徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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東福寺 その5

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その5  2009年1月11日訪問 東福寺 五社成就宮  東福寺の三門の東側に鳥居が見える。鳥居の北側に見える最勝金剛院の参道が緩やかに上っていくのに対して、この部分はいきなり高台となっているので、鳥居の先から石段が始まる。登り切った先に五社成就宮が現れる。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社ともいわれる東福寺の鎮守社である。 東福寺 五社成就宮 東福寺 五社成就宮  東福寺 その4で触れたように、寛元元年(1243)3月15日に九条道家は法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行い、成就宮と号している。… ►続きを読む

 

東福寺 その4

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その4  2009年1月11日訪問 東福寺  東福寺 その2、東福寺 その3に続き、創建の頃の東福寺の歴史と共に、東福寺の開山となる聖一国師が住した普門寺と東福寺の北側にあった三聖寺、後の時代に移転してきた万寿寺の歴史についても眺めていく。 東福寺 海蔵院 東福寺 龍眠庵  東福寺開山堂・普門院その3でも記したように、東福寺自体が完成する前に創建された普門寺の存在も現れてくる。凌霄山普門寺は、東福寺常楽庵(現在の開山堂と普門院のある寺域)の西方低地に実在した寺院で、かつては京都十刹の六位に位置付けられていた。開山は東福寺と同じ… ►続きを読む

 

東福寺 その3

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その3  2009年1月11日訪問 東福寺 偃月橋から洗玉澗を眺める  東福寺 その2に続き、福山敏男氏の「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)を参照しながら、どのように法性寺が東福寺に替わって行ったかについて考えていく。 東福寺 九条通に面した寺号標石  九条道家の日記・玉藻から、嘉禎3年(1237)10月、最勝金剛院の地より東福寺造営に着手したことが分かるようだ。東福寺 その2で記したように、この時期の法性寺と最勝金剛院の力関係は逆転していたから、法性寺を改めて東福寺とすることは最勝金剛院の敷… ►続きを読む

 

東福寺 その2

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その2  2009年1月11日訪問 東福寺 三門 (国宝 応永32年(1425)再建、現存する禅寺の三門としては日本最古)  最勝金剛院の山門を出て参道を下ると、正面に東福寺の本堂が現れる。 東福寺の公式HPに記されている歴史は、京都五山の第四位の大寺院にしては非常に簡潔なものである。嘉禎2年(1236)九条道家が奈良の東大寺と興福寺から一字づつ採り、それを寺号とする京都最大の伽藍の造営を思い立ったこと、寛元元年(1243)に聖一国師を開山に迎え、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したことを記した後、戦火等を受けるもその度に復興し、現在… ►続きを読む

 

東福寺 最勝金剛院

 

東福寺 最勝金剛院(さいしょうこんごういん) 2009年1月11日訪問 東福寺 最勝金剛院 山門へと続く参道に並ぶ石灯籠  前回の訪問の時、一番奥にある最勝金剛院の山門前で時間切れとなり、引き返らざるを得なかった。 もともと月下門と勅使門は使用されていないため、残りの日下門と六波羅門を閉じると、臥雲橋の架かる道から東側の東福寺の境内は隔離される。拝観時間終了前に寺院関係者がスクーターに乗車し、境内に人が残っていないか確認していた。広い境内だから当たり前のことかもしれないが、初めて見る光景だったので驚いた。速やかに日下門から外に出るように促されたため、最勝金剛院の山門より中に入ることができ… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その4

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その4 2009年1月11日訪問 教王護国寺 五重塔  今回、東寺を訪問した目的は、境内の東南に建立された五重塔の特別公開が行われるためである。拝観受付で五重塔の拝観を含めたチケットを購入する。 教王護国寺 五重塔の初層 教王護国寺  東寺の五重塔は、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海により創建着手にはじまるとされているが、普請の勧進が進まなかったことや御神木事件が発生し、五重塔の竣工は遅れていた。御神木事件とは、時の天皇・淳和天皇が病に臥したのは、東寺造営用の木材を稲荷山から神… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その3

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その3 2009年1月11日訪問 教王護国寺 大宮通から眺め  リーガロイヤルホテル京都の車寄前に建つ新選組不動堂村屯所跡を説明する石碑を見た後、堀川通を南に下っていく。油小路通の項で記したように、この地で堀川通が油小路通に合流し、油小路通となる。現在の堀川通は6車線の南北方向の主要幹線であるため、油小路通の方が合流したようにも思える。堀川通は、平安京の堀川小路であり、川幅4丈の堀川の両側に2丈ずつの小路があった。そのため川と道路を合わせると幅員は24メートルとなるため、大路と間違えられることもあったようだ。 JRの東海道線と東海道新… ►続きを読む

 

東福寺 塔頭 その2 

 

東福寺 塔頭(たっちゅう)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 大樹院 ■01 万寿寺 白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまり。  正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となし、弘長元年(1261)に万寿禅寺と改めたと伝わる。往時の規模については明らかではない。 室町時代 当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(143… ►続きを読む

 

東福寺 同聚院

 

東福寺 同聚院(どうじゅいん) 2008年12月22日訪問 東福寺 同聚院 山門  東福寺の塔頭・海蔵院を出て、北側の非公開の塔頭の門前を巡る。これらの塔頭の簡単な説明と写真は改めて東福寺の塔頭という形で項を起こす。 海蔵院の並びに龍眠庵、そして北に進むと右手に霊源院、そしてその奥の細道を入って行くと盛光院がある。再び戻ると正面右手に戊辰役殉難士菩提所の石碑が建つ退耕庵がある。再び海蔵院まで戻り、塔頭の並ぶ道を南に下って行く。左手に栗棘庵、善慧院(明暗寺)、大機院と並び、右手には同聚院、一華院そしてその奥に霊雲院が建つ。万寿寺、勝林寺から始まり、東福寺の臥雲橋より北側の塔頭で常時公開され… ►続きを読む

 

東福寺 海蔵院

 

東福寺 海蔵院(かいぞういん) 2008年12月22日訪問 東福寺 海蔵院 山門  東福寺の塔頭・勝林寺の石段へと続く道を過ぎると、すぐ右手に海蔵院の山門が開いている。他の多くの塔頭とは異なり、中に入っていくことをできるように見える。この山門の右に社会福祉法人洛東園の看板がかかり、左にはかすれて読めなくなった表札がかかる。ここを海蔵院と知らなかったら、ただ古びた門のある養護老人ホームとしか見えないかもしれない。実際、山門を潜って境内に入っても、洛東園の生活感の方が圧倒的に強く、宗教施設としての雰囲気は薄い。洛東園の公式HPを見ると、昭和27年(1952)に海蔵院の境内に東福寺が設立された… ►続きを読む

 

東福寺 勝林寺

 

東福寺 勝林寺(しょうりんじ) 2008年12月22日訪問 東福寺 勝林寺 門前の石段  泉涌寺・東福寺の町並みでも記したように、悲田院から京都市立日吉ヶ丘高校の南側を通る細い階段を下ると東福寺の塔頭・即宗院の東下に出る。この上部の高台には西郷隆盛が碑文をしたためた薩摩藩士東征戦亡之碑と戦死した藩士等の名を刻んだ石碑が建つ。東山から延びる泉涌寺と東福寺の間には湧水が流れる小川の名残のような谷があり、それが現在の道路となったようにも見える。このまま東福寺の境内に沿って進むと、東福寺の僧堂への入口が左手に現れる。道路からは奥の堂宇を見ることが適わないが、GooglMapを見ると、本堂から通天… ►続きを読む

 

泉涌寺・東福寺の町並み

 

泉涌寺・東福寺の町並み(せんにゅうじ・とうふくじのまちなみ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺・東福寺の町並み 左に道が続く 右は泉涌寺 悲田院の山門  悲田院の墓地より京都の市街地を眺めた後、山門から境外に出る。泉涌寺の大門で教えられた東福寺への近道に従い、泉涌寺道へ少し戻ると南に下って行く道に出会う。 前回の訪問(2008年5月10日)の時は、北側に延びる階段を下った。この道は京都市立月輪中学校の西側を通り、そのまま進む(北進)と法音院の東で泉涌寺道に戻ってしまう。そのため途中を西に曲がり住宅街に入っていった。京都第一赤十字病院の裏手から、勝林寺へ続く階段や海蔵院を見ながら臥雲橋に… ►続きを読む

 

泉涌寺 悲田院

 

泉涌寺 悲田院(ひでんいん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 悲田院の山門  守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓と賀陽宮墓地、久邇宮墓地を過ぎると泉涌寺の大門が現れる。既に何度か書いてきたように泉涌寺の境内は、この大門から東側へ下る形で広がっていく。悲田院へは、この大門の前を通り過ぎ総門へ向かう参道の途中、京都市立月輪中学校の手前を西側に入って行った先にある。 泉涌寺 悲田院 泉涌寺道から山門に至る参道 泉涌寺 悲田院 本堂と毘沙門堂 泉涌寺 悲田院 毘沙門堂  悲田院は本日拝観する泉涌寺の塔頭の最後になる。 1月の成人式の日に行われている泉山七福神巡りでは、… ►続きを読む

 

泉涌寺 その3

 

真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その3 2008年12月22日訪問 泉涌寺 仏殿と舎利殿  泉涌寺の開山となる俊芿律師は、朝野の尊信が非常に厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒されている。俊芿律師は泉涌寺竣工の翌年の嘉禄3年(1227)に亡くなっている。そして寛喜3年(1231)に生まれた四条天皇が、俊芿律師の生まれ変わりとされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には下記のような記述が残されている。     天子の官寺となる事は、八十六代四条院を権輿とせり。此… ►続きを読む

 

泉涌寺 その2

 

真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 大門から仏殿を眺める  泉涌寺本坊の玄関を出て、仏殿、舎利殿を中心とする泉涌寺の伽藍を見ていく。 泉涌寺 参道 右手は大門に通じる 泉涌寺 大門  泉涌寺の起源について最初に現われて来るのは、天長年間(824~834)弘法大師が、この地に結んだ草庵である。この草庵が後の法輪寺となったとされている。このことは泉涌寺の塔頭の一つである今熊野観音寺や善能寺でも触れているように、数々の弘法大師にまつわる伝承が入り混じり、歴史として判別することが困難になっているようだ。今熊野観音寺の公式HPに… ►続きを読む

 

泉涌寺 今熊野観音寺

 

泉涌寺 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 今熊野観音寺 本堂と多宝塔 この構成が今熊野観音寺の現在の景観を作り出している  新善光寺の前の坂を上り、再び泉涌寺道を進む、右手に京都市立月輪中学校を見ながら進むと、目の前で道が三方向に分かれる。左は善能寺、来迎院と今熊野観音寺へ、中央は泉涌寺の本坊へ、そして右は泉涌寺の大門へと続く。左に折れた先にある赤い欄干の鳥居橋を渡り、さらに進むと今熊野観音寺の伽藍が見えてくる。 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から今熊野観音寺への入口 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から本坊への参道と大門への参道 上の写… ►続きを読む

 

泉涌寺 新善光寺

 

泉涌寺 新善光寺(しんぜんこうじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 新善光寺 山門  戒光寺の山門の石段を下り、泉涌寺道を再び先に進む。本道から分かれて左に下っていく道の角に新善光寺の大きな白い道標が建つ。この坂道を下ったところに、新善光寺の山門が開いている。 泉涌寺 新善光寺 山門へと続く坂道 泉涌寺 新善光寺 泉涌寺 新善光寺 左手に泉涌寺の幼稚園がある  泉涌寺の公式HPに掲載されている新善光寺の起源は、寛元元年(1243)僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建となっている。勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本… ►続きを読む

 

泉涌寺 戒光寺

 

泉涌寺 戒光寺(かいこうじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 戒光寺 山門  法音寺の小さな山門を出る。柵の外側からであるが戒光寺の墓地の一部分にある禁裏御陵衛士墓所を先に参拝している。順番が逆になってしまったが、目の前の石段を上り戒光寺の山門を潜る。 泉涌寺 戒光寺 境内  鎌倉時代の安貞2年(1228)宋から帰朝した曇照忍律によって八条大宮の東、堀川の西に後堀川天皇の勅願所として創建されたのが起源とされている。 曇照は浄業とも呼ばれる鎌倉時代の律宗の僧で、文治3年(1187)に生まれている。近江の園城寺や奈良の諸寺で顕密二教を学ぶ。建保2年(1214)宋に渡り、鉄翁守一よ… ►続きを読む

 

泉涌寺 法音院

 

泉涌寺 法音院(ほうおんいん)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 法音院 山門  即成院の山門を出て、泉涌寺総門を潜る。50メートルも進まない内に左手の石段の上に戒光寺の山門、右手に法音院の小さな山門が現れる。先ず右手の法音院に入る。 法音院の公式HPには、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されるとある。無人如導は弘安8年(1285)あるいは翌年の9年に誕生したとされている。北野社に千日参りをされて霊告を得たことから出家している。応長元年(1311)北野社の神宮寺として東向観音寺を中興している。 また聖武天皇の妃である光明皇后が、まだ皇太子妃であっ… ►続きを読む

 

泉涌寺 即成院

 

泉涌寺 即成院(そくじょういん)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 即成院 泉涌寺道に面した山門  禁裏御陵衛士墓所の右隣にある鳳凰を屋根に載せた塔頭・即成院の山門を潜り境内に入る。この塔頭が泉涌寺総門前に建立されたのは、明治35年(1902)と比較的新しい。しかしそこに至る即成院の歴史はかなり複雑なものとなっている。 即成院の公式HPでは、正暦3年(992)恵心僧都によって伏見に建立された光明院が始まりとされている。 恵心僧都は平安時代中期の天台宗の僧・源信である。天慶5年(942)大和国北葛城郡当麻に生まれる。7歳で父を失うが、信仰心の篤い母の影響により天暦4年(950)9歳で、… ►続きを読む

 
 

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