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壬生寺



律宗別格本山 宝憧三昧寺心浄光院(壬生寺(みぶでら)) 2008年05月18日訪問

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壬生寺 本堂

 現在の壬生寺は、律宗別格本山の寺院である。律宗とは戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派であり、日本での律宗は、天平勝宝5年(753)鑑真が6度の航海の末に、唐から招来し東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けたことに始まる。後に唐招提寺を本拠として南都六宗の一つとして今日まで続いているが、平安時代以降平安京を中心に栄えた平安二宗(天台宗・真言宗)とは異なるため、京都の寺院の中でも珍しい存在となっている。なお、壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院という。

 寺伝によると、園城寺の快賢僧都が正暦2年(991)仏師定朝作の三尺の地蔵菩薩半跏像を本尊として五条坊門壬生の地に堂を建立したのが始まりとされている。快賢は慈母供養のために仏師定朝に地蔵菩薩半跏像を依頼したとされているが、安永9年(1780)に刊行された都名所図会には下記のようにある。
     「地蔵の尊像彫刻の志願を発し、仏工定朝に命じて一千日の間に作り終る、相好円備して恰生身に向ふが如し、是当寺の本尊なり。」

 この都名所図会では、快賢は粟田関白道兼すなわち藤原兼家の三男・藤原道兼(応和元年(961)~長徳元年(995))に連なる氏族の出身としている。その後、智証大師に随身して天台の奥義を究め、永承16年に没すとしているが、どうも怪しげな記述である。智証大師は既に寛平3年(891)に没しているし、永承年間(1046~1053)は8年間で終わっている。どうも確かなことは、正暦2年(991)園城寺で天台宗を修めた快賢によって、天台宗の壬生寺を開創したということであろう。

 前述の都名所図会では、当初草堂に本尊は祀られていたが、寛弘2年(1005)に堂供養が行われ、小三井寺と号するようになったとしている。地蔵菩薩の霊験が次第に広まり、貴族らの壬生寺への参詣が始まる。承暦年間(1077~80)には白河天皇が行幸され、地蔵院の号を賜わる。また壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願により、毎年2月に節分厄除大法会を行うようになる。鳥羽院(康和5年(1103)~保元元年(1156))、後白河院(大治2年(1127)~建久3年(1192))そして順徳院(建久8年(1197)~ 仁治3年(1242))の行幸も行われたとしている。
 鎌倉時代に入り、伊勢平氏の流れをくむ平宗平は、建保元年(1213)に五条坊門壬生の地から五条坊門坊城へ移転し堂塔を建立され、宝幢三昧院と号し、地蔵院とも称するようになる。しかし正嘉元年(1257)の火災で堂宇全てを焼失するが、2年後の正元元年(1259)、宗平の子の政平が再建している。

 正安2年(1300)壬生寺再建と修復の勧進聖として円覚上人が入寺する。円覚上人は、平安時代末期に良忍が始めた融通念仏を鎌倉時代に再興している。これにより大阪平野の大念仏寺、京都の清凉寺、壬生寺などで融通念仏が盛んになり、壬生寺、清凉寺、千本閻魔堂そして神泉苑には円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。重要無形民俗文化財に指定されている壬生狂言は円覚上人が残した大念仏狂言のひとつである。仏教を群衆に判りやすく説くために、身ぶり手ぶりで表現する無言劇となっている。そしてこの頃、壬生寺は律宗に改宗したと思われる。
 天明8年(1788)の正月晦日に鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火した火事は2日間燃え続けた。この天明の大火により、東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東西両本願寺・六条通まで達している。御所・仙洞御所・摂関家の邸宅から二条城・京都所司代屋敷・東西両奉行所まで焼失している。この大火により壬生寺の堂宇全てが焼き尽くされている。大火の2年後に大念仏堂が再建され、続いて東門、本堂、中之坊そして阿弥陀堂と再建されたが、他の堂舎の再建は明治維新を迎え中断された。都名所図会に残されている図会は安永9年(1780)に刊行されていることから、この大火以前のものである。図会には妙見堂、聖観音、観音堂などの他に六所社などのいくつかの社も見える。また天明の大火以前の壬生寺の境内は現在の境内より南北に広かったようにも見える。京都情報館の「京都市指定・登録文化財-建造物」では、八木邸の長屋門は文化元年(1804)、主屋は文化6年(1809)築としているので、八木邸もまた天明の大火を被災したのであろう。同様のことは八木邸の公式HPでも
     「私共八木家は、室町時代後期より京都は壬生の地に住み、以来、四百年十五代にわたり相続しております。」

とした上で建物についての説明
     「当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804年)主屋は文化六年の造営と知られる。」

としている。

 壬生寺と火災は天明の大火の後も続く。昭和45年(1970)の放火により本堂と本尊地蔵菩薩半跏像が失われる。新しい本尊として、律宗総本山唐招提寺から延命地蔵菩薩立像(重要文化財)が移され、昭和45年(1970)に本堂の落慶法要も行われている。

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壬生寺 坊城通に面する表門

 坊城通に面した正門は、寛政11年(1799)に再建されたもので、その脇には新しくアルミニウムで造られた寺号標柱が建つ。正門を潜り境内に入ると正面に東面した本堂が現れる。本堂の南側にはパゴダに似せて作られた千体仏塔が異観を呈している。この塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められたものを平成元年(1988)に仏塔に建立している。室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など、丁度1000体が円錐形に並べられている。この他にも境内には、水掛け地蔵をはじめとする石仏が多く祀られている。その一部の石仏は、8月下旬に行われる地蔵盆の時期、お地蔵様の無い新興住宅地に貸し出されている。レンタル地蔵と現代風に呼ばれているが、出開帳に基づく伝統行事であり、既に50年以上の歴史がある。創建より地蔵菩薩を祀り、地蔵信仰を広めてきた寺であることが伝わる。 

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壬生寺 阿弥陀堂

 本堂の手前には、平成14年(2002)に再建された阿弥陀堂が見える。阿弥陀如来三尊像が安置されている。この阿弥陀堂の奥に、新選組隊士墓所である壬生塚がある。ここには有名な近藤勇の胸像と遺髪塔の他、下記の隊士の墓が祀られている。没年は墓石に記されたものとする。

 芹沢 鴨  (没年 文久3年(1863) 9月18日)
 平山五郎  (没年 文久3年(1863) 9月18日)
 河合耆三郎 (没年 慶応2年(1866) 2月12日)
 阿比原栄三郎(没年 文久3年(1863) 4月 6日)
 田中伊織  (没年 文久3年(1863) 9月13日)
 野口健司  (没年 文久3年(1863)12月28日)
 奥沢栄助  (没年 元治元年(1864) 6月 5日)
 安藤早太郎 (没年 元治元年(1864) 7月22日)
 新田革左衛門(没年 元治元年(1864) 7月22日)
 葛山武八郎 (没年 元治元年(1864) 9月 6日)

 芹沢と平山は連名、河合は斬首後に父親が建立、阿比原から葛山まで7名は連名の墓となっている。

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壬生寺 壬生塚

 壬生塚は池に浮かぶ中の島で、池の周囲はフェンスで囲まれている。どうやら新しく造られた阿弥陀堂から島へ渡るようになっているらしい。公開時間は4時30分までということで、どうやら既に閉まった後のようだった。

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壬生寺 池に浮かぶ壬生塚と龍神像が見える

「壬生寺」 の地図





壬生寺 のMarker List

No.名称緯度経度
01  壬生寺 正門 35.0015135.7442
02  壬生寺 本堂 35.0016135.7433
03   壬生寺 千体仏塔 35.0013135.7433
04  壬生寺 阿弥陀堂 35.0016135.7439
05  壬生寺 壬生塚 35.0017135.7439
06   壬生寺 狂言堂 35.0022135.7435
07  八木邸 35.0022135.744
08  旧前川邸 35.0022135.7445
09   新徳禅寺 35.0018135.7446

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