓参考地とされている。既に仲恭天皇については仲恭天皇九條陵 その2で、陵墓参考地についても東山本町陵墓参考地で既に書いているので… ►続きを読む

 

仲恭天皇 九條陵 その2

 

仲恭天皇 九條陵(ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ)その2  2008/12/22訪問 仲恭天皇九條陵  九條陵へ続く参道は、崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の前を過ぎてさらに東に緩やかに上っていく。鳥羽伏見戦防長殉難者之墓を右手に見ながら、進むと宮内庁の管理用の建物があり、ここで参道は右手に折れる。皇嘉門院月輪南陵が参道に面して北向きであったのに対して、この九條陵は西向きに築かれている。 後の仲恭天皇となる懐成親王は、建保6年(1218)順徳天皇の第一皇子として生まれている。母は九条良経の娘・九条立子であった。良経は、皇嘉門院の異母弟にあたり九条家の祖となった九条兼実の次男である。… ►続きを読む

 

崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵

 

崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(こうかもんいんつきのわみなみりょう)  2008/12/22訪問 皇嘉門院月輪南陵  前回九條陵を訪問した際は、陵の場所が良く分からず東福寺の方に道順を尋ねた。どうも聞いた方もあまり詳しくなかったようで、おおよその場所の情報しか得られなかった。大雑把な地図を頼りに、日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまい。ついに見つからないのではと思った時に、大きな木の下に碑があるのに気が付いた。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。 今回は前回の道筋と光景を覚えていたので、何も迷うこ… ►続きを読む

 

朝彦親王墓 その3

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その3 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓  安政6年(1859)12月7日に、退隠 永蟄居が加えられた朝彦親王は、12月11日に青蓮院を出て相国寺の塔頭桂芳軒に移り、獅子王院宮と名を変えて謹慎する。安政の大獄の処刑は安政6年(1859)10月27日の吉田松陰を以って終わる。そして翌万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変で、井伊直弼は水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。しかし朝彦親王の永蟄居が許されるのは、さらに先の文久2年(1862)4月30日まで待たねばならなかった。明らかに弾圧の首謀者がいなくなったにもかかわらず許されなかった2年… ►続きを読む

 

朝彦親王墓 その2

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その2 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓  朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。朝彦親王も同様だが、父の邦家親王は17王子、15王女と現在では考えられないほど子宝に恵まれている。第1王子・山階宮晃親王(文化13年(1816)生まれ)、第2王子・聖護院宮嘉言親王(文政4年(1821)生まれ)、第3王子・曼殊院宮譲仁親王という兄達の母が藤木壽子であるのに対して、朝彦親王の母は青蓮院坊官・鳥居小路経親の長女信子である。坊官とは門跡寺院の家臣のなかで最上位の者であるため、卑賤の子と言うわけではない。伏見宮家は妃鷹司景… ►続きを読む

 

朝彦親王墓

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか) 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 賀陽宮墓地と久邇宮墓地  雲龍院の拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地がある。 文久3年(1863)の八月十八日の政変の政変後、一時尹宮と称していた中川宮朝彦親王は、翌元治元年(1864)に賀陽宮の宮号を賜っている。宮号は朝彦親王の宮邸として賜った京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所にあった榧の老木に由来すると言われている。明治元年(1868)朝彦親王が広島流謫された際に宮家は廃されるが、明治33年(1900)朝彦親王の第2王子である邦憲王によって宮家は再興され… ►続きを読む

 

泉涌寺 月輪陵 その2

 

泉涌寺 月輪陵(つきのわのみささぎ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪陵・後月輪陵  孝明天皇の後月輪東山陵の参拝を終え参道を下る。御陵はかなり高台に造られているため、御座所などの建物の屋根が眼下に見える。御陵参道の入口から、泉涌寺の舎利殿前の受付で拝観料を納め、泉涌寺の境内に入る。今回の訪問の時は心照殿が休館だったため、御座所を含めた本坊の拝観が自由であった。 とりあえず境内と本坊の拝観を後回しにして、月輪陵と後月輪陵の参拝に向かう。仏殿と舎利殿の北側を廻り、霊明殿の唐門を過ぎると月輪陵と後月輪陵へ続く木の門が現われる。 泉涌寺 後月輪東山陵参道からの眺め 泉涌… ►続きを読む

 

泉涌寺 後月輪東山陵

 

泉涌寺 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪東山陵  後堀川天皇の觀音寺陵の石段を下り、再び参道を進む。参道の終着点はかなり広い空間となり、トラックが2台止められていた。おそらく御陵の整備のためのものだろう。傍らには菊花の手水があった。月輪陵で見かけたものと同じ意匠のものだ。 泉涌寺 月輪東山陵 泉涌寺 月輪東山陵  後月輪東山陵には第121代孝明天皇が祀られている。 天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子・統仁親王として生まれている。兄の親王達がいずれも早世しているため、天保11年(1840)に立太子されている。弘化3年… ►続きを読む

 

泉涌寺 觀音寺陵

 

泉涌寺 觀音寺陵(かんおんじのみささぎ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 觀音寺陵  来迎院の山門を出て石橋を渡り、左手の石段を登る。この来迎院と善能寺の敷地が、泉涌寺の境内に比べると谷筋にあることが分かる。すなわち泉涌寺が東山へと続く一様の斜面上ではなく、複雑な起伏の上に造られてきた。これがまた泉涌寺を散策する上で方向感覚を失う原因ともなっている。 泉涌寺 觀音寺陵 参道入口に建つ道標 泉涌寺 觀音寺陵  善能寺と来迎院の間の石段を登り切ると、目の前に泉涌寺の主要伽藍である仏堂と舎利殿が現れる。ここから中に入ると拝観料が必要になるので、觀音寺陵と後月輪東山陵の参拝を先に… ►続きを読む

 

宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所

 

宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所(くないちょうしょりょうぶ)  2008年12月22日訪問 宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所 奥に善能寺祥空殿の屋根が見える  今熊野観音寺の鳥居橋を再び渡る。この今熊野観音寺への参道と御寺泉涌寺霊園へと続く道、そして塔頭の善能寺と来迎院へ続く道の合流点まで戻る。ここから善能寺、来迎院を経由して泉涌寺の本坊へと向かう際に、宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を通りかかる。 宮内庁書陵部書陵部では、皇室関係の文書・資料の管理と編修及び陵墓の管理が行われている。書陵部は図書課、編修課、陵墓課の3つの課と5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所の4つの組織に… ►続きを読む

 

嵯峨小倉陵

 

嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ) 2008年12月21日訪問 嵯峨小倉陵  去来墓と西行井戸から再び鳥居本に連なる道に戻り、北へ進む。二尊院の門前を過ぎ、祇王寺・滝口寺そして檀林寺へ入っていく道を左手に見ながら、さらに200メートルくらい北へ向かう。左手に分かれる道の入口に、生垣を前にして後亀山天皇嵯峨小倉陵参拝道の道標が建つ。小倉山の斜面に向かって参拝道はやや上っていく。200メートル近く西に入っていくと右手に嵯峨小倉陵の石造の鳥居が現れる。陵形は五輪塔。 嵯峨小倉陵 参拝道の始まり 嵯峨小倉陵 参拝道の道標  嵯峨小倉陵に葬られているのは、南朝第4代で最後の天皇となっ… ►続きを読む

 

有智子内親王墓

 

嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか) 2008年12月21日訪問 有智子内親王墓  野宮神社を後にして、再び嵯峨野の竹林の中に戻る。JR山陰本線の踏切の手前には、小倉百人一首文芸苑の野宮神社地区の細長い敷地がある。踏切を渡りそのまま北に進むと、京都府道29号宇多野嵐山山田線と常寂光寺を結ぶ道に合流する。この辺りから観光客の数が増えてくる。 さらに木立や生垣の続く道を北西方向に進むと、大きな畑が現れ景色が一変する。小倉山を背にして広がる田園風景は、嵯峨野を代表する景色でもある。畑の奥には有智子内親王墓の木々と落柿舎がある。落柿舎は解体工事中なのか素屋根が架けられている。… ►続きを読む

 

櫻本陵 その2

 

櫻本陵 (さくらもとのみささぎ) その2 2008年11月22日訪問 櫻本陵  安楽寺の石段を下りた先に、東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。既に周囲は宅地化された中に、矩形の敷地が手付かずに残されている。この冷泉天皇の櫻本陵の正面は、哲学の道をよーじや銀閣寺店の角から東に入った先にある。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子・憲平親王として生まれる。生後間もなくして、第1皇子の広平親王を押しのけて立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている。広平親王の母は大納言藤原元方の娘・祐姫であり、憲平親は藤原師輔の娘・… ►続きを読む

 

神樂岡東陵

 

神樂岡東陵 (かぐらがおかのひがしのみささぎ) 2008年05月17日訪問 神樂岡東陵  宗忠神社の参道を下り、真如堂に向けて東に進む途中に、神樂岡東陵が民家の中にある。神樂岡東陵には陽成天皇が祀られている。 陽成天皇は、貞観10年(869)清和天皇の第一皇子・貞明親王として生まれている。母は権中納言藤原長良の娘で女御藤原高子である。藤原高子については岡崎神社の項でも触れたように、元慶2年(878)岡崎の地に清和天皇の護願寺として東光寺を建立している。東天王社はその鎮守社として祀られたとも言われている。 生後3ヶ月で立太子となり、貞観18年(876)9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。… ►続きを読む

 

櫻本陵

 

櫻本陵(さくらもとのみささぎ) 2008年05月17日訪問 櫻本陵  大豊神社から再び哲学の道に戻り、北に向かい進む。地図の上では、南側から霊鑑寺、安楽寺、法然院が並ぶあたりは、大文字山の裾野であり、その西側は既に宅地化されている。安楽寺の前に東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。ここが冷泉天皇の櫻本陵である。哲学の道からよーじや銀閣寺店で東に入り、真直ぐ進むと正面に現れる。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子として生まれる。第1皇子の広平親王を押しのけて生後間もなく立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている… ►続きを読む

 

十樂院上陵

 

十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ) 2008年05月16日訪問 十樂院上陵 参道の門 神宮道より  再び知恩院の三門下に出る。ここから神宮道を北に進むと、東大路通から西に走る華頂道に出会う。この道の正面には知恩院の黒門があり、神宮道と華頂道の交差点には柵で囲まれた石がある。これは忘れ傘や鶯張りの廊下とともに知恩院の七不思議に数えられている瓜生石である。知恩院が建立される前からあったとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったという言い伝えがある。  さらに神宮道を北に進むと、知恩院と青蓮院の間に小さな門が現れる。ここが第95代花園天皇の御陵・十樂院上陵… ►続きを読む

 

仲恭天皇 九條陵

 

仲恭天皇 九條陵 (ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ)  2008/05/10訪問 仲恭天皇 九條陵  九條陵への道筋を東福寺で尋ねると、どうもはっきりした答えが返ってこなかった。とりあえず芬陀院から日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまった。あたりを少し探し歩くと大きな木のもとに石段と碑がある角に出た。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。 九條陵への入口 碑には九條陵・月輪南陵参道とある  石段を数段登ると参道は直角に折れ、東方向へ真直ぐに緩やかな勾配で伸びていく。途中右側に「崇徳… ►続きを読む

 

東山本町陵墓参考地

 

東山本町陵墓参考地 (ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)  2008/05/10訪問 東山本町陵墓参考地 塚本社址  霊雲院から芬陀院に行く途中、東山本町陵墓参考地に寄る。退耕庵の前を通り北門から境内を出て本町通(伏見街道)を南下する。なかなか分かりづらい場所のようなので注意深く進むと左手に町並みが途切れる場所があった。  天皇、皇后、皇太后などの墓所を「陵」と呼び、その他の皇族の墓所を「墓」とする。「陵墓参考地」は皇族の墓である可能性があるものとして、被葬者を特定せず、宮内庁が管理している墓所を示す。宮内庁のサイトでは陵188、墓552そして陵墓参考地46としている。この東山本町陵… ►続きを読む

 
 

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