文書と写真・地図による「記憶」の再現

有智子内親王墓

嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか) 2008年12月21日訪問

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有智子内親王墓

 野宮神社を後にして、再び嵯峨野の竹林の中に戻る。JR山陰本線の踏切の手前には、小倉百人一首文芸苑の野宮神社地区の細長い敷地がある。踏切を渡りそのまま北に進むと、京都府道29号宇多野嵐山山田線と常寂光寺を結ぶ道に合流する。この辺りから観光客の数が増えてくる。
 さらに木立や生垣の続く道を北西方向に進むと、大きな畑が現れ景色が一変する。小倉山を背にして広がる田園風景は、嵯峨野を代表する景色でもある。畑の奥には有智子内親王墓の木々と落柿舎がある。落柿舎は解体工事中なのか素屋根が架けられている。

 有智子内親王は嵯峨天皇の第8皇女として大同2年(807)に生まれている。弘仁元年(810)に4歳で初代の賀茂斎院に卜定されている。この弘仁元年に平城上皇と嵯峨天皇とが対立する薬子の変が起きている。

 延暦25年(806)桓武天皇が崩御し、皇太子であった安殿親王が即位し平城天皇となった。平城天皇は自らが病弱で子供達も幼かったため、弟の神野親王すなわち後の嵯峨天皇を皇太弟とした。早くも大同4年(809)平城天皇は発病している。病を早良親王や伊予親王の亡霊によるものと考えた天皇は禍を避けるために神野親王に譲位を決意する。天皇の寵愛を受けていた尚侍藤原薬子とその兄の藤原仲成は譲位に強く反対した。しかし平城天皇の意志は強く、同年に自らの子高岳親王を皇太子とし、嵯峨天皇を即位させ、旧都平城京へ移る。
 弘仁元年(810)嵯峨天皇は平城天皇が制定した官職を改めたことで平城上皇との関係が悪化する。さらに上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。そして9月6日平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出したことに、二所朝廷の衝突は避けられなくなった。9月10日、嵯峨天皇は坂上田村麻呂、藤原冬嗣らを使節として発し、伊勢、近江、美濃の国府と故関を固めさせる。藤原仲成は捕らえられ射殺される。平城上皇は東国に赴き挙兵を決断をするが、それも嵯峨天皇の軍事的な措置により勝機がないことを悟る。9月12日平城上皇は平城京に戻り出家し、薬子は毒をあおり自殺する。

 嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性として捧げると祈願した。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇が勝利した後、誓いどおりに有智子内親王が斎王に選ばれている。
 古い歴史を持った伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院も内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた斎院御所に参入する。賀茂斎院は伊勢斎宮と比べ内親王の比率が高く、重んじられていたとも見られている。また天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。なお退下の後も生涯独身で終えた例が多いが、天皇や貴族と結婚した斎院も少数ながら存在している。
また有智子内親王が当時としては珍しい女流漢詩人であったように、平安時代中期になると、斎院は宮中文化の中心として、歌人や貴族たちが出入りする風雅な社交場の一つとなった。枕草子や紫式部日記には大斎院選子内親王が登場しているし、数多い歌合を主催した六条斎院禖子内親王や新古今和歌集を代表する歌人として式子内親王なども現れている。この点も斎院が地理的な要因から斎宮と異なった点でもあると思う。

 有智子内親王は同14年(823)2月三品に叙され封100戸を賜る。そして同年4月には嵯峨天皇が退位している。天長8年(832)病により退下している。同10年(833)二品に昇叙している。そして承和14年(847)41歳で死去し、嵯峨野に葬られている。

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有智子内親王墓 嵯峨野の風景に溶け込んでいる

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