赤山禅院
天台宗比叡山延暦寺別院 赤山禅院 (せきざんぜんいん) 2008年05月20日訪問
修学院離宮の参観を終え、表総門から出て修学院離宮道を西に進む。鷺森神社御旅所の角を右に曲がり、200メートル北に進む赤山大明神の額の掛かる鳥居が現れる。これが天台宗 比叡山延暦寺別院 赤山禅院の境内の入口である。緑が濃く薄暗い参道を歩くと今度は山門が建つ。秋の紅葉の時期には、この参道は真紅に変わる。そのまま東に続く参道を進むと左手が一段高くなり、赤山禅院の諸堂が建つ。
仁和4年(888)天台座主の安慧が、師の慈覚大師の遺命により比叡山延暦寺の別院として創建している。安慧は延暦13年(794)河内国大県郡の生まれ。下野国大慈寺の広智に師事して出家、13歳で比叡山に登り最澄(伝教大師)円仁(慈覚大師)について顕教・密教を学んでいる。承和13年(848)延暦寺定心院十禅師に任じられ、内供奉十禅師を経て、貞観6年(864)天台座主4世に就任している。
ただし安慧は貞観10年(868)に没しているので、仁和4年(888)の赤山禅院創設には疑問が残る。赤山禅院で頂いた拝観の栞には、慈覚大師の遺命による創建とあるが、安慧の名や仁和4年(888)という年号は書かれていない。ヒデさんのHP 名所旧跡めぐり の赤山禅院(http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/sekizan-zenin-2.htm : リンク先が無くなりました )では、もともと比叡山横川に祀られたがその後、この地に遷座し、後水尾上皇の修学院離宮行幸の時に、社殿の修築と赤山大明神の勅額を賜っているとしている。他に同様な記述を見かけないが、この説明は先の年代の不一致を補完するのには適切かもしれない。
本尊は天台宗守護神の赤山大明神。安慧の師であり天台座主3世の慈覚大師は、遣唐使で中国に渡り天台教学を修めて日本への帰路の途中で出港地・泰山にある山の神・泰山府君に航路平穏を祈願している。無事に帰国できたことを感謝し、比叡山に勧請しようとしたが、果たせずに亡くなっている。慈覚は承和2年(836)の1回目の渡航と承和3年(837)の2回目の渡航に失敗している。3回目の承和5年(838)の渡航で船が全壊するも唐への上陸を果たしている。寛平6年(894)の遣唐使が菅原道真の建議により停止されたことにより、この遣唐使が最後のものとなった。このように渡航に苦労した慈覚であったから、赤山大明神に航海の安全を祈ったのも理解できる。
泰山府君は、十二天の一人焔摩天に従う眷属の一人で、中国泰山の信仰と結びつき、道教では東嶽大帝とも呼ばれる。病気や寿命、死後の世界の事など、生死に関わること全般を司るため、安倍清明は泰山府君を陰陽道の最高神霊、宇宙生成、森羅万象を司る神として位置付けている。この泰山府君と赤山大明神がどのような経緯で一体化したかは良く分からない。
なお寺号の赤山禅院は、慈覚大師が登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したことからきている。
先の拝観の栞には、
・都の表鬼門を守護する方除けのお寺
・日本最古の都七福神
・比叡山延暦寺の天台随一の荒行・千日回峰行 赤山苦行のお寺
とも記されている。
赤山禅院の拝殿屋根には、瓦彫の猿が安置されている。鬼門除けのため比叡を守る日吉神の使い猿が祀られている。この猿は京都御所の鬼門守護「猿が辻」の猿と向かい合っているともいわれているが、拝殿は南南西を向いているため、実際には対向している訳ではなさそうだ。しかし新日吉神社や猿ヶ辻そして大豊神社と同様に金網で猿は囲われている。これらは夜になると道行く人に悪さをするとされているからである。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会では下記のように記し、境内の図会を掲載している。
「赤山の社は修学寺村の東山下にあり、慈覚大師唐土より帰朝のとき、明神は白羽の矢負ふて船の上に現じ、天台守護となり給ふ、神託によつて此所に観請しけり。〔転宅の節、当社の神札をうけて家に張れば、鬼門金神の祟なしとぞ〕
神前に迦字の梵字を三所にかくる、本地堂は地蔵菩薩にして、慈覚大師の作なり」
また少し後の寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会の記述でも以下のように記している。こちらには安恵の名があることは注目できる。
「赤山神祠 (赤山社) 赤山の神祠〔修学院邑の北の方にあり〕いにしへ僧の安恵、慈覚大師の顧命に依てこゝに社を建る。〔元亨釈書〕社頭の林泉玲瓏とし、特に近きとし官家より修補ありて神殿壮麗となる。〔世に転宅の時当社の神札を受て家に張るは、むかし唐土の天台山を移して比叡山に伽藍を建立し、王城の鬼門金神の守護とし給ふ由縁なり〕」
また都七福神は室町時代に京都でおきた七福神信仰。赤山禅院では、天台宗の僧・天海大僧正が、徳川家康の徳を七福神になぞらえている。
長寿 寿老人
富財 大黒天
人望 福禄寿
正直 恵比寿
愛敬 弁財天
威光 毘沙門天
大量 布袋尊
かなり強引な例えであるが、家康は大いに喜び、狩野法眼(狩野元信?)に七福神遊行図を描かせたとしている。天台宗の寺院ならではの逸話であるが、どことなく作り話のような気がする。
都七福神が下記のような寺社に定着したのは昭和54年(1979)のことと、全く新しいものである。
恵比寿 えびす神社 京都ゑびす神社 神道
大黒天 松ヶ崎大黒天 妙円寺 日蓮宗
毘沙門天 毘沙門堂 東寺 東寺真言宗 弁財天 弁天堂 六波羅蜜寺 真言宗智山派 福禄寿 赤山さん 赤山禅院 天台宗
寿老人 革堂 行願寺 天台宗
布袋尊 天王殿 萬福寺 黄檗宗
千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされている。12年籠山行を終え、百日回峰行を満了した者の中から選ばれたものだけに許される行である。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠を被り、白装束を纏い、草鞋履きといういでたちで行を行うが、途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意を表すため、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と両刃の短剣を常時携帯している。
千日回峰行は7年間にわたる行である。無動寺谷で勤行の後、深夜の2時に出発し、真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30キロメートルの行程を平均6時間で巡拝する。700日目の回峰を終えると堂入りが始まる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で9日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入る。堂入りが終了すると、行者は大阿闍梨となり、自利行から、衆生救済の化他行に入る。
ここからの回峰で赤山禅院への往復が加わる。1日約60キロメートルの行程を100日間続ける。7年目は残りの200日で、通算801日目から100日間は全行程84キロメートルにおよぶ京都大回りで、901日目からの100日間は比叡山中30キロの行程に戻り千日を満行する。
赤山禅院の境内は、言葉は良くないがテーマパークのアトラクション巡りに似ている。赤山大明神を祀る本殿をお参りした後、左側の地蔵堂に始まり、正念珠のある赤山大明神を祀る本堂、弁才天堂、都七福神の福禄寿堂と時計回りの順路に従い境内を進むと、都七福神巡りに挙げられている福禄寿を祀る堂の他、幾つかの小さな祠がある。順路の最後が瀧籠堂で環珠法の輪を潜るとスタートの寺務所前になる。所要時間およそ20分で一周したが、境内図をよく見てから始めることをお勧めいたします。
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