徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

洛東の町並み その3 木屋町通 3



洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その3 木屋町通 3 2008/05/15訪問

画像
高瀬川 元立誠小学校前から南側を眺める

 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。

 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。

 佐久間象山の寓居跡を過ぎ、さらに南に下ると武市瑞山先生寓居跡吉村寅太郎寓居址の碑が並ぶ。

画像
武市瑞山先生寓居跡 現在は金茶寮 昔は丹虎

 武市半平太は土佐藩の郷士・武市正恒の家に生まれている。武市家は白札に列せられているため、当主は上士扱いとされているが、藩政に参加することは出来ない。司馬遼太郎は短編「酔って候」や「土佐の雨」の中で、幕末の土佐藩の行動を、山内容堂を頂点とする上士と藩祖・山内一豊の入国以前からの長宗我部家の旧臣一領具足との対立構造から描いている。土佐の上士にとっては、どんなに郷士が京で活躍していても同じ藩の武士ではないという意識があったと考えられる。
 賢候と称された山内容堂は、吉田東洋暗殺以降、一人で土佐藩の方向を決めてきた。容堂の戦略は基本的には公武合体である。後藤象二郎経由で坂本龍馬の大政奉還案を取り入れた後も、徳川慶喜を中心とした諸侯会議による集団指導体制を推し進めてきた。しかし慶応3年(1867)12月9日の小御所会議での論戦に敗北し、慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると土佐藩の行動は容堂にとって統御できないものになった。戦端が開くとすぐに乾退助等の土佐藩兵が、容堂に無断で薩長軍に加わり、薩長土による官軍が結成される。

 長州藩や薩摩藩に比べて京での尊攘活動に出遅れた土佐藩が巻き返しを行う上で必要であったのは、一藩勤王化であったのだろう。少なくとも武市半平太はそのような考え藩政に参画できないならば、藩政を乗っ取ることを決意したのであろう。安政の大獄より逃れるため山内容堂は、安政6年(1859)幕府に隠居願いを提出している。しかし江戸で謹慎を受け、文久3年(1863)まで土佐の地を踏むことが出来なかったと思われる。半平太は、文久元年(1861)坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集め、江戸における土佐勤王党を結成し、文久2年(1862)4月8日、土佐藩参政・吉田東洋は、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺される。土佐勤王党は藩の要職に就いた守旧派を傀儡とし、藩政の掌握に成功する。山内容堂が不在の政治的空白を突いたクーデターとも言える。文久3年(1863)8月18日に起きた政変まで、土佐勤王党は京都で長州、薩摩を凌ぐ勢力となっていった。
 しかし八月十八日の政変を前後して、土佐に戻った山内容堂が再び藩政を掌握し、土佐勤王党の弾圧を開始すると、多くの勤王党員は土佐を脱藩していく。武市は最後まで藩に留まり一藩勤王化を追い求めた。ある意味で半平太は容堂の尊王思想に期待していた部分があったのであろうが、しかし容堂は倒幕でもないし自分以外の藩士、ましては郷士上がりが土佐藩の政治的な方向を決めることを嫌っていた。このことが最終的には半平太の運命を決定したのであろう。慶応元年(1865)閏5月11日山内容堂より、君主に対する不敬行為という罪目で切腹を命ぜられる。

画像
吉村寅太郎寓居址 植え込みと狸の陰に隠されている
画像
吉村寅太郎寓居址 昔はまだ手入れが良かった 2005年8月16日撮影

 血盟書には名前が残っていないものの、吉村虎太郎も武市半平太が結党した土佐勤王党に属していた。虎太郎は文久2年(1862)2月、半平太の命を受けて長州へ時勢探索に向かっている。ここで久坂玄瑞に、そして九州に渡り平野国臣と出会い、薩摩藩の島津久光の上京と呼応した浪士たちによる挙兵計画を聞く。早速、土佐に戻った虎太郎は半平太に賛同するよう訴えたが、却下される。そのため文久2年(1862)3月6日虎太郎は宮地宜蔵ら少数の同志とともに脱藩を決行し、挙兵計画に参画していく。
 しかし文久2年(1862)4月23日伏見の寺田屋で、薩摩藩鎮撫使によって精忠組の粛清が行われる。薩摩藩士・有馬新七ら6名が死亡、他2名も切腹となる。挙兵計画は失敗に終わり、薩摩藩以外の浪士は国許に引き渡されることとなる。虎太郎も文久2年(1862)12月まで土佐で拘留される。文久3年(1863)藩から自費遊学の許可を得て再び京へ上る。同年6月には虎太郎は松本奎堂、池内蔵太らとともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見し上京を説いた後、7月には京へ戻っている。 文久3年(1863)8月13日大和行幸の詔が発せられると、翌14日大和行幸の先鋒となるべく中山忠光を大将とする天誅組を結成する。そして8月17日に幕府天領の五条代官所(現在の奈良県五條市)を襲撃し代官鈴木源内ら5人を斬り、五条天領を「天朝直轄地」とすると布告を行う。
 しかし翌18日、八月十八日の政変が起こり、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。この政局の大転換により大和行幸の詔自体が偽勅とされる。虎太郎は、寺田屋の時と同じように、個人の力ではどうすることも出来ない政治の力に翻弄される。
 天誅組は吉野からの脱出路を求めながら山中で戦闘を繰り広げるが、圧倒的に幕府軍によって同年9月27日に全滅する。

 藩の中に留まった武市半平太、平井収二郎、間崎哲馬、脱藩した吉村虎太郎、那須信吾そして坂本龍馬や中岡慎太郎も明治維新を迎えずに歴史の舞台から次々と去っていく。実に多くの土佐の郷士の血の上に新政府が築かれたという事実が実感できる。そして有為な人材を失ってきた土佐がさらに征韓論で敗れ、明治政府の中で権力を失っていくことにもつながっていく。

画像
佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町 の道標

 三条通に架かる三条小橋の角には、佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町という大きな道標が建っている。

画像
池田屋跡  パチンコ屋が閉店し管理地となっていた
画像
池田屋跡  碑の横に置かれた説明板

 木屋町通から三条通に入り、4軒目が池田屋跡となる。現在は居酒屋となっているが、この店が続く限り、ここに建つ碑も安泰ということか?

画像
三条木屋町通りのTime’s 高瀬川に降りる階段が見える 2005年8月16日撮影

 再び木屋町通に戻る。三条小橋の南側には安藤忠雄設計のTime’sⅠとTime’sⅡが並ぶ。昭和59年(1984)に竣工以来、コンクリート打放しの骨組みにコンクリートブロックを積んだ商業施設が京都の街並みの中にどのように溶け込んでいくか興味を持って見て来た。25年近い年を経て建物の素材も外観も周囲と違和感を感じなくなりつつある。恐らく最初に出店したテナントはもういないと思われるが、高瀬川の水面の高さ床面を近づけるというコンセプトは、今でもこの周辺の建物にない心地よさを持っている。

画像
瑞泉寺 山門

 Time’sの正面には豊臣秀次の墓所・瑞泉寺の小さな山門が木屋町通に面して開いている。この辺りは木屋町通の中でも最も喧騒とした場所であるにもかかわらず、境内に入ると静寂に包まれる。 豊臣秀次は、文禄4年(1595)7月8日、高野山に追放となり出家する。そして同月15日に秀吉より切腹を命じられる。翌8月2日、秀次の首が据えられた三条河原の塚の前で、4男1女の遺児及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑される。
 またこの秀次事件に関係していたと嫌疑が懸けられた者には、藤堂高虎、山内一豊、伊達政宗、最上義光、細川忠興などがおり、秀次の宿老や姻戚関係を持つ大名であった。この事件で嫌疑を懸けられた者は、やがて起きる関が原の戦で徳川家康の東軍側に属するだけでなく、豊臣家臣団の分裂へと向かっていく。秀吉が望んだ豊臣秀頼への家督相続のために起きた事件であるとすれば、その枠に収まらず、豊臣政権の崩壊にもつながるものとなった。

画像
彦根藩邸跡 2005年8月16日撮影
画像
土佐藩邸跡

 Time’sを過ぎると高瀬川の西側にも西木屋町通という道が現れる。幕末まで高瀬川の西岸には彦根藩邸、そして土佐藩跡邸が並んでいた。

画像
元立誠小学校 角倉了以顕彰碑

 土佐藩邸の跡には明治2年(1869)立誠小学校が建つ。この校門の右脇には角倉了以の顕彰碑が建ち、高瀬川が角倉了以によって開削されたことをここを通る観光客に知らせている。元の学校区は、南北は三条通から四条通まで、東西は鴨川から寺町通までと、ほぼ京都の歓楽街と一致しているため児童の減少もあり、平成5年(1993)に廃校となっている。現在、昼は社会教育施設のイベント会場として、夜は祇園木屋町特別警察隊の拠点として使われている。夜の木屋町通は歌舞伎町化しつつあると聞く。平成17年(2005)3月28日の京都経済新聞(http://www.kyoto-keizai.co.jp/modules/wordpress/index.php?p=1772 : リンク先が無くなりました )によるとこの小学校跡地に高倉小学校の部活動のためのテニスコートを設置することについての記事げ掲載されている。確かにこれによって周囲200メートルの地域に風俗店の新規出店を禁止する規制が可能になる。しかし京都有数の観光地をこのような方法で守らなければならない状況になってきたということか。
 元立誠小学校の敷地の西側に河原町通に出る路地がある。この路地は元小学校の校庭に当たるため、木屋町通まで貫通せず、敷地の西側で止まっている。このあたりが土佐藩邸の南端であったと思われる。この道を使い河原町通に出ると近江屋址の碑がある京阪交通社河原町営業所が道路の向こう側に見える。実際の近江屋はこの一軒南側とすれば、ほぼこの路地の正面となる。当時の河原町通は道幅も細いので、藩邸の真裏という感覚であっただろう。

画像
本間精一郎遭難地

 再び木屋町通に戻る。土佐藩邸の南角の正面に、本間精一郎遭難地の碑が建つ。本間精一郎は越後国三島郡寺泊出身で、江戸では昌平黌と安積艮斎の塾で学んでいる。ここで薩摩、長州、土佐などの大藩に帰属していないという点で同じ境遇の清河八郎らと親交を結ぶ。
 その後、京に上った精一郎は、田中河内介、頼三樹三郎、吉村寅太郎、有馬新七、真木和泉ら著名な尊攘派志士と交わり、薩摩や土佐に倒幕を説いて廻る。しかし文久2年(1862)4月23日に勃発した寺田屋事件によって伏見での挙兵計画が無くなり、薩摩藩自体も公武合体路線に転じる。どの藩にも帰属しない精一郎は、挙兵計画に続く新たな方向性を見出すため次第に先鋭化し薩摩・長州・土佐を批判するようになったとも、酒色に溺れるようになったとも聞く。
 もともと勝気な気性の上に、学も有り、弁も立つ精一郎を煙たく思う無学の浪士たちは多くいたであろう。そのような者の反感を買ったのか、あるいは単独行動で政情をかき回す様な行動を阻止するためか、文久2年(1862)閏8月20日夜、先斗町通から木屋町へ抜け出ようとするところを、挟撃された。刺客は薩摩藩の田中新兵衛、土佐藩の岡田以蔵、田辺豪次郎、弘瀬健太、千屋熊太郎、平井収二郎、小畑孫二郎、島村衛吉、大石団蔵ら9名とされていることからも、土佐勤王党の意思がどこかに働いていたとも思われる。

「洛東の町並み その3 木屋町通 3」 の地図


大きな地図



洛東の町並み その3 木屋町通 3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  彦根藩邸01 35.0077 135.7693
  彦根藩邸02 35.0075 135.7698
  彦根藩邸03 35.0077 135.7702
  彦根藩邸04 35.008 135.7697
  土佐藩邸01 35.0058 135.7693
  土佐藩邸02 35.0055 135.7698
  土佐藩邸03 35.0058 135.7704
  土佐藩邸04 35.0061 135.7698
  木屋町通01 35.0128 135.7703
  木屋町通02 35.0124 135.7704
  木屋町通03 35.0109 135.7705
  木屋町通04 35.0094 135.7704
  木屋町通05 35.0065 135.7704
  木屋町通06 35.0032 135.7705
  木屋町通07 35.0025 135.7704
  木屋町通08 35.0023 135.7704
  木屋町通09 35.002 135.77
  木屋町通10 35.0016 135.7697
  木屋町通11 34.9999 135.7688
  木屋町通12 34.997 135.7676
01  武市瑞山先生寓居跡 35.0095 135.7706
02  吉村寅太郎寓居址 35.0095 135.7706
03  佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町 35.009 135.7704
04  池田屋騒動址 35.0089 135.7698
05  Time's 35.0086 135.7702
06  瑞泉寺 35.0086 135.7708
07   彦根藩邸 35.0077 135.7697
08  土佐藩邸 35.0058 135.7699
09  本間精一郎遭難地 35.0053 135.7706

「洛東の町並み その3 木屋町通 3」 の記事

「洛東の町並み その3 木屋町通 3」 に関連する記事

「洛東の町並み その3 木屋町通 3」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2009年9月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿