小倉百人一首文芸苑
小倉百人一首文芸苑(おぐらひゃくにんいっしゅぶんげいえん) 2008年12月21日訪問
小督塚の前を北に進み、突き当りを右に曲がると、京都府道29号宇多野嵐山山田線に出る。右手に京福電鉄嵐山線の嵐山駅、左手に天龍寺が現れる。そのままさらに北に向かい、釈迦堂・清瀧方面と三宅安兵衛遺志の天龍寺・嵐山の道標の建つ角で西に曲がる。嵯峨野の竹林が始まる右手前に小倉百人一首の歌碑を並べた小倉百人一首文芸苑のひとつがある。
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将である宇都宮頼綱が嵯峨野に建築した別荘・小倉山荘の襖を飾るために、色紙の製作を藤原定家に依頼している。依頼を受けた定家は、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型となっている。
古今和歌集や新古今和歌集などの天皇や上皇の命により編集された勅撰和歌集の他に、古今和歌六帖や夫木和歌抄の私撰和歌集も作られてきた。小倉百人一首は私撰和歌集であり、この後多くの○○百人一首と呼ばれるものが作られている。定家の著した明月記の文暦2年(1235)5月27日の項に、宇都宮頼綱の求めに応じて和歌百首を書写したところ、小倉山荘の障子に貼られたとあるのでこの頃に作られたものと考えられている。ちなみに5月27日は百人一首の日となっている。
定家は100首目に順徳院の次の歌を選んでいる。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり
順徳院は定家に師事していた。承久3年(1221)懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、父である後鳥羽上皇とともに承久の乱を引き起こしている。5月14日に城南離宮に流鏑馬揃えを口実に兵を集め挙兵に至ったが、これは現在の城南宮とされている。この倒幕活動は失敗に終わり、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されている。討幕計画に反対していた土御門上皇も土佐国へ配流され、仲恭天皇も廃された。順徳院は仁治3年(1242)佐渡で崩御している。
貞永元年(1232)藤原定家は、後堀河天皇の下命を受け新勅撰和歌集を撰している。後堀河天皇の死後も続き、四条天皇代の文暦2年(1235)に完成している。定家は幕府への配慮から、この勅撰歌集には後鳥羽院と順徳院を外している。しかし同じ時期に、宇都宮頼綱の求めによって編まれた小倉百人一首には順徳院の御製を最後に選んでいる。
小倉百人一首文芸苑は、嵐山東公園、亀山公園、野宮神社、建石町広場、長神の杜の5箇所にあり、それぞれには百人一首の歌碑が設置されている。
財団法人 小倉百人一首文化財団は、京都商工会議所120周年記念事業の一環として、平成15年11月に設立され、小倉百人一首を通じて、文化・芸術・産業など各分野の更なる発展や観光の振興に貢献することを目的としている。時雨殿の運営を始めとし、小倉百人一首の歌碑建立や芸術文化事業の開催などを行ってきた。小倉百人一首文芸苑に全ての歌碑が寄付によって整ったのは平成20年頃のことだったようだ。
全国各地から採集された自然石が石材として使用されているため、歌碑としては読み難いのもある。
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