大徳寺 塔頭
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう) 2008年05月19日訪問
大徳寺には現在22の塔頭がある。茶の湯の楽しみ に掲載されている大徳寺 諸堂 塔頭を見ると大徳寺の塔頭の変遷の激しさがよく伝わってくる。この内で常時公開されている塔頭は、龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院で、黄梅院、真珠庵、聚光院、総見院、芳春院、興臨院、孤篷庵などは期日を限って特別公開される場合もある。
「大徳寺 諸堂 塔頭」で別山として扱われている寺院
■21 龍翔寺
瑞鳳山萬歳龍翔禅寺。南浦紹明(円通大応国師)の開山。南浦紹明は、大徳寺開山宗峰妙超の師にあたり、筑前国興徳寺、博多崇福寺、万寿寺そして建長寺の住持となっている。
後宇多天皇が円通大応国師の没後その徳を慕って、延慶2年(1309)西京安井の離宮(右京区太秦安井)を寄進し、大応国師を開山としたもの。またこの時、日本における禅僧に対する最初の国師号が贈られている。
拾遺都名所図会には龍翔寺旧趾が掲載されている。至徳3年(1386)足利義満が定めた五山十刹で京十刹中の第10位とされ、寺の広さも三町歩に及ぶ大寺院だった。ちなみに第9位は大徳寺である。しかし応仁の乱の後荒廃し、天文8年(1539)大徳寺の西隣に移建された。文化13年(1816)自火により焼失、翌年再建された客殿は現在三玄院の客殿として遺存、明治維新後廃絶したが、大正年間(1912~1926)天瑞寺跡地に再興され、現在は大徳寺派の修行専門道場になっている。山口玄洞好み五畳中柱 韜光庵や秀吉の母大政所や佐々成政の墓がある。
「大徳寺 諸堂 塔頭」で塔頭として扱われている寺院
■01 養徳院
開祖 56世實傳宗眞。明応年中(1492~1501)創建。はじめ足利義満の弟の満詮(謚号 養徳院)が亡き夫人 妙雲院善室慶のため、東山祇園の地に妙雲院という尼寺を開き、満詮の娘の竺英聖瑞を住持とする。竺英が大徳寺の40世春浦宗煕に帰依し、寛正5年(1464)幕府に妙雲院を僧寺・養徳院とすることを願い出る。応仁の乱で焼失後、實傳宗眞が明応元年(1492)に大徳寺内に移す。竺英は曇華院の住持でもあったため、曇華院の歴代は養徳院に葬られている。茶室 閑雲席がある。
■02 徳禅寺
霊山徳禅寺。開山 1世 徹翁義亨。梶井門跡尊胤法親王が、帰依していた徹翁義亨を開山として自らの宮地に建てた寺。大徳寺と別に開山したが、現在では山内最古の塔頭とされている。「龍宝山大徳禅寺世譜」に「伝言ふ、寺前に池を穿ち、池中に山を築く、山上に玲瓏閣竹影閣等ありて、舟を泛て往来す、今の松源、養徳の地、及び宝山門前東南いにしの霊山の封彊なり」とあり、広大な寺域を持つ大寺院であった。応仁の乱で焼失後、一休に帰依している泉州堺の貿易商 祖渓宗臨(尾和宗臨)が、大徳寺総門東南角の現在地に再興。昭和27年(1952)又隠を元にした四畳半台目床 向東庵、昭和35年(1960)今日庵 官休庵を元にした一畳台目中板向板丸炉壁床 骨清庵がある。また大燈国師、徹翁義亨の墨蹟や狩野探幽の障壁画を寺宝としている。
■03 真珠庵
開祖 47世 一休宗純。永享年間(1429~1441)建立。応仁の乱で焼失後、延徳3年(1491)一休に帰依している泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が一休を開山として再興。「応仁の火後宗臨一休和尚と心を同じうして、当山の伽藍及び諸院を重興して次第に落成す。宗臨等師に請て此庵を営んとす、師辞して云、先師の塔所悉く兵火す、これを造らば幸甚ならんのみ、於是先こゝにおいてづ如意大用等の祖塔を営す。功終つて後一休和尚薪村酬恩菴に寂す、宗臨乃前志しを続て当庵を新建して師の塔所とす、方丈の北にあり。」とある。
寛永15年(1638)京の豪商 後藤益勝の寄進により方丈が造営。方丈には長谷川等伯・曽我蛇足の襖絵。正親町天皇皇后化粧殿を移建した書院 通僊院に付属して金森宗和好み二畳台目 庭玉軒、村田珠光作の七五三の庭がある。方丈に一休の像を安置し、村田珠光の墓がある。
■04 大仙院
北派。開祖 76世 古嶽宗亘。永正6年(1509)六角近江守政頼が自分の息子 古嶽宗亘を開祖として創建したと言われている。方丈は永正10年(1513)に建立したもので国宝に指定されている。龍源院を本庵とする大徳寺南派に対して、本山の北境にあったため古嶽宗亘の弟子を北派という。そして大徳寺は北派の本庵とされている。子院はないが、泉州堺に三好氏の建てた南宗寺に古嶽宗亘の法嗣90世大林宗套が住し、大林宗套の法嗣107世笑嶺宗きん(言に斤)が聚光院を創建する。六畳半 生しょう(艹の下に召)室がある。
■05 芳春院
北派。開祖 147世玉室宗珀。慶長14年(1609)前田利家の夫人まつ(法号 芳春院華岩宗富)が春屋宗園と相談し大仙院と総見院の寺内を買上げて創建している。法号を寺号とし、春屋の法嗣 玉室宗珀を請じ、前田家の菩提寺とした。元和3年(1617)横井等怡と小堀遠州が飽雲池に打月橋を架け、呑湖閣を建立。この呑湖閣は、金閣、銀閣、飛雲閣とともに京都名四閣と数えられることもある。
寛政8年(1796)焼失するが、寛政10年(1798)前田家13代治修により再建されている。文化13年(1816)呑湖閣、書院など再建。芳春院の下に高林庵、大源庵が出、寮舎数宇があったが、これを芳春院派という。明治の廃仏毀釈で荒廃するが、明治8年(1875)旧金牛院閣を移築、書院などを新設して復興。堂宇を切縮め、貞岳庵、松月軒、閑田庵、龍泉庵、滴凍、太清などの諸庵を統合し、後に東隣の高林庵も統合した。 二畳二台目 落葉亭、七畳出床席 松月軒、四畳半下座床 如是庵がある。
芳春院は山内で最も北に位置しているため、石畳の参道は大仙院から細く長く続く。
■07 如意庵
開祖 7世言外宗忠。応安年間(1368~1375)方丈北に創建。応仁の乱で焼失。一休に帰依している泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が再興し、後奈良天皇の宸翰額字を賜っている。寛永年間(1624~1644)徳禅寺東南に移り、明暦2年(1656)龍翔寺東北に移り、享保年間(1716~1736)松源院西南に移る。昭和47年(1972)511世大龜宗雄が再興。大龜宗雄好み四畳半向 切玄庵がある。
■08 聚光院
北派。開祖107世笑嶺宗きん(言に斤)。永禄9年(1566)三好義継が、義継父 三好長慶(法号 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門)の菩提を弔うため創建し、長慶の法号を寺号としている。利休が笑嶺・古渓の両師に参禅し、天正17年(1589)亡父母や亡童、自ら夫婦の永代供養の寄進を行う。「聚光院文書」に「為聚光院へ寄進米、合七石取定納也永代進上如件。一、一忠了専十二月八日。一、月岑妙珍十月七日。一、利休宗易逆修。一、宗恩逆修。一、宗林童子八月一日。一、宗幻童子七月十七日。以上。一、但墓ニ石灯籠在之。利休宗恩石灯籠シユ名在之。天正十七年已丑正月日。利休(花押) 聚光院常住納所御中」との永代供養寄進状が残されており、三千家の菩提寺となっている。後に聚光院の下に総見院、三玄院、大光院の三院が出る。百積の庭は利休の作と伝えられる。利休150回忌の寛保元年(1741)に表千家7代如心斎が寄進した利休好みの三畳台目 閑隠席、表千家6代覚々斎好み四畳半 桝床席がある。 寺宝は狩野永徳筆の花鳥図16面と永徳の父・松永筆の瀟湘八景図などの襖絵。
■09 三玄院
北派。開祖 111世春屋宗園。天正17年(1589)石田三成、浅野幸長、森忠政(蘭丸の弟)が創建している。三玄院の下に龍光院、芳春院、見性庵が出る。明治維新の際、堂宇を取り除き現在地に移る。千宗旦が喝食として、春屋宗園のもとで禅の修業を行っている。喝食とは寺に預けられた有髪の稚児のことで、父・少庵が利休の後妻の連れ子だったことから、家督争いを避けるために仏門に入れられたとも言われている。宗旦は天正6年(1578)から、千家再興が叶えられる文禄3年(1594)まで大徳寺で過ごしている。
また春屋宗園を慕い、参禅するものも多く、小堀遠州、古田織部、長谷川等伯などの当時を代表する芸術家が三玄院で禅を学んでいる。石田三成、森忠政、古田織部、薮内紹智等の墓所。織部好み三畳台目八窓の篁庵、十畳 自得軒がある。
■10 興臨院
南派。開祖 86世小溪紹ふ(付の下に心)。大永年間(1521~1528)に能登守護の畠山義総(法号 興臨院伝翁徳胤)が創建し、自らの法号を寺号としている。以来、畠山家の菩提寺となる。後に焼失するが、天文年間(1532~1555)に再建される。天正5年(1577)畠山氏は滅びるが、天正9年(1581)能登領主となった前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となる。興臨院の下に瑞峯院、正受院、玉雲軒が出る。本堂・表門・唐門は大永年間(1521~1527)の建築で、禅宗様式を表わした建築として重要文化財に指定されている。また表門も興臨院の古門として創建当時の様式を伝えている。昭和3年(1928)築の織部好みの四畳台目隅板八窓洞床 涵虚亭がある。
■11 瑞峯院
南派。開祖 91世徹岫宗九。天文2年(1533)大友義鎮(法号 瑞峰院休庵宗麟)が興臨院の南に創建し、自らの法号を寺号とした。瑞峯院の下に黄梅院、大慈院の二院が出る。方丈は天文4年(1535)に建立された室町末期の建築で重要文化財に指定されている。
方丈南庭の独坐庭、十字架型の石組みが隠された閑眠庭そして中庭の茶庭は重森三玲の昭和36年(1961)の作品。ただし茶庭は、その後の改修によって現在は見ることができない。表千家8代そっ(口の右に卒)啄斎好みの席を写した餘慶庵、表千家12代惺斎好み逆勝手席 安勝軒、利休の待庵を平成になって復元した平成待庵がある。
■12 龍源院
南派。開祖 72世東溪宗牧。文亀2年(1502)能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。当初は霊山一枚軒と号したが、永正7年(1510)頃現寺号に改めた。明治の廃仏棄釈により大阪住吉神社内の慈恩寺と飛騨高山城主金森長近が大徳寺内に建立した金龍院を合併した。徳禅寺西の本山南境にあったため、東溪宗牧の弟子を南派といい、大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、大徳寺南派の本庵とされている。龍源院の下に龍福院、興臨院が出る。
龍源院の方丈と表門は創建当時のもので、室町時代の禅宗建築を表わした方丈は大徳寺内では最古の建物とされている。茶席 参雨軒がある。
■13 黄梅院
南派。開祖 98世春林宗俶。織田信長が入洛した永禄5年(1562)父・信秀の追善菩提のために、秀吉に命じ春林を開祖として創建した黄梅庵が始まりとされている。天正10年(1582)本能寺変の後、信長の塔所とされる。秀吉は、寺領が小さいとし総見院を建立し信長の菩提所とする。春林法嗣の112世玉仲宗琇が豊臣秀吉・小早川隆景らの帰依のもと、天正11年(1583)より建設を始め、天正14年(1586)に秀吉により本堂・唐門が、天正17年(1589)に鐘楼・客殿・庫裏などが小早川隆景により創建され、黄梅院と改められる。小早川隆景は毛利元就の三男であるため、後に黄梅院は毛利家の菩提寺となっている。
本堂・唐門・庫裏は創建時のもので重要文化財に指定されている。書院 自休軒の四畳半茶室 昨夢軒は永祿元年(1558)紹鴎作と伝える。利休66歳の作庭と伝える直中庭は苔一面の枯山水庭園で、瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮燈籠が据えられている。
■14 大慈院
南派。開祖 129世天淑宗眼。天正13年(1585)大友左衛門督義鎮の女 見性院、織田信長の女兄 安養院、村上周防守義明、山口左馬介弘定等が檀越となり創建。天保元年(1830)の地震で堂宇に被害を受けたが、弘化4年(1847)に古材をもって再建された。大慈院の下に準塔頭の碧玉庵が出る。現在、本堂前庭にある紫式部碑は、寛政7年(1795)に紫野御所田町の式部の墓の傍らに建立する予定だったが碧玉庵に建立されている。明治維新により碧玉庵が廃寺になった時、大慈院に移されたものと伝わる。その際、立花宗茂の位牌や墓、肖像画も引き継がれている。大正13年(1924)に表千家12代惺斎と裏千家13代円能斎の監修によって建てられた頓庵がある。
なお昭和38年(1963)より大慈院の南側には泉仙という精進料理専門店が出店しているため、大慈院の山門は開かれている。
■15 正受院
南派。開祖93世清菴宗胃。天文年間(1532~55)に創建。伊勢の関民部盛衡が檀越となり、のち蜂屋出羽守頼隆が造立、慶長年間(1596~1614)関長門守一政重修。堂宇は明治維新に焼失し、今の本堂は昭和に至って山口玄洞によって再建されている。室町時代末期の連歌師 里村紹巴の墓所や昭和3年(1928)造立の山口玄洞好み四畳半瑞応軒がある。
■16 総見院
北派。開祖 117世古渓宗陳、130世玉甫紹琮。天正11年(1583)に豊臣秀吉が織田信長(法号 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士)の一周忌の追善のために創建し、信長の法号を寺号とした。古渓宗陳を開祖に請じが天正16年(1588)秀吉の怒りにふれ九州に配流されると玉甫紹琮が継いだため、古渓・玉甫の両祖とする。信長の葬儀が行われた本堂内には、織田信長坐像が安置されている。また本堂の西側の墓所の最も億の場所には信長一族の墓石が残されている。右より、信好(十男)、信高(七男)、秀勝(四男)、信忠(嫡男)、信長、信雄(次男)、秀雄(次男嫡男)と並び、左奥に横を向いた位置に帰蝶(濃姫)と側室お鍋の方の墓石もある。
白毫院旧跡に建つ。明治維新後、一時修禅道場となっていたが、近時道場を他に移し、旧に復した。山口玄洞寄進の八畳 寿安席、表千家13代即中斎の好みの香雲軒、ほう(广に龍)庵がある。
■17 大光院
北派。開祖 117世古渓宗陳。文禄元年(1592)豊臣秀保が、養父 秀長(法号 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士)の菩提寺として、古渓宗陳を請じて大和郡山に創建している。秀長の法号を寺号とする。文禄3年(1594)秀保が没し子がなく断絶したため、慶長4年(1599)藤堂高虎が金龍院の南に移した。文政7年(1824)焼失し、文政13年(1830)藤堂家によって再建された。 昭和29年(1954)現在地である龍光院の南に移転している。 墓地には豊臣秀長の墓がある。茶席三石席がある。
■18 龍光院
北派。開祖 156世江月宗玩。慶長11年(1606)筑前福岡藩主黒田長政が父孝高(黒田官兵衛 如水、法号 龍光院殿如水圓清大居士)の菩提を弔うために玉林院の南に創建し、春屋宗園を請じたが春屋が遷化したため江月が祖となる。有栖川宮好仁が江月に帰依し、以来同家の菩提所となる。明治の廃仏毀釈で堂宇を切縮められる。龍光院の下に準塔頭の瑞源院、看松庵、寸松庵、孤篷庵、正宗、慈眼、小含の一院六庵が出た。これを龍光院派という。書院は国宝、慶安2年(1649)建立の本堂及び盤桓廊、兜門は重要文化財に指定されている。小堀遠州好み四畳半 密庵席がある。 寺宝として天目茶碗中随一とされている南宋の燿変天目茶碗を蔵する。
■19 玉林院
北派。開祖 142世月岑宗印。慶長8年(1603)後陽成天皇の侍医 曲直瀬正琳が自らの菩提所として創建し、開基の名を寺号とし正琳院と名付けられた。慶長14年(1609)焼失したが、徳川幕府官僚の片桐且元や茶人の桑山貞晴などの寄進により復興されている。この時、大阪城の残材を使用したと言われている。元和7年(1621)月岑自らが重建し、正琳院の琳の字を分けて玉林と名を改めている。玉林院の下に準塔頭の洞雲、常楽の二庵が出る。寛保2年(1741)鴻池家が、341世大龍宗丈に帰依して、その祖山中幸盛(山中鹿之助)の墓と共に牌堂として南明庵を建てている。表千家7代如心斉好み南明庵に三畳中板台目 切蓑庵、四畳半 霞床席がある。
■20 高桐院
北派。開祖 130世玉甫紹琮。慶長6年(1601)細川忠興(三斎)が、父の藤考(幽斎)の菩提所として創建し、忠興の舎弟玉甫を請じている。書院 意北軒は利休の邸宅を移築したもので書院につづく二畳台目 松向軒は北野大茶会の折に三斎が建てたものを移したと伝える。客殿の西の庭に建っている石燈籠が忠興とガラシャ夫人の墓塔。もとは利休秘蔵の燈籠であったが、豊臣秀吉と忠興のふたりから請われたため、利休は裏面三分の一を欠いて疵物と称して秀吉の請を退けている。後に利休切腹の際、忠興に遺贈されたもので、忠興の遺命により遺歯を埋めその上に立てたと伝える。墓塔銘を無双といい別名欠燈籠という。高桐院の下に準塔頭の清源、泰勝、東林、養華、祥林の五庵が出る。
大徳寺の山内にない塔頭
■ 松源院
開祖 40世春浦宗熈。文明14年(1482)徳善南西隅に創建。永禄12年(1569)大用庵、松源院を一院とする。如意庵、大用庵、松源院を一院とする。松源院の下に龍泉庵、養徳院が出る。昭和55年(1980)如意庵住職の大龜宗雄が廃絶していた松源院を奈良県大宇陀に再興している。
既に統合あるいは廃絶した塔頭
■ 大用庵
開祖 22世華叟宗曇、26世養叟宗頤。応仁の乱で焼失した後、一休に帰依していた泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が再興している。古くは旧方丈の北にあり寛永年間(1624~1644)に松源院の門内に移している。
■ 天瑞寺
南派。金鳳山天瑞寺。開祖 112世玉仲宗琇。天正16年(1588)豊臣秀吉が母・大政所の病気平癒を祈願して、総見院の西に創建している。霊験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1595)石造りの寿塔を建て、これを覆堂内に納めている。この覆堂は、瑞光院、黄梅院を経て、明治35年(1902)三渓園に移築され現存している。また寿塔の方は龍翔寺に残されている。天瑞寺の下に金龍院が出たが、明治7年(1874)廃寺となっている。
■ 金龍院
南派。開祖 150世傳叟紹印。慶長年間(1596~1615)飛騨高山城主金森長近が織田信長の追福のため137世松嶽紹長を請じて天瑞寺の西に創建する。元和3年(1617)金森長近の未亡人久昌院が改めて傳叟を住持としている。以降、金森氏歴代の墓所となる。明治の初期に廃寺となり龍源院に統合されている。紫野高校脇に
金龍院趾の石標が建つ。
■ 昌林院
南派。開祖 124世先甫宗賢。永祿年間(1558~1570)から元龜年間(1570~1573)に103世和溪宗順が霜いん(竹の下に均)軒を創建し、文禄年間(1593~1596)蒲生氏郷の長男秀行が氏郷(法号 昌林院殿高岩宗忠大居士)の菩提寺として改めて造立し、和溪の法嗣 先甫宗賢を祖とする。大雄殿の西にあり。天保年間(1830~1844)に倒壊する。廃寺となり、黄梅院に統合される。
「大徳寺 諸堂 塔頭」で準塔頭として扱われている寺院
■06 龍泉庵
開祖 70世陽峯宗韶。明応年間(1492~1501)多賀豊後守高忠等が檀越となり建立。元和年間(1615~1624)162世日新宗益が再興している。龍泉庵の下に太清、雑華、清心、雲林の四庵が出ている。子院は少ないが小田原早雲寺、江戸下谷広徳寺、赤坂種徳寺、播州法性寺、豊前大隆寺などを隷下に置く龍泉庵派の本山。関東に勢力をのばしたので関東派とも呼ばれる。明治の排仏棄釈で明治9年(1876)芳春院に統合、昭和33年(1958)アメリカ人ルース婦人(紹溪尼)によって再興される。
■22 孤篷庵
北派。開祖 184世江雲宗龍。慶長17年(1612)小堀遠州が龍光院門内に自らの菩提寺とし創建する。狭隘であったため、156世江月宗玩を開祖とし、寛永20年(1643)本山西南瑞源院隣に移している。江月宗玩は遠州の子 江雲宗龍を付した。その後、寛政5年(1793)焼失するが、出雲松江藩主 松平治郷(不昧)が旧観を尊重しつつ茶室風な趣を加味し寛政9年(1797年)再興している。方丈は雲林院客殿を移したもの。書院直入軒は寛政11年(1799)の棟札がある。九畳と三畳の相伴席の十二畳忘筌、龍光院の茶席密庵写しと伝える四畳半台目山雲床がある。忘筌は荘子外物篇に言う筌蹄から来ている。魚を捕る筌と兎を捕る蹄は、目的が達成されると不要になり忘れ去られることを喩えている。
石標が残されている準塔頭
■ 梅巌庵
北派。開祖 169世天祐紹杲。寛永20年(1643)友松宗祐が父梅巌紹薫のために寸松庵の西に創建している。梅巌庵の下に西江、心華の二庵が出、清泉寺が隷している。これを見性庵派と言うが廃寺となっている。狐蓬庵附近に
寸松庵・梅巌庵趾の石標がある。
■ 寸松庵
北派。開祖 195世翠巌宗珉。元和7年(1621)佐久間将監真勝が龍光院の南隅に創建し、法号を庵名とする。156世江月宗玩を開祖に請じ、江月が翠巌宗珉を付している。寛永19年(1642)本山の西北、碧玉庵の隣に移そうとしたが、真勝が亡くなり、遺命を継いで正保2年(1645)に移す。天保5年(1834)焼失し、後に一宇を再興している。狐蓬庵附近に寸松庵・梅巌庵趾の石標がある。
■ 瑞源院
北派。開祖 176世安室宗閑。福山城主水野勝成が父忠重のために大光院の西に創建し、忠重の法号を寺号とし、156世江月宗玩に請い、江月が安室宗閑を付け塔頭としている。元禄11年(1688~1703)水野氏が断絶し、塔頭を辞す。明治の廃仏棄釈で廃寺となる。紫野高校北門横に
瑞源院趾の石標がある。
除夜の鐘 園児らがすす払い 福山・賢忠寺
この一年間にたまった汚れを落とし、参拝者に気持ちよく新年を迎えてもらおう―。広島県福山市寺町のかなりや幼稚園の年長組園児209人が17日、同市蔵王町の賢忠寺奥之院で、大みそかに除夜の鐘を鳴らす鐘楼のすす払いを行った。