文書と写真・地図による「記憶」の再現

泉涌寺 月輪陵 その2



泉涌寺 月輪陵(つきのわのみささぎ)その2 2008年12月22日訪問

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

 孝明天皇の後月輪東山陵の参拝を終え参道を下る。御陵はかなり高台に造られているため、御座所などの建物の屋根が眼下に見える。御陵参道の入口から、泉涌寺の舎利殿前の受付で拝観料を納め、泉涌寺の境内に入る。今回の訪問の時は心照殿が休館だったため、御座所を含めた本坊の拝観が自由であった。 とりあえず境内と本坊の拝観を後回しにして、月輪陵と後月輪陵の参拝に向かう。仏殿と舎利殿の北側を廻り、霊明殿の唐門を過ぎると月輪陵と後月輪陵へ続く木の門が現われる。

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泉涌寺 後月輪東山陵参道からの眺め
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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵
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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

 門内に入ると、左手に向かい白砂が敷き詰められた前庭が広がる。白砂の先には一段高い敷地があり、前庭との間に連子窓を入れた蕃塀が直線状に造られている。現地では気が付かなかったが、撮影した写真を見ると、この連子窓越しに御陵の石塔が薄っすら現われている。そして蕃塀の中央部には破風を持った門と前庭から上る石段が造られている。門の右手には菊花の形をした石の手水が置かれている。これは孝明天皇の後月輪東山陵に置かれている手水とは、若干デザインが異なっている。屋根も切妻だったものが、こちらでは入母屋になっている。
 前庭はほぼ正方形をし、先ほど前を通った唐門、霊明殿そして御陵への門が、西から東への軸線上に建設されている。そして、この軸船の延長線上に孝明天皇の後月輪東山陵も築造されている。

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

 宮内庁の公式HPに天皇陵についての情報が掲載されている。この中の歴代順を見ていくと、いろいろなことが見えてくる。延暦13年(794)桓武天皇が平安京に都を移してから東京奠都が成されるまで、ほぼ全ての天皇が京都府内の御陵に葬られている。数少ない例外を見ていくと、桓武天皇の次代の平城天皇の奈良・楊梅陵、崇徳天皇の香川・白峯陵、安徳天皇の山口・阿彌陀寺陵、後醍醐天皇の奈良・塔尾陵と後村上天皇の大坂・檜尾陵だけであることが分かる。平城天皇は都を再び平城京に戻そうとした天皇である。崇徳天皇は保元の乱で敗れ、配流の地の讃岐で憤死している。安徳天皇は壇の浦の戦いで敗れた平氏とともに、同地で入水している。そして南北朝時代の南朝の後醍醐天皇は本拠地の吉野に、京を向くように北面して葬られている。その次代の村上天皇も崩御した大坂の地に葬られている。 このように京都以外の地に葬られた天皇には、それなりの理由が残されている。例えば承久の乱により、隠岐島に配流された後鳥羽上皇は配所で崩御した後、大原勝林院町に大原陵に葬られている。佐渡に配流された順徳天皇も配所で崩御の後、父の後鳥羽上皇と同じ大原陵に葬られている。承久の乱に直接加わらなかったものの、父の後鳥羽上皇の遠流に心痛めた、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流されている。

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

 また上記の宮内庁の歴代順天皇陵のリストには、光厳から後円融までの5代にわたる北朝の天皇が掲載されていない。これを加えて、大覚寺統と持明院統の色分けを行う。龜山天皇、後宇多天皇そして長慶天皇、後龜山天皇は嵯峨にある御陵に葬られている。それに対して後深草天皇、伏見天皇、後伏見天皇は深草北陵に、そして北朝の光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、後円融天皇は深草あるいは桃山と京都の南方面に葬られている。大覚寺統と持明院統の違いによって葬られる場所も明確に変わっている。そして後小松天皇から稱光天皇、後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇の8代の天皇も後花園天皇の後山國陵を除くと全て深草北陵となっている。これは南北朝が統一されてからは、後花園天皇の皇統となったためであろう。後花園天皇は伏見宮貞成親王の第一王子で、伏見宮家は持明院統の嫡流に当たる。

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵 御座所方向を眺める

 承久の乱以降の天皇で、上記の規則性に当てはまらないのは、後二條天皇の北白河陵(京都府京都市左京区北白川追分町)、花園天皇の十樂院上陵(京都府京都市東山区粟田口三条坊町)、北朝初代・光厳天皇の山国陵(京都市右京区京北井戸町丸山)そして後花園天皇の後山國陵(京都府京都市右京区京北井戸町丸山 常照皇寺内)の4名である。光厳天皇は晩年、丹波山国荘の常照皇寺で禅僧となっている。そのため、崩御の翌日、常照皇寺の後山で火葬され、そのまま陵としている。また後花園天皇は文明3年(1471)悲田院にて火葬し埋骨するが、翌月、天皇の遺詔によって常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移している。光厳天皇は後花園天皇にとって曾祖父にあたる。

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

 四条天皇は仁治3年(1242)事故が原因でにわかに崩御している。享年12歳と若い天皇の突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊とか愚管抄を記した慈円の祟りによるものとの噂も立っている。泉涌寺後山の月輪陵に奉葬される。

 そして月輪陵は340余年後の天正14年(1586)に陽光院太上天皇が奉葬されている。陽光院は立太子から譲位する間際に病没したため、正親町天皇は第1皇子であった和仁親王を猶子として譲位し、後陽成天皇としている。後陽成天皇は、持明院統の多くの天皇が祀られている深草北陵に葬られた後、後水尾天皇から仁孝天皇に至る13代の天皇および皇后陵が月輪陵に営まれることとなった。

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泉涌寺 月輪陵・後月輪陵

「泉涌寺 月輪陵 その2」 の地図


大きな地図



泉涌寺 月輪陵 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 泉涌寺 月輪陵 後月輪陵 34.9772 135.7819
01  泉涌寺 観音寺陵 34.9789 135.7816
02  泉涌寺 後月輪東山陵 34.9774 135.7829
03   泉涌寺 後月輪東北陵 34.9774 135.7829

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