光明寺 その2
西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その2 2009年12月9日訪問
光明寺 その1では、法然上人没後の浄土宗の法難(嘉永の法難)とその後の浄土宗の分裂について記してきた。この項では法然と熊谷直実を中心とした光明寺の歴史について書いていきたい。
西山浄土宗の総本山である光明寺の歴史について、公式HPでは承安5年(1175)法然上人が粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたことより始めている。 上人は長承2年(1133)美作国久米南条(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と母・秦氏君との子・勢至丸として稲岡庄に生まれている。その生誕地には、後に熊谷直実が建立したとされる誕生寺が現存している。押領使は国司に任命され国司の兵を指揮する地方官で、その土地の豪族が任命されることが多かった。そのため漆間氏も代々この職に就いていたようだ。
保延7年(1141)父・時国は明石源内武者定明の夜襲を受ける。定明は稲岡庄の預所であり、荘園の領主が派遣して荘園の管理や年貢の徴収などを行っていた在地の管理者とされている。定明の父定国は稲岡庄の領主であった堀河天皇の滝口、すなわち宮中における護衛のための武士を務めていた。父が堀河天皇の死後出家して美作に下向していたため定明は預所に任じられていた。
荘園領主の利益を優先しなければならない定明が、国司や現地農民の利益を擁護する立場にあった時国と対立が生じたとしても不自然なことはなかった。そのため定明による夜襲は、荘園支配をめぐる内紛が原因であったと考えられている。
この時9歳であった勢至丸は小弓を以て定明を射ったとされている。父時国は臨終に際して、勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言されたとされている。勢至丸は母の弟である観覚得業上人のもとに引き取られる。その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け勢至丸に比叡山での勉学を勧めている。
天養2年(1145)比叡山延暦寺に登り源光に師事する。久安3年(1147)源光より教わることが無くなり、比叡山の皇円の下で得度し天台座主行玄を戒師として授戒を受けるようになる。さらに久安6年(1150)皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになる。「年少であるのに出離の志を起こすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、18歳にして法然房という房号を、源光と叡空からそれぞれ一字を採って源空という諱を授かる。
法然は智慧第一の法然房と称され、保元元年(1156)には京都東山黒谷を出て、清凉寺や醍醐寺などに遊学している。そしてこの叡山を下り遊学を始めた時期に、粟生広谷を訪れ村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りたとされている。上人が広く大衆が救われる道を求めて旅をしている事を聞いた茂右衛門夫婦は、真の教えを見い出したら最初に尊い教えをお説き下さるようにと上人にお願いしている。 承安5年(1175)中国浄土教の僧・善導が撰述した「観無量寿経疏」によって回心を体験した上人は、専修念仏を奉じ比叡山を下りて東山吉水に住むようになる。この年が浄土宗の立教開宗の年とされ、そして約束された粟生の地に戻り念仏を唱えたことより、浄土門根元地の石碑が建てられている。実に茂右衛門宅を訪れてから20年を経て、遂に約束を果たすこととなる。そして法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げていった。
養和元年(1181)前年に焼失した東大寺の大勧進職に上人が推挙されるが、辞退し俊乗房重源を推挙する。文治2年(1186)大原勝林院で聖浄二門を論じる。世に大原問答と呼ばれるものである。そして建久元年(1190)重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講じている。建久9年(1198)最大の庇護者となる九条兼実の懇請を受けて「選択本願念仏集」を著している。これが後の嘉永の法難の遠因となる。元久元年(1204)後白河法皇13回忌法要である浄土如法経法要を法皇ゆかりの寺院・長講堂で営む。この法要の様子は国宝絵巻の紙本著色法然上人行状絵巻にも描かれている。このように旧仏教勢力の有為な人材を取り込むだけではなく、時の権力者の庇護も受けて拡大して行く法然教団に対して、旧仏教勢力は脅威を感じただろう。
念仏は阿弥陀が選択した唯一の往生行であり、念仏以外では往生できないとして所業往生を法然は否定している。そのため念仏以外の造像起塔などの雑修雑信仰の宗教的価値を剥奪することにより全ての人々に宗教的な平等を説いている。すなわち特権階級のためのものとなりつつあった宗教を、全ての民衆のために改めたところに法然の革新性があった。しかしその反面、延暦寺や興福寺など顕密寺院は法然の専修念仏を偏執として弾圧を朝廷に要求するようになって行く。法然の晩年の8年間は旧仏教勢力との戦いの日々となったこと疑いのない事実である。
法然上人が粟生で念仏を唱えた故事に続いて、光明寺の公式HPでは熊谷蓮生法師を取り上げている。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武蔵国熊谷郷の武将・熊谷直実は、平家物語の敦盛最期の章段においてあまりにも有名である。現在の熊谷市の由来となった熊谷氏は、桓武平氏・平貞盛の孫・維時の末裔と称する説と、武蔵七党の私市党である丹波党の分かれとする説があり、その出自は定まっていない。
直実の祖父にあたる平盛方は北面武士であった。そして平忠盛が武士の身分にあるにもかかわらず殿上人となった際に生じた闇討ちに加わったとされている。平清盛の父である忠盛は天承2年(1132)3月13日に内昇殿を許されているので、この頃の出来事だったと考えられる。この事件により、天皇の怒りに触れた盛方は処刑ないしは佐渡への流罪となり、子の直貞は武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延び、この地の領主となり熊谷氏を名乗るようになる。
熊谷直実は永治元年(1141)熊谷直貞の次男として生まれている。父の直貞は生没年不明であるものの康治元年(1142)に亡くなったと考えられている。そのため、まだ2歳であった直実は母方の伯父で武蔵国大里郡久下郷を領する久下直光によって養われる。保元元年(1156)7月の保元の乱においては源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159)12月の平治の乱でも源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意する。そして直光の元を去り、清盛の四男・平知盛に仕えることとなる。この伯父との離反が後の直実に大きな影響を与えることとなる。
治承4年(1180)石橋山の戦いまでは、大庭景親に従い東国に下り平家側に属する。石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。そして常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いに参陣。直実は源義経の奇襲部隊に属し、鵯越を逆落としに下り息子の直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げている。そして海上の船目指し波際を騎馬で逃げる平家の公達を見つけ、一騎打を挑み組み伏せている。直実の問いかけに対して「名のらずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」と答えたのは、清盛の甥にあたる17歳の平敦盛であった。
治承4年(1180)以仁王の挙兵で始まった治承・寿永の乱は、寿永4年(1185)3月24日の壇ノ浦の戦いを以って終結する。直実は文治3年(1187)8月4日に鶴岡八幡宮で行われる放生会の流鏑馬で的立役を命ぜられる。弓の名手であった直実は的立てを拒否する。この不服申し立てにより、所領の一部を没収される。文治5年(1189)9月、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で奥州合戦にも直実の嫡子直家が参戦し、その功により陸奥国本吉郡に所領を得る。そのため直実は熊谷領の一部を末子四郎に譲る。
離反以降不仲となった久下直光の久下郷と直実の熊谷郷の境界争いが絶えず、建久3年(1192)11月25日、頼朝の面前で口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていた直実も頼朝の質問に上手く答えることが出来なかった。直実は、「久下直光を贔屓にしていた梶原景時が讒言しているので敗訴は最初から決まっていたも同然」と言い放ち、証拠書類を投げ捨ててそのまま逐電したとされている。
直実は自らの地位を確立するために直光の庇護の元から離れ、平氏との戦いを通じて御家人としての地位を得ようと努力してきた。それにも関わらず流鏑馬においても騎馬ではなく的立役を頼朝より命ぜられている。そして支配してきた熊谷郷の一部を直光に奪われたことにより、鎌倉幕府を支える御家人としての自らの立場の限界を強く感じたと思われる。
しかし久下直光の側から見れば、孤児であった直実を幼い時分から養い、もともと久下氏の所領である熊谷郷を直実に任せてきた。それにも関わらず家人扱いを不満に思い離反した上、一時は平知盛に仕え、そして頼朝の御家人となったことで対等に領地を主張する直実に裏切られたという気持ちもあっただろう。
いずれにしても熊谷直実の置かれた弱い地位こそが、武士としての直実の生き方に大きな支障を与え、それが宗教的な平等を唱える浄土宗に結びついて行く事となったと考えることもできる。平家物語では敦盛の最期に無常を感じ出家の道を選んだとしているが、その他にも自らの置かれた立場に対する不満も見逃すことはできない根の深い要因となっている。
逐電した後の直実の足跡については諸説あるようだが、翌年の建久4年(1193)頃には東山吉水に法然を訪ねたと考えられている。ただし、この時が初めての訪問だとすると文治2年(1186)の大原問答における蓮生の役割は創作となる。そのためには治承・寿永の乱が終結した寿永4年(1185)には法然上人に出会っていなければならないだろう。熊谷市に残る浄土宗蓮生山常行院熊谷寺の公式HPでは、文治元年(1185)「吉水の禅房、法然上人を訪ねる」とし、紙本著色法然上人行状絵巻の第27巻と蓮生法師一代絵伝に描かれている。また、文治2年(1186)「大原問答」、建久元年(1190)「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」へと続いている。 いづれにしても家督を嫡子直家に譲り、正式に法然の弟子となり出家したのは建久4年(1193)の頃であっただろう。法名は法力房蓮生。この年、蓮生は法然の誕生した美作国に誕生寺を創建している。
建久6年(1195)8月京から鎌倉へ下るが、この時に東行逆馬の故事が生まれている。蓮生は鎌倉で頼朝と対面を果たし熊谷郷に帰郷する。そして熊谷館の一郭に庵を結んで僧俗に開放して教えを説いたと言われている。これが現在の蓮生山熊谷寺熊谷寺へとつながっている。また東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立している。
その後、再び京都に戻った蓮生は建久8年(1197)5月、錦小路東洞院西に法然を開山と仰ぎ御影を安置して法然寺を建立する。応仁の乱で焼失するものの、その後再興される。秀吉により寺町綾小路下ルの中之町に移転する。その後も幾度かの焼失を繰り返し、1964年現在の右京区嵯峨天龍寺立石町に移る。
そして建久9年(1198)喧噪の吉水を離れ静かなところで念仏修行を行うため、法然上人所縁の粟生に庵を結ぶ。堅田にある浮御堂千体仏の中尊仏である阿弥陀如来を迎え、法然上人を招いて落慶法要を行う。上人を開山に迎え念仏三昧院の寺号を頂き、蓮生が第2世となる。ここに光明寺が始まる。元久元年(1204)5月鳥羽一念寺上品上生の阿弥陀如来前にて、
我、上品上生を願って極楽に往生す。 その他の八品の往生は我が願にあらず
と大願を起こしている。自分は下品下生でもよいが、この世で因縁を結びし人々一人残さず極楽往生させ、なお無縁の者も共に印接せんために、上品上生の願を堅めたのである。そして元久2年(1205)故郷への想いを断ち切れなくなった蓮生は、光明寺を法然の門弟幸阿上人に後を託し(第3世)、法然に別れを告げ、帰郷の道に発った。中山道を通り美濃横蔵寺、信濃善光寺に立ち寄り、熊谷に戻ったのは、その年の春であった。下野国領主宇都宮頼綱へ浄土を勧め、後に実信房蓮生と名乗らせることとなる。熊谷郷に帰った蓮生は庵で、念仏三昧の生活を送った。
建永元年(1206)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て建永2年(1207)9月4日に往生したと言われている。直実の遺骨は遺言により、光明寺の念仏三昧堂に安置された。
専修念仏の停止の決定と住蓮房と安楽房の死刑が実施されたのは、建永2年(1207)2月のことであった。いわゆる承元の法難の始まりである。そして同月28日後鳥羽上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処している。既に高齢であった法然は九条兼実の庇護により、土佐国番田から九条家領地の讃岐国に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教することとなった。時系列的には蓮生が京を去り、郷里の熊谷に戻った後に起きた出来事でもある。そして讃岐に配流されたのは、まだ蓮生の生前であり、赦免の宣旨が下ったのは往生後のことであった。
この後、赦免はされたものの入洛の許可は下りず、法然は摂津勝尾寺に滞在することとなる。そして入洛を果たした2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日に入寂している。嘉禄3年(1227)の法難の際に、石棺を警護した宇都宮入道蓮生は法力房蓮生の勧めで法然の弟子証空を師事した宇都宮頼綱である。塩谷入道信生は塩谷朝業(左衛門尉)で宇都宮頼綱の弟である。千葉入道法阿は東胤頼(六郎太夫)、渋谷入道道遍(七郎)も相模国大庭御厨石川郷の出身の御家人であり、内藤兵衛入道西仏は在京人の頓宮盛政と推定され、六波羅探題北方北条時氏の要請で派遣されたようだ。
「光明寺 その2」 の地図
光明寺 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 光明寺 寺号標 | 34.9389 | 135.6793 |
02 | ▼ 光明寺 浄土門根元地の碑 | 34.9388 | 135.6782 |
03 | ▼ 光明寺 総門 | 34.9387 | 135.678 |
04 | ▼ 光明寺 閻魔堂 | 34.9386 | 135.6779 |
05 | ▼ 光明寺 東行逆馬の碑 | 34.9387 | 135.6778 |
06 | ▼ 光明寺 女人坂 | 34.9386 | 135.6769 |
07 | ▼ 光明寺 観音堂 | 34.9385 | 135.6759 |
08 | ▼ 光明寺 経堂 | 34.9386 | 135.6758 |
09 | ▼ 光明寺 勧化所 | 34.9386 | 135.6756 |
10 | ▼ 光明寺 法然上人袈裟掛之松 | 34.9385 | 135.6758 |
11 | ▼ 光明寺 鐘楼 | 34.9383 | 135.6757 |
12 | ▼ 光明寺 立教開宗像 | 34.9383 | 135.6755 |
13 | ▼ 光明寺 円光大師石棺 | 34.9386 | 135.6754 |
14 | ▼ 光明寺 本堂 | 34.9384 | 135.6751 |
15 | ▼ 光明寺 阿弥陀堂 | 34.9387 | 135.6749 |
16 | 光明寺 位牌堂 | 34.9387 | 135.6747 |
17 | 光明寺 勢至堂 | 34.9385 | 135.6744 |
18 | 光明寺 御本廟 | 34.9384 | 135.6744 |
19 | 光明寺 釈迦堂 | 34.9379 | 135.6748 |
20 | 光明寺 大書院 | 34.9376 | 135.675 |
21 | 光明寺 小書院 | 34.9377 | 135.6747 |
22 | 光明寺 信楽庭 | 34.9379 | 135.675 |
23 | ▼ 光明寺 勅使門 | 34.9379 | 135.675 |
24 | 光明寺 表玄関 | 34.9378 | 135.6751 |
25 | ▼ 光明寺 庫裏 | 34.9376 | 135.6753 |
26 | 光明寺 法然上人火葬跡 | 34.9379 | 135.6752 |
27 | ▼ 光明寺 鎮守社 | 34.938 | 135.6753 |
28 | ▼ 光明寺 茂右衛門屋敷跡 | 34.938 | 135.6755 |
29 | ▼ 光明寺 薬医門 | 34.9382 | 135.6766 |
30 | ▼ 光明寺 もみじの参道 | 34.9385 | 135.6774 |
この記事へのコメントはありません。