伏水街道の橋 その2
伏水街道の橋(ふしみかいどうのはし)その2 2008年12月22日訪問
東大路通に面する万寿寺の山門前から側道を下り、再び伏見街道の本町通に戻る。鴨川を越えて九条通と東大路通を結ぶ陸橋の下にはかつて伏水街道に架けられていた二ノ橋の親柱が残されている。 この伏水街道の橋については、既に伏水街道の橋の項で書いている。前回の訪問の時にはJR奈良線の東福寺駅の北にある一ノ橋の跡を見ていなかったので、今回はその場所の確認と一ノ橋の親柱が保存されている京都市立一橋小学校のグランドを再度訪問する。
伏水街道の橋とは、東山から流れ出でる小川が伏見街道を越えて鴨川に合流する場所にある架けられた橋である。いつの時代からか四つの橋を、北側から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋そして四ノ橋とよばれるようになった。
Tenkeiさんの公式HP 河の行方 に掲載した 伏見街道の四河川 で、既に暗渠になってしまった2本の川と三ノ橋川の流路を記している。現存する三ノ橋と四ノ橋の位置は分かるとしても、既に元の場所に存在しない一ノ橋と二ノ橋の場所を特定する上で、この流路調査は非常に参考になる。
一ノ橋はJRと京阪電鉄の東福寺駅より200mほど北、現在の本町11丁目にある清涼山寶寿寺の北側に架けられていた。この地に建つ京都市の駒札によると、川沿いの地にあった堂宇は橋詰堂とも呼ばれていたようだ。
宝永3年(1706)聖空によって中興され、寺名を寶樹寺と改めている。本堂には本尊の阿弥陀如来立像及び薬師如来座像を安置している。この薬師如来座像は、俗に子そだて常盤薬師と呼ばれ、常盤御前が今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願した像と伝えられている。境内には、常盤御前雪除けの松と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたと伝えられている。常盤御前についての記述は、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも常盤宅地として残っている。
泉涌寺落橋の北、半町許にあり。義朝亡びて後常盤御前漂泊しける時、遂に其美艶を賞して平相国入道が妾となれり、かの六波羅の館近がゆへに此所に住しめ置しならん、其地今薮となす
この寶寿寺の北側には、伏水街道一之橋旧趾の碑が建てられている。フィールドミュージアム京都の説明から、一ノ橋川は今熊野川という名称であったこと、明治2年(1869)本町11丁目と改称されるまでは一之橋町という地名であったこと、この地が愛宕郡と紀伊郡との境界とされていたことが分かる。京都北山アーカイブスの旧一号書庫写真資料の中に、この