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洛東の町並み 木屋町通 



洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その1 木屋町通 2008/05/15訪問

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高瀬川一之舟入 2005年8月16日撮影

 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。

 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。

 木屋町通は二条通から始まる。このあたりは先斗町や三条あたりの喧騒とした雰囲気はない。

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ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 2005年8月16日撮影

 二条通の北側、鴨川沿いに吉村順三設計によるホテルフジタ京都が建つ。昭和45年(1970)竣工と京都のホテルの中では少し古い印象を受けるかもしれないが、今もなお骨太でありながら繊細さを感じさせる名建築であることに変わりはない。特に鴨川からの景観に和風という以上に京都らしさを感じさせるのは、40年近くこの地に建っているからではなく、吉村らしいシンプルな構成によって造られた建物であるからと思う。京都タワーや京都ホテル、そして京都駅が景観論争の中で大きく取り上げられ、多くの問題が突きつけられたのに対して、この京都の中で一番大切な場所に建つ建築が、ひとつの風景となっていることは大きく評価すべきではないだろうか。 吉村による客室棟の他に、敷地の北端には明治期の関西財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である藤田伝三郎の別邸 夷川邸が残されている。

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善導寺 木屋町通の突き当たりに竜宮門

 二条通から木屋町通に入る前に、通りの突き当たりにある竜宮門が目に入ってくる。この門は浄土宗知恩院派の真光明院善導寺の山門である。寺内には高さ1メートルほどの自然石に三尊の立像を半肉彫りにした釈迦三尊石仏がある。清涼寺式と呼ばれる珍しいものであり、弘安元年(1278)の銘がある。 善導寺の近くは島田左近が暗殺された場所とされている。左近は文久2年(1862)7月20日、木屋町の別寓で薩摩藩の田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉に襲撃されている。首級は鴨川筋四条北の先斗町川ぎわに、斬奸状と共に晒されている。この地が幕末京都の天誅の始まりとなった。

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大成京細見繪圖の一部分(日文研収蔵)

 木屋町通に入ると右手に島津創業記念資料館左手に高瀬川源流庭苑が通りに面する。先ほどのホテルフジタ京都から島津創業記念資料館、そしてその裏にある日本銀行京都支店を含めて、このあたり一帯は角倉家が幕末まで所有していたことが、慶応4年(1868)に作られた古地図・大成京細見繪圖から分かる。 慶長14年(1609)大仏復興の意志を継いだ豊臣秀頼が大仏殿方広寺の再建を開始する。この大仏殿方広寺への建築資材を運搬するため、慶長16年(1611)角倉了以・素庵父子は、京都の中心部と伏見を結ぶために高瀬川を開削に着手し、慶長19年(1614)にはほぼ完成している。高瀬川の名前は、輸送に使われた平底の舟を高瀬舟と呼んでいたことから付けられたものであり,角倉川とも呼ばれていた。
 高瀬川の項でも書いたように、この運河を開削した角倉家は、航行する舟から通行料を徴収していた。高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家は、二条大橋南西一帯に物資積みおろしを行った一之舟入や高瀬舟の運航を管理し,運送業者から手数料を徴収するため、邸宅を構えた。明治2年(1869)角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管された。そして大正9年(1920)に水運は廃止された。

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精撰増補京都詳覧図の一部分(日文研収蔵)
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島津創業記念資料館 背後の建物は日本銀行京都支店
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島津創業記念資料館 創業の地を示す碑

 島津製作所は分析・計測機器、医療機器、そして航空機器を製作する日本を代表する精密機器メーカーである。後に島津製作所を創設する初代島津源蔵は、万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。源蔵は仏具師の家に生まれてはいるが、鍛冶工となっていたようだ。
 日文研に収蔵されている明治11年(1878)製作の地図・精撰増補京都詳覧図を見ると、長州藩邸跡に勧業場、そして銅駝美芸高校の場所に舎密局の本局、ホテルフジタ京都にその分局、そのさらに北に女紅場が作られている。舎密局は明治4年(1871)に勧業場の中に仮局が設けられ、翌5年分局、6年に本局が完成したと、よっぱ、酔っぱのnakaさんから教えて頂きました。そのような時代と環境の中で明治8年(1875)島津製作所が創設される。源蔵は舎密局に出入りするようになり、ここでお雇い外人のゴットフリード・ワグネルと出会い、大きな影響を受けている。明治27年(1894)初代島津源蔵が亡くなっても、長男梅治郎が2代目島津源蔵となり島津製作所を継いでいる。そして明治42年(1909)国産初の医療用X線装置を開発している。これは現在の島津製作所の主要製品のひとつである医療機器につながっていく。島津製作所創業地を示す碑が明治21年(1888)竣工の南棟の先に建つ。

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高瀬川源流庭苑 二条苑の入口にある碑
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高瀬川源流庭苑 門内の第二無鄰菴を示す碑

 高瀬川源流庭苑は鴨川から高瀬川へ取水路の上に建てられている。現在は、がんこ二条苑となっているが、門前には角倉了以別邸跡の碑、門の内側には第二無鄰菴を示す碑が建つ。先の古地図には鴨川と高瀬川を結ぶ水路と木屋町通に架けられた橋は描かれているが角倉家の邸宅とは書かれていない。山縣有朋は明治24年(1891)にこの地を購入し第二無鄰菴とした。その後、第三代日銀総裁川田小一郎の別邸、大岩邸とこの地の主は変わっている。Googleの地図を見ると大きな池を囲む建物は、がんこ二条苑となっているが、その北に「串大岩」、南に「OOIWAビル」と記された建物がある。二条苑の説明では、「その後、第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸等をへて、現在は大岩邸として伝わり、がんこ二条苑高瀬川源流庭苑となっております」というようになっている。どうも大岩邸と二条苑の関係が良く分からない書き方となっている。以前にこの前を通った時は、まだ二条苑でなかったような気がする。その時は大岩邸であったのかと思い出していたところ、既に高瀬川源流庭苑の項でも触れたように、nakaさんからこの地の旧土地台帳を見せて頂き、がんこ二条苑が賃貸していることや立派な説明版に書かれている阿部信行首相別邸が阿部市太郎邸の誤りであることも分った。

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高瀬川源流庭苑 二条苑の由来

「洛東の町並み 木屋町通 」 の地図





洛東の町並み 木屋町通  のMarker List

No.名称緯度経度
  木屋町通01 35.0128135.7703
  木屋町通02 35.0124135.7704
  木屋町通03 35.0109135.7705
  木屋町通04 35.0094135.7704
  木屋町通05 35.0065135.7704
  木屋町通06 35.0032135.7705
  木屋町通07 35.0025135.7704
  木屋町通08 35.0023135.7704
  木屋町通09 35.002135.77
  木屋町通10 35.0016135.7697
  木屋町通11 34.9999135.7688
  木屋町通12 34.997135.7676
01   ホテルフジタ京都 35.0137135.7708
02  善導寺 35.0137135.7701
03  島津創業記念資料館 35.0129135.7702
04  高瀬川源流庭苑 35.0125135.7709
05  一之舟入 35.0122135.7704

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