徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

高瀬川源流庭苑



高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問

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高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑

 島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。
 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴とした。その後、第三代日銀総裁川田小一郎の別邸、金巾製織の経営者で東洋紡績専務である阿部市太郎邸、大岩邸などを経て、がんこ高瀬川二条苑となっている。阿部信行首相の別邸という記述が見られるし、がんこの出している立札にもしっかりと書かれている。しかし、よっぱ、酔っぱのnakaさんから頂いたご指摘によると阿部市太郎である。開示して頂いた資料を参照すると、この土地は以下のように持ち主が代わってきたことが分かる。
藤田鹿太郎→山縣有朋→三野村利助→川田小一郎→川田龍吉→清水吉次郎→田中市太郎→田中市蔵→阿部市太郎→阿部みさ→大岩産業

 藤田鹿太郎は、藤田伝三郎の兄。ホテルフジタの隣接地には藤田組に関係する人が所有者となっている。
次の山縣有朋も同じ長州閥の藤田から購入している。ところで所有者である山縣の住所は現在の椿山荘の所在地が記されている。これも現在は藤田観光の持ち物となっていることからも、藤田組と山縣の関係が見えてくる。
 三野村利助(天保14年(1843)~明治34年(1901))は三井組の大番頭・三野村利左衛門の養子で、三井銀行創設の影の立役者で三井銀行の取締役。しかしわずか1年で手放している。
 日銀総裁の川田小一郎は日銀総裁在任中の明治29年(1896)、京都別邸にて急死したとあるのでこの地で亡くなられたのだろう。そのため川田龍吉が登記したのも同じ明治29年(1896)である。

 そして3番目の無鄰菴の造営に明治27年(1894)から着手した。第二無鄰菴購入から3年後であるが、この年の7月に日清戦争が勃発したため、一時工事は中断し、翌28年2月から本格的な造営を再開し、完成したのは明治29年(1896)のことであった。

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高瀬川源流庭苑 門前にある角倉了以別邸跡の碑

 川を訪ねる旅 というHPの 高瀬川の源を探る によると高瀬川源流庭苑の様子とこの庭も南禅寺の第三無鄰菴と同じく七代目小川冶兵衛によるとされている。しかし山縣と小川冶兵衛の関係は第三無鄰菴からである。第三無鄰菴を作庭する際に、山縣は小川にどのような書物を読んで作庭術を身に付けたか尋ねたという逸話が残っている。初めて作庭を依頼した小川に「芝生を使った明るい空間」、「脇役であったモミなどをたくさん使う」、「琵琶湖疏水を取り入れる」などの注文を付けたとされているが、どのようなものが出来るか気になって質問をしたのだろう。もし第二無鄰菴で小川に任せていたならば、このようなことは聞かなかっただろう。 nakaさんからの指摘によると、この庭を小川冶兵衛に依頼したのは、田中市太郎の父市兵衛であるそうだ。田中市太郎は明治34年(1901)に日本綿花社長になり、明治41年(1908)に44歳と若くして亡くなっている。その後の日本綿花社長を父の市兵衛が再び務めることとなっている。この日本綿花がニチメンになり日商岩井と合併して双日となっていく。

 現在の二条苑にある建物は山縣有朋の時代のもの、庭園はもとの角倉了以邸の庭園を改修したものとされている。watersideさんのHP~水とのふれあい~ 親水紀行によると、高瀬川が開削された頃は、二条に設けられた樋によって鴨川から水を引いていたらしい。現在は鴨川の西側を並行して流れる「みそそぎ川」から取水している。
 みそそぎ川の歴史はそれほど古くはなく、大正年間から昭和かけて開削された川らしい。京都市の鴨川条例(仮称)検討委員会の議事録には、鴨川の納涼床とみそそぎ川の関係についての説明が掲載されている。大正年間の河川改修によって鴨川の中洲がなくなり、鴨川の流速が速くなった。それにより床几形式の納涼床が流されてしまう危険が出たため、市民から府へ陳情が起こり、大正6年(1917)にみそそぎ川が開削された。これにより鴨川の河川敷ではなく、みそそぎ川に脚を立てることで鴨川西岸の高床が納涼床となっている訳である。
 現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を越え、京都市職員厚生会職員会館のあたりで河川敷に姿を現す。そのまま二条橋の下を流れ、その流れの一部が高瀬川源流庭苑へ入り、高瀬川に注ぎ込んでいる。

 先の 川を訪ねる旅 の中にある高瀬川源流庭苑詳細を見ると、かなり速い流れであることが分かる。この庭の池は水を溜めておくためのものでなく、高瀬川に水を注ぐための流路であることを認識しないといけない。みそそぎ川が出来たのは山縣有朋の無鄰菴時代よりかなり後のことであったので、当時の流れが現在の状況と全く同じではなかっただろう。しかし当時も高瀬川の取水流路として庭が作られていたのであれば、鏡のような池面と言う訳にはいかない。

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高瀬川源流庭苑 庭の由来 がんこ二条苑は店子

 高瀬川源流庭苑は時間がなかったので今回は通り過ぎたが、こちらの庭はお店とは別に見学させてくるらしいので、次回はぜひ見学させて頂き、どうして山縣有朋が岡崎の無鄰菴へ移って行ったかを考えてみたい。

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高瀬川 一之舟入にある欄干 こちらは角倉氏邸址の碑

 二条苑を出て、再び木屋町通を少し南に下ると島津創業記念資料館の先に一之舟入と書かれた欄干がL字型に配置されている。近くには角倉氏邸址の碑が建っている。日文研に収蔵されている慶応4年(1868)に作られた古地図・大成京細見繪圖には、現在の島津創業記念資料館と日本銀行京都支店の敷地は角倉了以の長子である与一の屋敷として描かれている。

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高瀬川 大成京細見繪圖の一部分(日文研収蔵)

 さて先ほどのL字型に配された石の欄干。高瀬川に沿って南北に架けられた部分に対応する欄干が、高瀬川源流庭苑側の歩道にもある。つまり古地図の通り、かつて木屋町通にあった橋を再現するように作られたのであろう。

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高瀬川 一之船入の碑

 この橋の先には高瀬川一之船入の碑が建ち、高瀬川に米俵の載せられた高瀬舟が浮かぶ。この部分から西に向って水路が作られている。これが一番上流にあった舟入であり、現在は地名にもなっている。高瀬川には二条から四条の間に9カ所の舟入が作られ,荷物の積み下ろしと船の方向転換に使用されていた。光村推古書院から出版されている京都時代MAP 幕末・維新編には、6本の舟入が記されている。一之舟入の次は加賀藩邸の南、対馬藩邸と池田屋の間、彦根藩邸の北と南、そして古高俊太郎の枡屋の北にあったとしている。これを地図の上に落としておく。
 この記事を書いた後の2009年11月18日に、五之舟入から九之舟入までが建立(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009111900057&genre=K1&area=K1C : リンク先が無くなりました )されている。もともと最初から順番に造られたわけでなく、さらに同時期に一之舟入から九之舟入までが存在していた訳でもない。今回、5つの舟入の碑が新設されただけでなく、二之舟入三之舟入の碑も移設されている。フィールド・ミュージアム京都の「いしぶみデータベース」では、地図の方の表示はまだ更新されていないようだが、丁寧な説明が付けられている。
 今回の移設を伴う番号の振り直しは、二之舟入が使われなくなり閉鎖すると、その二之舟入の名称は三之舟入に移動するようなことが行われたと言うことなのだろうか?この素朴な疑問に対して同じフィールド・ミュージアム京都の高瀬川の説明では下記のように答えている。
     「なお一之舟入以外の舟入を「~之舟入」と助数詞を附けてよぶことは、江戸時代の古地図や地誌類には見られず、比較的新しい呼び名だと考えられます。」

 これを読むと、廃止、新設があっても昔の人が混乱しなかった訳が良く分かる。おそらくnakaさんが指摘しているように地名や使用者の名称に関連して呼ばれていたのだろう。それが、いつの時代か、残っていた舟入の伝承に従って上流側から順番に番号を降って行ったということだろう。この次訪れる時に再び確認することとする。
 都名所図会の後編として、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には当時の高瀬川の様子が描かれている。この絵の右側が南で、荷を乗せた舟は上流に向って引き上げられていたことが分かる。

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高瀬川 一之舟入 この日は絵を書いている人が多かった

「高瀬川源流庭苑」 の地図





高瀬川源流庭苑 のMarker List

No.名称緯度経度
 高瀬川源流庭苑 35.0125135.7709
  長州藩邸01 35.0116135.769
  長州藩邸02 35.0111135.7697
  長州藩邸03 35.0116135.7703
  長州藩邸04 35.0121135.7697
  加賀藩邸01 35.0111135.7697
  加賀藩邸02 35.0107135.7704
  加賀藩邸03 35.0104135.7697
  加賀藩邸04 35.0107135.769
  対馬藩邸01 35.0102135.7697
  対馬藩邸02 35.0099135.769
  対馬藩邸03 35.0096135.7697
  対馬藩邸04 35.0099135.7703
  彦根藩邸01 35.0077135.7693
  彦根藩邸02 35.0075135.7698
  彦根藩邸03 35.0077135.7702
  彦根藩邸04 35.008135.7697
  土佐藩邸01 35.0058135.7693
  土佐藩邸02 35.0055135.7698
  土佐藩邸03 35.0058135.7704
  土佐藩邸04 35.0061135.7698
  みそそぎ川01 35.0145135.7711
  みそそぎ川02 35.0128135.7712
  みそそぎ川03 35.0117135.7712
  みそそぎ川04 35.0099135.7713
  みそそぎ川05 35.0085135.7714
  みそそぎ川06 35.0068135.7714
  みそそぎ川07 35.0052135.7713
  みそそぎ川08 35.0042135.7712
  みそそぎ川09 35.0032135.771
  みそそぎ川10 35.0021135.7704
  みそそぎ川11 34.9987135.7688
  一之舟入 35.0122135.7704
  二之舟入 35.0113135.7704
  三之舟入 35.0103135.7704
  舟入4 35.0082135.7698
  舟入5 35.0072135.7699
  舟入6 35.0044135.77
01  みそそぎ川取水口 35.0256135.7712
02  長州藩邸 35.0117135.7695
03  加賀藩邸 35.0105135.7705
04  対馬藩邸 35.0099135.7696
05   彦根藩邸 35.0077135.7697
06  土佐藩邸 35.0058135.7699

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