無鄰菴
無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問
金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。
無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。
山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を立てようと考え、少年時代から槍の稽古に励んでいた。安政5年(1858年)京都での諜報活動を終え帰藩の後、松下村塾に入塾したとされている。松陰が獄につながれる数ヶ月間であったが、山縣は生涯松陰先生門下生と称し続けた。
文久3年(1863)高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加する。低い身分ではあったが、能力が認められ奇兵隊の中で頭角を示すようになった。慶応元年(1866)には四代目総管に就任し、幕府による長州征討で高杉晋作と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
維新後明治2年(1869)兵部大輔 大村益次郎が京三条木屋町で刺客に襲われ落命すると、新たな軍制の創設は山縣有朋に任されるようになった。徴兵令が明治6年(1873年)に制定され、明治維新の各藩兵の寄合いから国民皆兵へと向う。しかし、陸軍出入りの政商 山城屋和助に無担保融資した陸軍の公金を焦げ付かせた責任を取り、明治6年(1873)に陸軍大輔を辞任する。しかし軍政に代わる人材もなく、同年のうちに陸軍卿に返り咲き、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定などに関わった。
以後明治10年(1877)の西南戦争では政府軍の実質的な総指揮を執り、明治27年(1894)の日清戦争でも第1軍を率いて鴨緑江の渡河を成功させている。
山縣は自らを「一介の武弁」と称していたように、軍人として生きていくことを少なくとも前半生は是としてきた。しかし日清戦争を挟んで2回の内閣総理大臣に就任するなど後半生は政治的な側面が次第に強くなってくる。軍部や官僚に対する政治的影響力の維持のために形成してきた山縣閥などが、現在の山縣有朋に対する評価を決定付けてきたと思う。生前より国民、政治家、皇室などでの人気も薄く、その死後、ある意味忘れ去られた存在となっていった。しかし戦後になり「官僚・軍国主義の権化」「侵略主義者」「政党政治の否定」等、山縣が成してきたこと以上に多くの時代のネガティブなイメージが無理やり結び付けられてきたようにも感じられる。山縣の正当な評価は始まりつつあるが、社会的に認知されるまでは、まだまだ時間を要するだろう。
山縣は折にふれ和歌を詠み、漢詩、仕舞、書も好んだ。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。無鄰菴という山縣邸は三つ存在していた。
最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。
2番目は明治24年(1891)に購入した京都市木屋町二条の鴨川近くの第二無鄰菴であった。もとは慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られたもので、第二無鄰菴の後は、第三代日銀総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相の別邸などをへて、大岩邸としてがんこ高瀬川二条苑となっている。お店を利用しなくても自由に散策することができるそうですが、なかなか入り難い雰囲気を感じ、場所を確認するだけで済ませてしまったことがある。
そして山縣は3番目の無鄰菴の造営に明治27年(1894)から着手した。第二無鄰菴購入から3年後ということで、第二無鄰菴に満たされないものがあったのではないか?ただしこの年の7月に日清戦争が勃発したため、一時中断し、翌28年2月から本格的な造営を再開し、明治29年(1896)に完成した。
このあたり一帯は南禅寺の広大な境内に多くの塔頭が建ち並んでいたが、明治に入り廃仏毀釈と寺領の上知が命じられ、南禅寺も境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。南禅寺 聴松院の項で触れたように、湯豆腐で有名だった丹後屋が現在の無鄰菴の地から立ち退いたのにはこのような背景があった。また時期的には琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水の第一期工事が明治23年(1890)に竣工している。京都市は上知された土地を民間に払い下げ、琵琶湖疏水を池泉に引き込んだ大規模な別荘が建てられるように導いた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在であり、現在この地に見る邸宅の原型となった。
敷地は三角形の形状で、西側に木造2階建ての母屋、藪内流燕庵を模して造られた茶室そして煉瓦造2階建ての洋館が配置され、東の方向に向けて庭が広がっている。この無鄰菴は山縣自らが設計し、7代目小川治兵衛が作庭している。三角形の頂点である東端に琵琶湖疏水を利用した三段の滝を築き、母屋に向けて流れが始まり池に注ぐ構成となっている。母屋から庭を望むと南禅寺の後ろの東山の峰々から流れがつながっているように見える。敷地内は周囲の喧騒から切り取られ、庭の幅はそれほど広くはないが奥行きがあるため、東山と一体化した自然を強く感じさせる景観が作り出されている。
小川治兵衛の自然主義的な表現とともに、苔の替わりに芝生を使うことで明るく健康的なイメージを与える庭に仕上がっている。芝生の中に入っていくことが可能になったことで、限られた視点からの鑑賞の対象だった庭があらゆる方向から歩きながら見られるようになった。それがまた自然を模する表現へ傾斜することにつながったとも考えられる。関東に住み大名庭園を見慣れた目には別段変わった庭には思えないが、京の苔と白砂の庭の中では異色に見えてくる。このあたりが当時の人々にとっても新しい表現に思えたのではないだろうか。
無鄰菴は昭和16年(1941)に京都市に寄贈され、以後京都市の管理となっている。京都では新しい建物と庭園ではあるが、築後100年が過ぎ老朽化も進みつつある。住まいという形態でなく公共に開放された公園として維持していくことには困難が伴うが、特に洛翠の閉鎖のニュース(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009031400035&genre=K1&area=K00 : リンク先が無くなりました )を聞くにつけて、小川治兵衛の代表作として守り続けてほしい。
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