百々橋
百々橋(どどばし) 2008/05/13訪問
足利将軍室町第址の碑み右手に見ながら、室町通を北へ入る。2本目の通り右に曲がると烏丸通に面した大聖寺門跡の山門が角に見える。
義満の正室の叔母にあたる日野宣子は、無学祖元の弟子・意翁円浄に参禅し、貞治7年(1368)に出家して、大聖院無相定円尼と号した。将軍義満は安禅所として室町邸内に建てられた岡松殿に無相定円尼を迎えた。永徳2年(1382)57歳で亡くなると,その遺言に従い岡松殿を法名にちなんで大聖寺とした。創建以来、応仁の乱等の兵火に度々遭い移転を重ね、長谷(現在の岩倉長谷街)から、文明11年(1479)毘沙門町に移り、再び創建の地に戻ったのは元禄9年(1696)のことだった。大聖寺は光格天皇の皇女 普明浄院にいたる24代、約450年間は、全て内親王によって受け継がれてきた。また明治維新以後も内親王に代わり公家華族の息女が門跡を継いでいる。正親町天皇から尼寺第1位の綸旨を賜り、御寺御所という呼称が許されている。現在の、宮御殿は光格天皇の皇女が入寺した際に千両を下賜されて御所風に建立されたものである。本堂は昭和18年(1943)東京青山御所より移築されたもの。こちらは非公開寺院のため、境内の一部しか伺うことができない。「くみちょー」さんのブログ(http://kata2.wablog.com/84.html : リンク先が無くなりました )から、境内に花乃御所の碑が建つことが分かる。
大聖寺と同志社大学寒梅館の前を過ぎたところで、上立売通を西に入る。同志社大学新町キャンパスの北側を過ぎところで、北に進むと正面に妙顕寺が現れる。今回は山門だけを見て寺之内通を西に曲がる。小川通との交差点に百々橋の礎石が保存されている。
寺之内通小川は百々の辻(どどのつじ)と呼ばれ、昭和38年(1963)頃まで小川が流れ百々橋が使用されていた。現在は暗渠となっているため分かりづらいが、寺之内通小川の南にある報恩寺の小川通から入る門の手前には石橋が残されている。また寺之内通小川の北にある本法寺の門前にも同様の石橋を見ることが出来る。航空写真から寺之内通より南側は小川通より一軒分、北側はその半分位西側にかつての流れの痕跡が見える。
百々橋は,長さ四間一分(7.5メートル)幅二間二分(4メートル)と小さな橋である。この橋の名前が現在まで残っているのは、応仁元年(1467)5月,山名宗全と細川勝元が多くの守護大名を巻き込んで起こした応仁の乱がこの橋を挟んで西軍と東軍が対峙し激しい合戦が行われたためである。
百々橋の四基の礎石は、この場所に1つ、京都市立室町小学校に1つが保管され、洛西ニュータウンの竹林公園内に2つの礎石と残りの橋材とともに明治40年(1907)に改築した姿に復元されている。京都市洛西竹林公園の公式HPには百々橋が掲載されている。
また京都市洛西竹林公園には、地下鉄烏丸線建設のために、昭和50年から行われた事前発掘調査により確認された旧二条城からの出土品も展示されている。二条城の項や足利将軍室町第址の項で触れたように旧二条城は、永禄12年(1569)に織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭のために築造した邸宅である。13代将軍 足利義輝の室町中御門邸跡に約400メートル四方の敷地に2重の堀や3層の天主を備える城郭を京都の中心に築いた。この工事の際に発掘された石垣には、自然石の他に石仏、供養碑、五輪碑、礎石、建材等が使用されていた。信長にとっては、足りない石材を補充するため石仏や供養塔を使用しただけであろうが、頸に縄をかけられ、現場へ引かれていく石仏を見た当時の人は神をも恐れぬ行為に恐怖を感じたことだろう。
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