文書と写真・地図による「記憶」の再現

泉涌寺 その2



真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その2 2008年12月22日訪問

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泉涌寺 大門から仏殿を眺める

 泉涌寺本坊の玄関を出て、仏殿、舎利殿を中心とする泉涌寺の伽藍を見ていく。

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泉涌寺 参道 右手は大門に通じる
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泉涌寺 大門

 泉涌寺の起源について最初に現われて来るのは、天長年間(824~834)弘法大師が、この地に結んだ草庵である。この草庵が後の法輪寺となったとされている。このことは泉涌寺の塔頭の一つである今熊野観音寺善能寺でも触れているように、数々の弘法大師にまつわる伝承が入り混じり、歴史として判別することが困難になっているようだ。今熊野観音寺の公式HPには、大同2年(802)弘法大師が熊野権現の霊示を受けてこの地に庵を結んだこと、弘仁3年(812)大師が嵯峨天皇から官財を賜わり、勅旨を奉じて諸堂を造営したことを記した上に、上記の天長年間に造営が完成したと考えている。そして、その後に左大臣藤原緒嗣の発願により広大な寺域に伽藍の造営が図られ、緒嗣亡き後も藤原春津に受け継がれ、斉衡2年(855)に果たされたとまとめている。前半の弘法大師に関わる伝承はさておき、藤原緒嗣による寺院造営の歴史が、法輪寺の歴史でもあると考えてよいだろう。当時の平安京内に寺院を建立するのは原則として禁じられていた。これはこの地に都を遷した理由の一つとされている南都宗教勢力からの分離からである。官寺は羅城門の東西に建てられた東寺と西寺の二寺の他にはなかった。その中で緒嗣が早い時期に法輪寺を造営することが可能であったのは、墓所あるいは菩提を弔うための寺院として計画されたからではないかと赤松俊英氏は推測(https://vinfo06.at.webry.info/201105/article_7.html : リンク先が無くなりました )している。確かに阿弥陀ヶ峰の南西側の鳥戸野は、北西の鳥辺野とともに古くから葬送の地であった。そして法輪寺が完成するのは緒嗣の死後でもある。

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泉涌寺 鎮守社 拝殿の奥に本殿が見える
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泉涌寺 鎮守社の本殿
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泉涌寺 鎮守社の境内 苔地が美しい

 平安時代の初期に建立された法輪寺は、後に仙遊寺と改められる。そして鎌倉時代の建保6年(1218)宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿律師律師に寄進している。
 宇都宮信房は保元元年(1156)宇都宮氏の流れをくむ中原宗房の子として生まれている。治承4年(1180)下野国より源頼朝の挙兵に参陣した平安時代末期から鎌倉時代前期の武将である。治承7年(1183)志田義広の謀反の際には、義広を討伐し功を挙げている。壇ノ浦の戦いで源氏が勝利した後の文治3年(1187)鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党の討伐を行い、建久3年(1192)には豊後・日向国内において所領を与えられ、豊前宇都宮氏の祖となっている。晩年は仏教に帰依し、天福2年(1234)79歳で死去している。なお、藤原定家と親交があり、百人一首の選定を依頼したとされている宇都宮頼綱とは、藤原北家の流れをくむ藤原宗円を氏祖とした同族であるものの、下野宇都宮氏と豊前宇都宮氏の違いがある。

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泉涌寺 泉涌水屋形と浴室
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泉涌寺 雲龍院につながる石段

 宇都宮信房より月輪の宅地と仙遊寺の故趾を寄進された俊芿律師律師は、承久元年(1219)寺院建立のために勧進の疏を作り、翌承久2年(1220)後鳥羽上皇に奉る。上皇はこの趣旨に賛同され、寺院建立のための資金を下賜され造営が始まる。そして嘉禄2年(1226)に大伽藍が完成し、境内に清らかな泉が涌出したことに因み寺号を泉涌寺と改めている。この完成に先立ち貞応3年(1224)に後堀河天皇の勅旨によって官寺となり、勅願寺とされ、天台・真言・禅・浄土四宗兼学の道場として発足している。真言宗泉涌寺派として一派を創立したのは、明治40年(1907)のことである。
 俊芿律師は仁安元年(1166)肥後国飽田郡に生まれているが、母は藤原氏の出であったとされているが、出自は不詳。幼少の頃から仏典に親しみ、10歳の時には寺に預けられ経典を学び、比叡山や高野山に登り、多くの師から学んだとされている。若くして、才能の高さを表している。
 寿永3年(1183)18歳の時に出家し、翌元暦元年(1184)大宰府観世音寺で具足戒を受けている。真俊法師に就いて、主に天台と真言の諸宗を学んだとされている。27歳の時、生死輪廻からの解脱が難しいことを嘆き、名利を捨てて戒行に励むことを誓う。そして南都北嶺の道場を回わり、多くの戒律に関する学問を修める。建久5年(1194)29歳で肥後国に帰り、正法寺を建立する。

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泉涌寺 泉涌水屋形
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泉涌寺 泉涌水屋形
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泉涌寺 泉涌水屋形前の道標

 正治元年(1199)宋に渡り、径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学ぶ。建暦元年(1211)仏舎利を始めとして羅漢像の絵画や多くの書物や法具そして図画を携え帰朝する。肥後の正法寺に戻った後、建暦元年(1211)上洛した俊芿律師は、栄西禅師の建仁寺に迎えられている。 応永18年(1411)後小松天皇より大興正法国師号、享保11年(1726)中御門天皇より大円覚心照国師号、そして明治16年(1883)明治天皇より月輪大師の称号を賜っている。一般には月輪大師と呼ばれることが多い。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも俊芿律師の略歴を記されている。

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泉涌寺 右手に清少納言の歌碑

「泉涌寺 その2」 の地図


大きな地図



泉涌寺 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  泉涌寺 大門 34.9782 135.7791
02  泉涌寺 楊貴妃観音堂 34.9786 135.7792
03  泉涌寺 心照殿 34.9784 135.7793
04  泉涌寺 浴室 34.9779 135.7799
05  泉涌寺 泉涌水屋形 34.9778 135.7801
06  泉涌寺 鎮守社 34.9783 135.7797
07  泉涌寺 仏殿 34.978 135.7803
08  泉涌寺 舎利殿 34.9779 135.7806
09  泉涌寺 本坊 御座所 34.9779 135.7812
10   泉涌寺 本坊 霊明殿 34.9776 135.7809
11   泉涌寺 本坊 渡会堂 34.9779 135.7814
12  泉涌寺 本坊 御座所庭園 34.9777 135.7814
13  泉涌寺 月輪陵 後月輪陵 34.9772 135.7819
14   泉涌寺 開山堂 34.977 135.7822
15  泉涌寺 解脱金剛宝塔 34.978 135.779

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