角屋 その2
角屋(すみや) その2 2008年05月18日訪問
角屋の2階部分は、各部屋毎に異なったテーマのもとに意匠を競う個性的な部屋となっている。これに対して1階には網代の間と松の間の2つの座敷以外は、揚屋を支える機能で満たされている。2階は撮影不可ではあるが、1階では写真撮影が許されている。
角屋の建物が国の重要文化財に指定されたのは揚屋建築の遺構であるためである。既に江戸時代後期には衰退しているようで、嘉永6年(1853)に喜田川守貞が著した「守貞謾稿」には、揚屋を下記のように紹介している。
揚屋 あげやと訓ず。京師島原大坂の新町は今も在之。江戸も昔は在之。
何れの年に廃す歟。今は揚屋無之唯揚屋町の坊名を存すのみ。
揚屋には娼妓を養わず、客至れば太夫を置屋より迎へ饗すを業とする也。
天神及び芸子幇間も客の需に応じて迎之也。唯鹿子位以下の遊女を迎えず。
守貞は天保8年(1837)から約30年もの間、風俗や事物を説明するために「守貞謾稿」を書き続け、全35巻、およそ1600点の図が付けられた類書である。
吉原を含めた江戸の遊郭には、既に揚屋が失われていること、揚屋では太夫や芸妓を抱えないこと、客が来たら太夫を置屋より迎えること、そして鹿子位以下の遊女を迎えないことが分かり興味深い。つまり鹿子位や端女郎は位が低い遊女として扱われていたため、揚屋に呼ばれることはなかった。そのように揚屋には格式が存在したのであろう。
さて揚屋では何が行われていたのか?先ず料亭であり、歌舞音曲の遊宴が行われる場であったが、和歌や俳譜などの文芸の席があり文化サロンでもあった。だからこそ、角屋には多くの調度品だけではなく、書画が残されている。国の重要文化財に指定されている与謝蕪村の「紅白梅図」は、角屋7世である徳屋が蕪村を師として招いていたことから角屋に遺されたとされている。
江戸時代の初期から中期にかけて、揚屋は間口が狭く奥行きのある小規模の建物であった。揚屋も京都に建てられた町家建築の一つであったためであろう。そのため、1階を台所および居住部分とし、2階を主たる座敷としている。茶屋は外部から仕出しとして食事を運びこむが、揚屋は料亭であるため食事を作らなければならず、そのための台所が重要な施設となる。この2階へ客を揚げることから揚屋と呼ぶようになったらしい。
しかし江戸中期の宝暦年間(1751~1763)頃より、京都や大坂の揚屋は隣接地を買い増すようになり、天明4年(1784)には揚屋のほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備え、大宴会を行えるような施設に変化して行く。角屋も2階に、緞子の間、翠簾口の間、そして扇の間と昔ながらの主たる座敷を維持しながら、1階にも網代の間と松の間を持つようになっている。これに対して江戸の吉原では宝暦7年(1757)を最後に揚屋が消滅している。
再び角屋の空間構成を見てみる。角屋の玄関は、南北に長く伸びる表棟の南から3分の1あたりに設けられている。現在、この玄関は閉ざされており、見学者は一番南端にある入口から中に入ることとなる。この玄関を入った客は、通りに面した表棟の1階を潜り、南北に細長い玄関路地に出る。ここで右に曲がり、路地の北側にある建物の入口へと入っていく。
この路地空間には丁字型に石畳と黒い玉石が敷かれ、2本の瘤のある槐の木が植えられている。中国では昔から槐を尊貴の木として尊重し、宮廷の庭に植えていたと聞く。宮廷に入っていくような格式を感じながら客は迎え入れられたのであろう。この槐以外にも台所に向かう中戸口の右側には井戸と訪問客を帳場から確認するための格子窓があり、左側には用水桶、そしてその手前には常夜燈籠が置かれている。
現在は閉められている玄関の内側には、蔓三つ蔦の家紋を染め上げた暖簾が掛けられている。この暖簾は台所に続く中戸口に掛けられているのが本来の姿である。それにより客は通りより、この暖簾の紋を見て、玄関の内側に入るように設えられている。先にも触れたように、古い造りの揚屋は2階に座敷を持ち、階下は台所などの付属施設が配置されていた。現在の角屋の構成もこのような古い様式を色濃く残している。格子に覆われた建物のファサードは1階に比べて2階の障子が大きくこと、主だった座敷のある階上は司馬江漢の日記に
燭台数十、昼の如く照らす。
とあるように、かなりの明るさであったと思われる。おそらく夜の角屋は、薄暗い階下の上に明るい2階部分が、まるで行灯のように載っているような光景が思い浮かぶ。その暗い1階部分の中に常夜燈籠の明かりが、まず玄関を認識させる。そして赤壁の建物の入口に架けられた暖簾が、常夜燈籠の灯と台所から漏れる明かりによって鮮やかな赤色に見え、客を向い入れる演出となったと思われる。
この玄関から入って右手の柱に大きな刀傷が残る。ご丁寧に「新選組の刀傷」という説明が付けられている。角屋には新選組が出した掛け売り禁止の古文書が残されている。つまり隊士の角屋への出入りを禁じる達しが出されていたようだ。この達しを知らないで来た隊士が、入ることを断られ怒って柱に切りかかった時の傷跡という説明である。
残念ながらかつて客を迎えた入口から建物に入ることは出来ない。この路地を右に曲がらずそのまま玄関から真直ぐに進み、角屋の巨大な台所に入っていく。先ず禅宗寺院の庫裏を思わせる空間に圧倒される。ここは大名屋敷でも寺院ではなく、民営の饗宴の場である。しかし大広間をいくつも持つ揚屋という料亭にとって、用意すべき食事は寺院と同じようなものであることをこの空間が物語っている。台所は天井が貼られず、大きな屋根を支える小屋組みや中央に明けられた天窓が見える。床は外部の通りとほぼ同じ高さで石畳が敷かれ、打ち水が施されている。
台所の中央には5つの竈口を持つ黄土色の竈が設けられ、その上には大きな炊飯釜や鍋が載せられている。竈に関しては、この他にも中戸口の近くに、白い竈が設けられている。この竈には炊飯釜が置かれてはいるが、三宝荒神を祀る飾り竈らしく、荒神松があげられている。
中央の竈の対面には調理場が作られ、壁には調味料や食材を置く棚が吊られている。この調理場の一番奥には釣瓶が見えることから井戸が作られていることが分る。井戸の上部の壁には窓が作られ、南側からの日が差し込むようになっている。表棟の2階にある座敷よりも、窓は少ないものの台所の方が明るく清潔に保たれている。この外光以外にもいくつかの照明が小屋組みから吊るされているが、飾り竈の近くにある四角い照明器具が目を引く。笠が障子紙でできているため光が四方八方に広がることから、このような照明器具は八方と呼ぶらしい。恐らく高さ調整が出来るようになっていると思われる。リビングの自在ペンダントと同じ考えだろう。この台所側から見ると八方の先の壁に注連飾が掛けられている。二本の注連縄が鬼の角のように見える面白い形の注連飾である。
台所の奥は天井が張られた畳敷きの間となっている。ここは台所で作られたものを配膳し、各座敷に運ぶために準備に使われたのだろうか。中戸口の近くには帳場が設けられている。ここからは格子窓越しに玄関が良く見える。この帳場の後ろには刀箪笥が置かれている。玄関を経て建物に入った客は壁に設けられた刀架けに刀を預けて座敷にあがっていく。客が座敷にいる間は、この刀架けから刀箪笥に移して保管さている。原則として建物内は刀を所持できない仕組みとなっているが、蒼貝の間にも刀傷が残されていることを見ると厳格に行われていたかは分からない。ともかく預かられた刀は、かなり慎重に取り扱われたことだろう。帳場の背後の壁には神棚が吊られ、その手前には箱階段が見える。
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