渉成園 その2
渉成園(しょうせいえん)その2 2008年05月18日訪問
渉成園 その1で紹介した他にも東本願寺が作成した「名勝 渉成園-枳殻邸-」の冊子には名物や景物が掲載されているのでそれらをさらに見ていく。
■高石垣
西門の正面に南北に続く石垣。石橋のような切石、礎石、石臼などが見られる表情豊かなアイストップとなっている。
■檜垣の燈篭
滴翠軒の東側に置かれた石燈籠。
■亀石井戸
代笠席の南東にある亀の形に石組みされた井戸。甲羅の部分が掘り込まれ中心に井筒が埋められている。
■獅子吼
印月池の水源として、北東岸の入り江の奥に作られた築山の下部に作られた注水口。古くは高瀬川の水が引かれていたが、現在は地下水を汲み上げている。
■蘆菴の春日燈篭
茶席・蘆菴の路地に置かれた六角形の笠を持つ石燈籠。
■源融ゆかりの塔
南大島の東側の島に建つ九重の石塔。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の東殿(東本願寺別館)では
旧此所は河原院の旧蹟にして、池辺の出島に九重塔あり、是則融大臣の古墳なり。
と記されているように、源融の供養塔と言われている。制作年代は鎌倉時代中期と推定され、渉成園築造以前からこのあたりに建っていたと考えられている。築庭にあたり宇治にある塔の島の景色を写したとも言われている。塔の基礎にあたる格狭間には蓮華の彫刻が見られ、その上部の塔身には四方仏が彫られている。最上部の笠は既に失われ、宝筺院塔の笠を代用としている。
■塩釜の手水鉢
縮遠亭の脇に置かれた手水鉢、一般に広まった「塩釜の手水鉢」の本歌とされている。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作と推定されている。
■碧玉の石幢
侵雪橋の脇に置かれた石幢。石幢は笠に蕨手と呼ばれる装飾がなく、幢身が多角柱で節がなく、幢身の上に仏像をあらわす龕部が作られている点に石燈籠との違いがある。碧玉は青い色をした貴石のことであるが、この石幢は青味を帯びていなく、どうして碧玉と名付けられたかは分かっていないようだ。
■塩釜
縮遠亭の北側に造られた横穴の奥にある井筒。縮遠亭で茶会が模様された時の水源として使われたようだが、現在は水が枯れている。その形状が塩を製造する塩釜とそれを覆う石組みを塩屋に見立てて名付けられている。
■臨池亭
滴翠軒とともにとともに池に面して建てられた明治17年(1884)再建の建物。池に面して幅一間の広縁が張り出ているため、浮殿のように見える。
■代笠席
庭園の北部に生垣を巡らせた煎茶席で明治22年(1888)に再建されている。この建物の東側には茶畑が設けられている。人里離れた地を訪れた旅人が笠代わりに雨宿りする席ということから名付けられている。
■園林堂
傍花閣の正面に建つ持仏堂。昭和32年(1957)に再建されている。園林とは中国宮廷に造られた大規模な庭園であるが、仏典では浄土を表わしている。
■蘆菴
閬風亭と園林堂の間に建てられた二階建の茶室。
■閬風亭
書院群の南端にある大広間。慶応元年(1865)頃に再建されている。東山の阿弥陀ヶ峰を借景とした庭を一望できるように造られている。賓客を迎えるための大書院として、中国の崑崙山脈の頂部にあり仙人が棲むといわれる山の名前が付けられている。明治13年(1880)には明治天皇のご休息所として使われている。
■大玄関
明治13年(1880)の明治天皇行幸の際に、東本願寺の境内に残る宮御殿とともに大宮御所から渉成園への移築が約束され、明治17年(1884)頃に移されている。閬風亭と比較しても巨大な玄関であり、正直なところ最初に見た時は場違いな印象を受けた。
この記事へのコメントはありません。