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洛中の町並み その9 正面通
洛中の町並み その9 (らくちゅうのまちなみ) 正面通 2008年05月18日訪問 洛中の町並み 正面通の門 西本願寺から東本願寺、渉成園そして豊国廟は、東西軸上に配置されていることは、既に智積院の項で触れている。宮元健次氏は、著書「京都名庭を歩く」(光文社新書 2004年)で西本願寺と豊国廟を同一直線状に建立したのに対して、秀吉神格化の阻止を狙った徳川家康が東本願寺、渉成園そして智積院をこの直線状に追加したことを論考している。この説で言う所の東西軸は、ほぼ正面通と考えてよいだろう。 正面通は大和大路通の方広寺から、渉成園、東本願寺、西本願寺などで中断するものの千本通まで続く道である。… ►続きを読む
鯖街道
鯖街道(さばかいどう) 2008年05月17日訪問 鯖街道 出町橋西詰に建つ碑 下鴨神社と糺の森から出て、鴨川に架かる出町橋を渡り、地下鉄・今出川駅に向かう。この出町橋の西詰めには鯖街道と記された、まだ新しい碑が立つ。 鯖街道とは,京から高野川左岸を北上して、八瀬から大原そして近江国朽木から越前小浜へ至る若狭街道のことである。昔より日本海で採れた魚介類が京の都に運ばれてきたが、なかでも鯖が多かったことより鯖街道と呼ばれるようになった。取れたての鯖に塩をまぶし、夜も寝ないで京都まで運ぶと丁度良い味になっていたと言われ、京の一般庶民がその到着を待ち望んでいた。 出町橋から国道367号を高島… ►続きを読む
哲学の道
哲学の道(てつがくのみち) 2008年05月17日訪問 哲学の道 宗諄女王墓 岡崎神社の境内から丸太町通に出て東に進むと、白川通と丸太町通の交差点・天王町に出る。そのまま丸太町通を少し上ると鹿ケ谷通が現れ、丸太町通はここで終わる。この鹿ケ谷通を南に下り、永観堂禅林寺の手前を東に入ると正面に若王子橋が現れる。ここが哲学の道の南の端となる。 哲学の道 若王子橋の途中で見かけた石標 哲学の道 若王子橋の途中で見かけた植木に埋もれている石標 哲学の道 若王子橋 左手に哲学の道と記された石標 哲学の道は、南の熊野若王子神社から始まり、北は銀閣寺まで続く疎水に沿った約1.5キロ… ►続きを読む
聖護院・岡崎の町並み
聖護院・岡崎の町並み(しょうごいん・おかざきのまちなみ) 2008年05月17日訪問 聖護院・岡崎の町並み 岡崎を流れる白川 熊野神社から聖護院にかけては聖護院の森と呼ばれていた。平安神宮の北側に市立錦林小学校がある。錦林は「きんりん」と読み、紅葉の頃は錦の織物の様に美しいことから名付けられている。ちなみに錦林の名を持つ小学校は現在3校あり、岡崎入江町、鹿ヶ谷宮ノ前町、吉田上阿達町とかなり広域に渡っている。また市バスの錦林車庫前は浄土寺真如町にある。これらより、錦林という地名が吉田山と真如堂・金戒光明寺の周辺の森に使用されていることが分かる。 日文研に収蔵されている慶応4年(1868)… ►続きを読む
ねねの道
ねねの道(ねねのみち) 2008年05月16日訪問 ねねの道 清水寺の参道である松原通を七味家本舗の角で分かれ、産寧坂、二年坂そして一念坂を下り、高台寺の前に出ると「ねねの道」となる。この道は大雲院で突き当たり、右に曲がり円山公園の中を通り知恩院、青蓮院へとつながる。さらに三条通を越えると平安神宮の広大な境内がその正面に広がる。そのため、この道は円山公園を抜けたところから神宮道と呼ばれている。 ねねの道 観光客で賑わう 京都市は昭和47年(1972)に「京都市市街地景観条例」を制定し,特別保全修景地区制度によって京都の特色ある歴史的な町並みの整備行ってきた。昭和50年(1975… ►続きを読む
石塀小路
石塀小路(いしべいこうじ) 2008年05月16日訪問 石塀小路 レンガ塀は圓徳院 建仁寺の東北の門を出て、祇園甲部歌舞練場の南を東に進むと、程なくして東大路通に出る。東山安井の交差点を横断し、更に東へ向うと下河原通が現れる。この通りは、八坂神社の南楼門と八坂の塔を結ぶ南北の道であり、西側は下弁天町と上弁天町そして清井町、東側には高台寺がある下河原町となっている。元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会にはこのあたりの様子が残っている。高台寺の寺域は現在より大きく、駐車場から霊山観音そして霊山護国神社のあたりまで広がっていたように見える。 花洛名勝図会を見る限り、江戸時代末期には圓… ►続きを読む
六道の辻
六道の辻(ろくどうのつじ) 2008年05月16日訪問 六道の辻 西福寺の角に建つ六道之辻の碑 八坂の塔を背にして八坂通を下って行く。この通りから塔を見上げる写真は午後でないと逆光になるため、今回は撮れていない。坂を下り切ると東大路通に出る。大通りを横断しさらに進むと右手に建仁寺、左手に六道珍皇寺の裏門が現れる。南に下り松原通に廻ると六道珍皇寺の山門と六道の辻と記された石碑が現れる。 六道の辻 清水寺 子安塔の背後の山は阿弥陀ヶ峰 阿弥陀ヶ峰山麓一帯はかつて鳥辺野と葬送の地であった。この鳥辺野の入口 へ続く道に面して建っていたことから六道寺とも呼ばれていた。阿弥陀ヶ峰は清水寺の… ►続きを読む
産寧坂・二寧坂・一念坂
産寧坂・二寧坂・一念坂(さんねいざか・にねんざか・いちねんざか) 2008年05月16日訪問 産寧坂 清水寺を出て、高台寺の方へ向う。清水寺の仁王門前から始まる松原通を下っていくと、程なくして松原通と五条通が合流箇所に出る。有名な七味家本舗の脇を松原通から下っていく石段がある。ここが産寧坂の始まりとなる。 産寧坂 入口にある七味家本舗 産寧坂 この坂の由来はどうもはっきりしない。清水寺の南にあった泰産寺へ続く坂道のため産寧坂と言うという説が説得力を持っている。明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となったため、泰産寺の歴史自体も明らかなことは分からない。聖武天皇と光明皇后が安産祈… ►続きを読む
洛東の町並み その3 木屋町通 3
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その3 木屋町通 3 2008/05/15訪問 高瀬川 元立誠小学校前から南側を眺める 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 佐久間象山の寓居跡を過ぎ、さらに南に下ると武市瑞山先生寓居跡と吉村寅太郎寓居址の碑が並ぶ。 武市瑞山先生寓居跡 現在は金茶寮 昔は丹虎 武市半平太は土佐藩の郷士・武市… ►続きを読む
洛東の町並み その2 木屋町通 2
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その2 木屋町通 2 2008/05/15訪問 高瀬川の西岸にある大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 高瀬川一之舟入 奥に押小路通沿いの建物の背面が見える 2005年8月16日撮影 押小路通の街並み 北条別邸 逍遥遊 何の碑か? 一之舟入の南… ►続きを読む
洛東の町並み 木屋町通
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その1 木屋町通 2008/05/15訪問 高瀬川一之舟入 2005年8月16日撮影 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 木屋町通は二条通から始まる。このあたりは先斗町や三条あたりの喧騒とした雰囲気はない。 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 2005年8月16日撮影 二条通の北側、鴨川沿… ►続きを読む
洛中の町並み その8 寺町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 一保堂茶舗 南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 寺町通 一保堂茶舗 寺町通 一保堂茶舗 仁丹の番地表示板 寺町通 一保堂茶舗 店頭には茶箱が積まれている 夷川通を過… ►続きを読む
洛中の町並み その7 富小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通 京都ハリストス教会 南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 京都ハリストス教会 富小路殿公園側から眺める 丸太町通から車屋町通に入り夷川通を過ぎると、京の… ►続きを読む
洛中の町並み その6 車屋町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 車屋町通 左:西島家住宅 右:伊可田屋 南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 車屋町通は烏丸通の1本東側を南北に走る全長約800メートルの通りである。長い伝統を受け継ぐ老舗の風格のある看板や暖簾を多く目にする。その中に新しい施設も生まれつつあり、新旧が共存できる町並みが魅力となりつつある。 車屋町通は天正18年(1590)に豊臣秀吉の京都改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した。当初は、北は出水通から南は姉小路通まで貫通していたが、宝永5年(1708)の京都の… ►続きを読む
洛中の町並み その5 三条通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 三条通 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 三条通は姉小路通の1本南側の通りで、現在では東は山科から西は嵐山まで続く全長約15キロメートルの通り。通りの原型は平安京の三条大路である。江戸時代は三条大橋が東海道の終点となるため、東国からの旅人は三条大橋から続く三条通を歩き洛中に入ることとなる。明治時代に入ると近代建築が相次いで建設され、京都の文明開化をリードしてきた。今もこれらの近代建… ►続きを読む
洛中の町並み その4 姉小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 姉小路通 亀末廣 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 姉小路通は御池通の1本南側の通りで、東は木屋町通から西は西大路通の先まで続く全長約3.7キロメートルの通り。通りの原型は平安京の姉小路である。御池通や三条通に比べると静かな町並みではあるが、町家造りの老舗が多い。 姉小路通 鳩居堂 河原町通から姉小路通に入る。本能寺の南を通り、寺町通に出る。道は鳩居堂の角で北側にクランクす… ►続きを読む
洛中の町並み その3 富小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 天ぷら 吉川 富小路通 天ぷら … ►続きを読む
洛中の町並み その2 御幸町通・麩屋町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 御幸町通 なが田 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通の1本西側の通りが御幸町通である。北は京都御苑があるため丸太町通から始まり、南は五条通りまでの全長約2.4キロメートル。寺町通と同様に天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造によって生まれた通である。 御幸町通 なが田 姉小路通の角にある「なが田」はデリカテッセンとサンドイッチを販売する店である。建物の造り… ►続きを読む
洛中の町並み 寺町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 商店街の中の錦天満宮 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 廬山寺や梨木神社、そして新島襄旧邸などがこの通… ►続きを読む
錦市場 その2
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問 錦市場 有限会社 魚力 焼き魚 錦市場は鎌倉時代以降は商工業街として発展した。室町時代には、酒屋をはじめとする多種多様な職種が存在した。しかし文明年代(1469~1486)に応仁の乱により錦小路も衰退する。再興されたのはおよそ100年後の天正年代(1573~1593)のことであった。 錦小路が魚鳥の市場となったのは豊臣秀吉の天下統一後と考えられている。この地の人口が多いこと、御所への納入が容易であったこと、そして清く冷たい地下水が涌き出ることが、この地に市場が生まれるもととなっている。 錦市場の公式HPによると本格的な魚市場となったのは… ►続きを読む