文書と写真・地図による「記憶」の再現

清凉寺

浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) 2008年12月21日訪問

画像
清凉寺 境内 左側から鐘楼 薬師寺本堂 清涼寺本堂の屋根が見える

 名古曽滝跡から大沢池の東岸を廻り、大覚寺の茶室・望雲亭の前を通り再び入口に戻る。かなり足早に多宝塔や石仏群から名古曽滝跡そして大沢池を見てきたが、それでも40分くらいの時間を要している。丁寧に見ていくと、ここだけでも1時間程度は必要である。大覚寺の長い参道を南に下り、総門跡で一条通に出る。この道を西に10分くらい歩くと、清凉寺の山門前に到着する。一条通は清凉寺の境内の西端で宝筐院に突き当り終点を迎える。

画像
清凉寺 仁王門
画像
清凉寺 境内図

 この地には、左大臣源融の別荘・栖霞観があった。源融は、弘仁13年(822)嵯峨天皇の第12皇子として生まれている。貞観14年(872)に左大臣にまで昇ったが、貞観18年(876)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられ、日本三代実録によると融は上表を出して自宅に引籠もったとされている。光孝天皇即位後の元慶8年(884)政務に復帰している。
源融は政治の世界での活躍よりは、嵯峨源氏融流の初代にして、源氏物語の主人公・光源氏の実在モデルの一人といわれることの方が相応しいかもしれない。また、陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院を造営している。南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町あるいは8町にも及ぶと考えられている広大な敷地では、難波の海の北の汐を汲んで運ばせて塩を焼いたとされている。源融の死後、六条河原院は子の昇が相続し、昇は宇多上皇に献上して仙洞御所となっている。そして江戸時代に入り、石川丈山によって六条河原院の一部に渉成園が作庭されている。 源融は寛平7年(895)73歳で亡くなり、正一位を追贈されている。融の一周忌に当たる翌寛平8年(896年)生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号している。その50年後の天慶8年(945)醍醐天皇の第4皇子にあたる重明親王が、新堂を建て等身大の釈迦像を安置している。これが現在も清涼寺を釈迦堂と呼ぶ起こりとも考えられている。天慶8年(945)は、最初の妃である太政大臣藤原忠平の娘寛子が死去した年でもあり、その追悼のために堂を建立している。

画像
清凉寺 多宝塔
画像
清凉寺 開山奝然の墓

 棲霞寺草創から数十年経た頃、東大寺出身の僧・奝然が宋に渡り五台山を巡礼している。寛和元年(985)台州の開元寺で現地の仏師に命じ、一体の釈迦如来像を模刻させている。この釈迦如来像は古代インドの優填王が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像であった。奝然は模刻した釈迦如来像の胎内に由来記などを納め、寛和2年(986)に帰国している。
 奝然は京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来像を安置する寺を建立しようとした。南都系の旧仏教の都における中心地を都の西北の嵯峨の地に定めることは、やはり東北に位置する比叡山延暦寺への対抗でもあったのだろう。奝然は寛和3年(987)に釈迦如来像を京都上品蓮台寺に安置し、永祚元年(989)から3年間東大寺別当を務めている。そして嵯峨の地に新たな寺院建立が果たせない内、長和5年(1016)に奝然は没している。弟子の盛算は、師の遺志を継ぎ、棲霞寺の境内に五台山清凉寺を建立している。ところでこの盛算は、真言宗の神護寺別当から東寺阿闍梨を経て、一条天皇の中宮彰子の護持僧を務め、長和4年(1015)に没した盛算とは別の人物であろう。

画像
清凉寺 嵯峨天皇と檀林皇后宝塔 奥に狂言堂が見える

 Wikipediaでは清涼寺の創建を寛和3年(987)としている。これは奝然が宋から帰国し新たな寺院の建立を思い立った時期であり、開山は弟子の盛算であるが開基は師の奝然としている。また清涼寺の拝観の栞には、本尊である釈迦如来像と諸堂の説明はあるものの創建の歴史は記述されていない。そのため源融の棲霞寺と奝然の清涼寺の関係については、この栞から知ることが出来ない。 奝然の望んだ釈迦如来像を安置するために計画された五台山清涼寺は、棲霞寺内に釈迦堂を建立することとで一応は果たされる。その後、源融の子孫によって建立された阿弥陀三尊像よりも奝然の釈迦如来像の信仰が広まる。当初借家住まいであった釈迦堂が、家主の棲霞寺を遥かに凌駕して寺域を独占する形となったと見るべきであろう。阿弥陀三尊像も本尊の釈迦如来像と同様に国宝に指定されているにも関わらず、棲霞寺は清凉寺内の阿弥陀堂に跡を留めるのみとなっている。

画像
清凉寺 源融の墓
画像
清凉寺 源融の宝篋印塔

 保元元年(1156)24歳の法然房源空は、清涼寺釈迦堂で7日7夜の参籠を行っている。浄土宗の公式HPに掲載された法然上人の略歴によると、比叡山西塔黒谷を出て西山広谷に移り、東山大谷に住することとなる承安5年(1175)より、かなり以前のことが分かる。 鎌倉時代に入ると、清涼寺は幾度か焼失している。その都度再建されている。また弘安2年(1279)大念仏中興上人とよばれる円覚が、清涼寺で融通念仏を勤修している。壬生寺で行われる大念仏狂言が清涼寺で初めて執行されたのは嘉吉3年(1443)のこととされている。応仁の乱で伽藍は焼失するが文明13年(1481)に再興されている。
 享禄3年(1530)円誉が清涼寺に入寺し、十二時の念仏を勤修している。このことによって現在の浄土宗に改宗されている。本堂である釈迦堂は豊臣秀頼によって慶長7年(1602)造営されている。その後、嵯峨の大火が類焼し本堂を始めとした伽藍は被災、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となった。元禄13年(1700)より本尊の出開帳が始まる。そして徳川綱吉の生母である桂昌院の発願で、伽藍の復興が行われた。

画像
清凉寺 聖徳太子殿

 奝然が宋より持ち帰った釈迦如来像は国宝に指定され、長野善光寺の阿弥陀如来、京都因幡堂の薬師如来(あるいは真如堂の阿弥陀如来)とともに日本三如来の一つとして数えられている。像高約160cmで、縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の仏像と異なる様式を示している。

画像
清凉寺 方丈庭園

 釈迦の聖母である摩耶夫人は釈迦の誕生後7日で亡くなり忉利天に転生したといわれている。忉利天は六欲天の第2の天部であり、未だ欲望に捉われる6つの天界のうちの一つ。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある帝釈天のいる場所とされている。後に、釈迦は摩耶夫人に法を説くために忉利天に登られる。優填王や弟子達は釈迦を失い嘆き悲しみ、優填王は毘首竭摩に命じて、栴檀の香木で釈迦生身の尊像を造らせた。そして90日後、釈迦が戻って来られ、この像をご覧になり、「私が亡き後は、この像が私に代わって衆生を済度するであろう」と言って、お喜びになったとされている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の清涼寺の項に下記のように記されている。
     如来の御母摩耶夫人 に釈尊を誕生ましまして、後七日に薨じ給ひ、とう利天に生れ給ふ、釈尊成道し給ひて、祇園精舎よりかの天に登り、御母の為に説法し給ふ事一夏九旬の間なり。此時四衆の輩釈尊を見奉らず、憂愁する事甚し。然るに優填王つねに渇仰ありければ、尊体をうつし奉らんとて、宝蔵の香木赤栴檀をえらびて、天匠毘首羯磨にあたへり。目蓮尊者は神通を以て仏の円相をうつしあたへ給へば、尊容速に成就して祇園精舎に安置せり。釈尊安居の御法をはりて本土に帰り給ふ。其時木像水精の御階をあゆみて、生身の仏を迎ひ給ふ。釈尊木像に宣われ、涅槃遠きにあらず、来生の衆生を化度あるべしと、共にあゆみて祇園精舎に入給ふ。

画像
清凉寺 方丈庭園の唐門

 奝然はそのような伝説の残る霊像を魏氏桜桃という日本にはない材で、宋に滞在中の寛和元年(985)台州開元寺で作らせた。刻銘、納入品等の記載から、張延皎および張延襲という像の作者の名も分かっている。このように釈迦を写して造られた像であるため、生身の釈迦如来像と呼ばれてきた。さらにその模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起が残っていることから、インド、中国そして日本に伝来した「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。
 この清涼寺の釈迦像の模刻像は奈良の西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られている。この模刻像(優填王の釈迦如来像を奝然が模刻させたという意味)の模刻は清凉寺式釈迦像と呼ばれている。昭和28年(1963)この像の胎内からは、中国尼僧によって施入された五臓六腑とともに、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの納入品が発見された。これらも像とともに国宝に指定されている。五臓六腑は千年前の人々の知っていた人体構造という意味でも医学史の貴重な資料でもある。
 またレントゲン検査によって額に銀製の一仏が嵌められ、目には黒水晶、耳には水晶が入れてあることが分かった。この像の霊魂として水月観音の彫られた鏡も納入されていることが確認されている。

画像
清凉寺 方丈庭園

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿