徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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東福寺 万寿寺

 

東福寺 万寿寺(とうふくじ まんじゅじ) 2008年12月22日訪問 東福寺 万寿寺  本日は泉涌寺と東福寺の塔頭を中心に廻る。すでに両寺の本坊や主要な塔頭を拝観しているが、塔頭の多い寺院であるため、まだまだ見るべき箇所が多く残されている。 四条室町のホテルを7時頃にチェックアウトし、京都市営地下鉄烏丸線で京都駅に向かう。荷物をコインロッカーに入れ、徒歩で東福寺を目指す。現在では京都府道115号線と呼ばれる竹田街道は、京都駅の建設によって分断された東洞院通の南側部分である。この道を南に下り、大石橋の交差点で東に折れ九条通を進む。九条通は鴨川を越えるために陸橋となり東大路通と合流する。この… ►続きを読む

 

厭離庵

 

臨済宗天龍寺派 如意山 厭離庵(えんりあん) 2008年12月21日訪問 厭離庵 左奥に時雨亭の茅葺屋根が見える  宝筐院の山門を出て、清涼寺の西門まで北に進むと西に折れる道が現れる。この道は渡月橋から天龍寺、清涼寺を経て嵯峨鳥居本へつながる愛宕街道の一部分である。この街道沿いには茅葺屋根のくずややむしこ造町家があり、歴史の深さを感じる。厭離庵はこの街道沿いにあるはずだが、なかなか見つからない。何度もこの道を行ったり来たりしているうちに、三宅安兵衛遺志の小倉山荘旧址厭離庵の碑に気が付く。この碑の傍らから、本当に民家の入口のような通路が北に延びていく。ここが厭離庵の入口である。 厭離庵… ►続きを読む

 

大覚寺 その2

 

真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ)その2 2008年12月21日訪問 大覚寺 村雨の廊下と中庭  大覚寺の広い境内には多くの堂宇が並び、諸堂の拝観に東側の大沢池の池畔の散策まで含めると2時間くらいは必要である。 大覚寺の公式HPにある境内図を見ても、この寺院の伽藍配置が複雑であることが分かる。勅使門から北に向い、南庭、入母屋造、桟瓦葺の御影堂、八角堂の心経殿が一直線上に並ぶ。そして御影堂の手前、西に宸殿、東に本堂である五大堂を配する構成となっている。勅使門は幕末の嘉永年間(1848~54)に再建された四脚門、屋根は切妻造で正面と背面に唐破風を附けている。門全体は素木造であ… ►続きを読む

 

大覚寺

 

真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ) 2008年12月21日訪問 大覚寺 御影堂と宸殿  化野念仏寺から愛宕街道を下り、嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の始まりの地点にある八体地蔵石仏が並ぶ三叉路まで戻る。渡月橋から着た道とは違う道を大覚寺に向って進む。 大覚寺 明智陣屋 大覚寺 表門前の堀  嵯峨野の町並みで触れたように、平安遷都を行った桓武天皇の第2皇子であった嵯峨天皇は、この嵯峨野の地に離宮を造営し居住している。都を京都に移した直後から、この地は風光明媚なことより天皇や大宮人たちの遊猟や行楽地となっていたのであろう。特に唐の文化に憧れていた嵯峨天皇は… ►続きを読む

 

化野念仏寺

 

浄土宗 華西山 東漸院・化野念仏寺(あだしのねんぶつじ) 2008年12月21日訪問 化野念仏寺 西院の河原  愛宕念仏寺の仁王門を出て、再び平野屋、愛宕神社の一の鳥居、そして「つたや」を眺めながら愛宕街道を下る。嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の中間地点あたりに化野念仏寺の入口がある。 化野念仏寺 愛宕街道から続く参道 右手に石標が建つ 化野念仏寺 参道の途中で見かけた石像  化野念仏寺は、正式には華西山 東漸院と号する浄土宗の寺院である。伝承によれば、その起源は弘仁2年(811)空海による五智山如来寺建立に遡る。もともと化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野とともに葬送の… ►続きを読む

 

愛宕念仏寺 その2

 

天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)その2 2008年12月21日訪問 愛宕念仏寺 千二百羅漢  愛宕念仏寺にとって大きな転機となったのは、大正11年(1922)堂宇保存のために行われた移築であろう。3年間をかけて現在の嵯峨の地に堂宇を移したものの、その後も寺門は興隆しなかったようだ。 昭和30年(1955)仏師で、後に天台宗の僧侶となった西村公朝が愛宕念仏寺の住職となり、復興に当たる。 愛宕念仏寺 本堂 愛宕念仏寺 本堂から多宝塔を眺める  西村公朝は大正4年(1915)大阪府高槻市に生まれ、昭和15年(1940)東京美術学校卒業。翌昭和16年(1941)… ►続きを読む

 

愛宕念仏寺

 

天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ) 2008年12月21日訪問 愛宕念仏寺 多宝塔と本堂を眺める  愛宕神社の一の鳥居を越え、平野屋の前を過ぎると上り勾配が強くなってくる。愛宕念仏寺は清滝トンネルの手前にある「おたぎでら前」バス停留所の前にある。 愛宕念仏寺 仁王門 愛宕念仏寺 千二百羅漢像  愛宕念仏寺は天台宗延暦寺に属し、山号は等覚山。 愛宕神社の入口にあることから「あたご」と読むように思われるが、山城国愛宕郡という地名から来ているため「おたぎ」である。愛宕郡は現在の京都市北区と左京区の地にあり、葛野郡とともに平安京を形成した地域である。嵐山の町並み項… ►続きを読む

 

法輪寺 その2

 

真言宗五智教団 智福山 法輪寺(ほうりんじ)その2 2008年12月21日訪問 法輪寺 多宝塔  天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には、禁門の変で焼け落ちる前の法輪寺の姿が残されている。この図会には現在の状況と一致する場所も、しない場所も存在し、なかなか興味深い。図会の下部には恐らく物集女街道と思われる道と民家が描かれている。ここから境内に入るとすぐに石橋が現れる。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、     轟橋 楼門の前にかくる橋をいふ とあるので、江戸時代の橋がそのまま残ったように思われる。現在この轟橋の下には池がないため、無用の橋となっている。図会では、… ►続きを読む

 

法輪寺

 

真言宗五智教団 智福山 法輪寺(ほうりんじ) 2008年12月21日訪問 法輪寺 本堂  阪急電鉄嵐山線の終点・嵐山駅の駅前広場から西に進むと京都府道29号に入る。府道29号宇多野嵐山山田線は、府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に接続し、松尾駅と嵐山駅を通過し渡月橋を渡り、清涼寺で東に折れる。広沢池の南畔を通り、福王子神社のある宇多野の福王子交差点に至る。 物集女街道は樫原で山陰街道、そして向日市物集女町を通って寺戸で西国街道に合流している。そのため昔から西国街道と山陰街道をつなぐバイパスとして利用されてきた。元治元年(1864)6月28日、長州藩家老国司信濃は兵を率いて山崎から嵯峨… ►続きを読む

 

金戒光明寺 西雲院

 

金戒光明寺 西雲院 (こんかいこうみょじさいうんいん) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺西雲院  真如堂から金戒光明寺の境内に入り、御影堂へと続く道の途中に会津藩殉難者墓地がある。道の東側に墓地、そして西側の塀の中が金戒光明寺の塔頭である西雲院の境内となっている。また会津藩殉難者墓地自体も西雲院の墓地の一部である。 西雲院の開山である宗厳は天正3年頃(1575)朝鮮に生まれたとされている。文禄・慶長の役の時に秀吉の家来小野木重勝に捕らえられ、日本に渡っている。その後、蜂須賀正勝(小六)の長男である家政が宗厳を北政所に献上し、北政所の命により滝川雄利の娘の使用人となっている。大変器量… ►続きを読む

 

真正極楽寺 その2

 

天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問 真正極楽寺  櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。 真正極楽寺 白川通からの坂道  真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三… ►続きを読む

 

大徳寺 総見院

 

大徳寺 総見院 (だいとくじ そうけんいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 総見院  興臨院を出て、三門、仏殿そして法堂を左手に見ながら北に進む。孤篷庵へと続く東西路を西に曲がると右手に総見院の山門が見える。通常非公開の塔頭であるが、何かの催しが行われているのか、門が開いているので少し中を覗いてみる。 総見院は、大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)後で触れるように古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流される… ►続きを読む

 

東福寺 即宗院 その2

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑  即宗院と島津家の関係で記しておかなければならない出来事が幕末から維新にかけて起きている。  まず幕末の勤王僧・月照について始めなければならないだろう。文化10年(1813)大坂の町医師玉井宗江の子として生まれている。文政10年(1827)清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)と称する。天保6年(1835)蔵海の死去により成就院持住となる。一山の改革に着手するも成功せず、嘉永6年(1853)に出奔する。翌安政元年(1854)境外隠居の処分を受ける。 この頃より… ►続きを読む

 

赤山禅院

 

天台宗比叡山延暦寺別院 赤山禅院 (せきざんぜんいん) 2008年05月20日訪問 赤山禅院 拝殿屋根上にある神使いの猿  修学院離宮の参観を終え、表総門から出て修学院離宮道を西に進む。鷺森神社御旅所の角を右に曲がり、200メートル北に進む赤山大明神の額の掛かる鳥居が現れる。これが天台宗 比叡山延暦寺別院 赤山禅院の境内の入口である。緑が濃く薄暗い参道を歩くと今度は山門が建つ。秋の紅葉の時期には、この参道は真紅に変わる。そのまま東に続く参道を進むと左手が一段高くなり、赤山禅院の諸堂が建つ。 赤山禅院 赤山大明神の扁額のかかる鳥居 赤山禅院 山門 赤山禅院 赤山禅院… ►続きを読む

 

禅華院

 

臨済宗大徳寺派 解脱山 禅華院(ぜんげいん) 2008年05月20日訪問 禅華院 鐘楼門  鷺森神社から、音羽川に出て林丘寺の昔の表総門とその境内を示す林を見た後、修学院離宮拝観のため修学院の総門に向う。やや音羽川の下流に下ると橋が現れ、これを渡ると宮内庁が管理する修学院の敷地が広がる。一見すると普通の農地のようだが、この耕地こそが田園の中に突如現れた修学院離宮を演出する上で最も重要な役割を果たしている。しかしそのことは離宮の中に入らない限り理解できないだろう。それにしてもビニールハウスまで建てて本格的に農業を行っている風景は、ただ単に演出のためということをはるかに越えている。 この右手… ►続きを読む

 

林丘寺

 

臨済宗天龍寺派単立 聖明山 林丘寺 (りんきゅうじ) 2008年05月20日訪問 林丘寺  鷺森神社の本殿西側を見ながら北に進むと境内から出て住宅地に入り込む。そのまま道伝いに北に進むと音羽川に行き当たる。対岸にはフェンスで仕切られた修学院離宮の敷地が広がる。 丁度、修学院離宮の中御茶屋のあるあたりに、音羽川に面して門が建てられている。訪問した時間帯には門は閉ざされたままで、その前には作業用の自動車が止まり、人が歩いているのが確認できた。遠くから眺めているため、それ以上のことは分らなかった。どうもこちらが見ていることに気がついていたようで、足を止めてこちらの様子を伺っているようにも感じら… ►続きを読む

 

引接寺

 

高野山真言宗 光明山歓喜院 引接寺(いんじょうじ) 2008年05月19日訪問 引接寺 本堂  建勲神社の白木の鳥居を出て、再び船岡東通を南に進む。しばらく進むと北東から南西に走る鞍馬口通に出会う。この道を進み、千本鞍馬口の交差点に出る。引接寺はこの交差点の一本南にある廬山寺通の先にある。 通称の千本閻魔堂の方で知られている引接寺は、高野山真言宗に属する寺院で、号は光明山歓喜院引接寺。元は蓮台野という葬送の地に開かれ、古くよりお盆、精霊迎えの根本霊場として知られてきた。開基は小野篁、開山は寛仁元年(1017)定覚とされている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、引接寺の… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう) 2008年05月19日訪問 大徳寺真珠庵  大徳寺には現在22の塔頭がある。茶の湯の楽しみ に掲載されている大徳寺 諸堂 塔頭を見ると大徳寺の塔頭の変遷の激しさがよく伝わってくる。この内で常時公開されている塔頭は、龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院で、黄梅院、真珠庵、聚光院、総見院、芳春院、興臨院、孤篷庵などは期日を限って特別公開される場合もある。 大徳寺龍翔寺 山門 「大徳寺 諸堂 塔頭」で別山として扱われている寺院 ■21 龍翔寺  瑞鳳山萬歳龍翔禅寺。南浦紹明(円通大応国師)の開山。南浦紹明は、大徳寺開山宗峰妙超の師にあたり、筑前国… ►続きを読む

 

大徳寺

 

臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺(だいとくじ) 2008年05月19日訪問 大徳寺 勅使門  若宮神社の楼門から銀杏並木の今宮門前通を南に下る。市立紫野高校の角で小堀遠州が開設した孤篷庵から東に延びる道に交差する。この道を左に入ると広大な大徳寺の境内に入っていく。今も孤篷庵の周辺には、寸松庵・梅巌庵趾の碑、大光院趾・瑞源院趾の碑、金龍院趾の碑が建つ。これらの碑からも、現在は大徳寺の境内から離れて建つ孤篷庵も東西に広がる大徳寺の境内にあったことが分かる。 大徳寺 今宮門前通沿いの塀と龍翔寺の竹林  大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山で山号は龍宝山。開基は正中2年(1325)大燈国師宗峰… ►続きを読む

 

壬生寺

 

律宗別格本山 宝憧三昧寺心浄光院(壬生寺(みぶでら)) 2008年05月18日訪問 壬生寺 本堂  現在の壬生寺は、律宗別格本山の寺院である。律宗とは戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派であり、日本での律宗は、天平勝宝5年(753)鑑真が6度の航海の末に、唐から招来し東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けたことに始まる。後に唐招提寺を本拠として南都六宗の一つとして今日まで続いているが、平安時代以降平安京を中心に栄えた平安二宗(天台宗・真言宗)とは異なるため、京都の寺院の中でも珍しい存在となっている。なお、壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光… ►続きを読む

 
 

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