文書と写真・地図による「記憶」の再現

朝彦親王墓 その2

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その2 2008年12月22日訪問

画像
朝彦親王墓

 朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。朝彦親王も同様だが、父の邦家親王は17王子、15王女と現在では考えられないほど子宝に恵まれている。第1王子・山階宮晃親王(文化13年(1816)生まれ)、第2王子・聖護院宮嘉言親王(文政4年(1821)生まれ)、第3王子・曼殊院宮譲仁親王という兄達の母が藤木壽子であるのに対して、朝彦親王の母は青蓮院坊官・鳥居小路経親の長女信子である。坊官とは門跡寺院の家臣のなかで最上位の者であるため、卑賤の子と言うわけではない。伏見宮家は妃鷹司景子が生んだ第6王子の貞教親王(天保7年(1836))が第21代を継ぐも、若くして死去したため、同母弟の貞愛親王(安政5年(1858)生まれ)が第22代となっている。後に名前の多く替わる朝彦親王も、幼少期は富宮や熊千代君と呼ばれていた。

 徳富蘇峰が昭和4年(1929)に著わした「維新回天史の一面 -久邇宮朝彦親王を中心としての考察-」には、伏見宮に参殿した日蓮宗本能寺の日慈上人が朝彦親王の非凡さに感心し、邦家親王に懇請して弟子としたと記している。親王は幼いころから才気に溢れていたものの、寺での修行生活に向いていなかったようで、本能寺でも手に負えない程のやんちゃな子だったようだ。
 天保7年(1836)奈良の一乗院の門跡尊常法親王の弟子となる。邦家親王の弟でまだ19歳だった尊常法親王が重病となったので後継者含みで迎えられている。朝彦親王は一乗院主に補せられるに先立って仁孝天皇の養子となっている。このことは、その後の朝彦親王にとって大きな影響を与えるものとなっていく。もともと摂関家出身でない朝彦親王のような皇族は、天皇の養子となってから門跡を継ぐのが慣例であった。だから朝彦親王も、この慣例に従い仁孝天皇の養子となっている。しかし幕末の動乱の中で、朝彦親王が力を得ていく姿を見て、人々は「先帝の御養子」と特別視するようになっていく。

 この時期の親王にとって特筆すべきことは、幕臣の川路聖謨に出会っていることであろう。聖謨は幕末きっての名官吏であった。嘉永6年(1853)阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、ペリー艦隊来航に際しては既に開国を唱える開明性を持ち合わせていた。同年、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、安政元年(1854)下田で日露和親条約に調印している。
 しかし安政5年(1858)堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが、孝明天皇の強硬な反対に合い、承認を得ずに江戸に戻っている。この京での不首尾と一橋派と目された聖謨は、大老に就任した井伊直弼により西丸留守居役に左遷されている。更に翌安政6年(1859)には西丸留守居役も罷免されて隠居差控を命じられる。所謂、安政の大獄の幕府内で行われた粛清に巻き込まれたこととなる。しかし対外交渉に長けていたため、桜田門外の変の後の文久3年(1863)勘定奉行格外国奉行に復帰する。名ばかりの外国奉行に嫌気を感じ、病を理由に僅か4ヶ月で役を辞している。

 川路聖謨は朝彦親王との出会いや親王の印象を自らの日記「寧府紀事」に次のように残している。

     格別の美僧と申奉るにはあらねど、よき御容貌にて御英明殊にすぐれさせ給ひ唯々恐入たる事而巳なりき。(略)なかなか雲上にのみおはします御かたとはみえず、驚入たること也。

 聖謨は親王に好印象を得たと同時に、その聡明さを見出している。浅見雅雄氏による「闘う皇族 ある宮家の三代」(角川選書 2005年刊)には親王が、南朝の後醍醐天皇の血筋を引いているように聖謨に話したとしている。伏見宮家は北朝第3代崇光天皇の第1皇子・.栄仁親王を祖としているため、朝彦親王の発言は多分に心情的なものであろう。つまり徳川幕府に押し込められた朝廷の姿を南北朝時代に置き換え、武家勢力と果敢に戦った後醍醐天皇に自分の姿を重ね合わそうとしたのである。しかし現実には、京都を離れた一乗院で闘うことすらできない状況は、自意識が高く決して現状に満足しない親王にとって自己嫌悪する日々であっただろう。恐らく聖謨の見た豪放で気儘な生活をしている親王は一面でしかなく、本質は自らの才を発揮できない幽閉のような生活の中で鬱々とした時間を過ごしていたと思う。

 その親王が京に戻ることができたのが嘉永5年(1852)1月19日のことであった。青蓮院に移るようにという内勅が大納言三条実萬より伝えられている。そして3月12日に青蓮院門主尊融という名前を賜り、 入道二品尊融親王となる。4月始めに門主として初めて参内を果たし、同年11月14日に宮中の護持僧に、12月14日には天台座主に就任している。特に天皇などのために加持祈祷をする護持僧になったことにより参内する機会が増え、次第に孝明天皇の信頼を得ていった。寛政元年(1789)生まれで、文政6年(1823)の就任以来30年以上にわたって関白を務めてきた鷹司政通の影響力から、若い孝明天皇が解き放たれるのはもう少し先の事である。この時、朝彦親王は23歳、天皇にとっては7歳年上の頼りになる相談相手になって行ったのであろう。

 このように孝明天皇との結びつきが強くなるにつれて、世の人々の親王を見る目は変わっていく。特に攘夷を主張する勢力は親王を頼りになる見方と思い、今大塔宮と呼ぶようになっている。大塔宮とは後醍醐天皇の皇子・護良親王のことである。建武の新政において征夷大将軍、兵部卿に任じられたが、足利尊氏との反目、父・後醍醐天皇との不和から建武元年(1334)皇位簒奪を企てたとされ、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られている。鎌倉将軍府にあった足利直義の監視下に置かれる。二階堂ガ谷の東光寺の土牢に幽閉されていた護良親王は、建武2年(1335)鎌倉に攻め入った北条時行軍に、直義は敗れ鎌倉から落ちていく。その際に親王が北条方に利用されるのを恐れ、直義は家臣の淵辺義博に親王の殺害を行わせている。
 養子ではあるものの仁孝天皇の皇子である朝彦親王が、幕府に立ち向かった護良親王に重ね合わされるのは理解できるが、その悲劇的な最期をどのように感じただろうか?また皇位簒奪を企てたされている護良親王と同じように、人々は危険な雰囲気を朝彦親王に感じたから今大塔宮と称したのかもしれない。いずれにしてもこの異名は後の親王にとって禍となっていく。

 鷹揚な性格の親王は、あまり危険を感じずに多くの有志者を近づけていた。梁川星巌、梅田雲濱、池内大学、頼三樹三郎.、橋本左内そして月照など、後の安政の大獄で捕われ、刑死あるいは獄死していく人々の多くが青蓮院に入説という形で出入りしていた。
 安政5年(1858)9月、老中間部詮勝が日米修好通商条約調印の説明を行うという名目で上洛する。同年8月8日、戊午の密勅が下賜され16日深夜には江戸水戸藩邸の徳川慶篤にもたらされている。これに対して幕府へは10日に禁裏付の大久保一翁を通じて伝えられているが、明らかに幕府の妨害を避けるために水戸への下賜の後に幕府へ通告している。朝廷の政治介入を破っただけでなく、幕府臣下へ勅旨が下さることは、幕府の権威を大いに貶める行為が行われたと大老の井伊直弼は捉えた。既に青蓮院の項でも触れたように、この戊午の密勅とそれ以前の7月5日に行われた水戸徳川斉昭・慶篤、尾張徳川慶恕そして松平春嶽による不時登城が安政の大獄の始まりとなった。表面的には関白・九条尚忠の地位を回復することで、朝廷政治における幕府の橋頭保の強化を目的としたが、幕権を貶めた朝廷の政治介入を排除するために戊午の密勅に関連した人物の捕縛。その上で最も幕府政権を安定させるための方策として、一橋派の一掃が朝廷と幕府内で行われた。 梁川星巌は親交のあった間部詮勝を大津で迎え、諌言するために漢詩25篇を作ったが、9月2日コレラにより病死している。また水戸藩に出入りし密勅降下に尽力した山本貞一郎も幕吏の捕縛が迫るのを感じ、8月29日に既に自殺している。大老から京の調略を任されていた長野主膳にとって、この2人の死亡は事件の経緯を明らかにする上で大きな障害となると感じ、関係者の一網打尽を急ぐこととなった。9月7日伏見奉行所の手により梅田雲濱、18日に水戸藩士 鵜飼吉左衛門・幸吉親子と土浦藩士で三条家家来 飯泉喜内、22日に鷹司家・一條家の家臣を始め頼三樹三郎、23日に鷹司家諸大夫の小林良典、27日に薩摩藩士の日下部伊三治が捕縛されている。成就院の僧・月照は9月11日に伏見を出て大坂に潜伏するが、11月15日に錦江湾で入水。福井藩士 橋本左内は10月22日に藩邸内での謹慎が命じられている。そして吉田松陰は12月26日に野山獄に投獄されている。水戸藩家老 安島帯刀と藩士 茅根伊予之介達は翌安政6年(1859)4月26日に評定所に出頭している。なお反逆の四天王の一人である池内大学は自首したため軽い処分で釈放されたが、文久3年(1863)岡田以蔵達に裏切り者とされ殺害されている。そしてひととおりの捕縛が終わった10月24日に老中間部詮勝が初めて参内している。既に9月17日に上洛してから1か月が経過している。志士ばかりでなく公卿の家の者まで捕縛されるようになり、御所内も動揺に襲われ、強硬な主張は影を潜めるようになってきた。大仏次郎の「天皇の世紀 二 大獄」(朝日新聞出版 2005年刊)では、下記のように記している。

     間部詮勝は、妙満寺に座っていて、当面の重要問題が一つ一つ、望むほうに解決されて行くのを見た。どれも先方の手料理であった。

 安政6年(1859)2月17日遂に堂上の処分が出た。

     慎    尊融法親王   青蓮院門跡
     慎十日  一条忠香    内大臣
     慎十日  二条斉敬    権大納言
     慎五日  久我建通    議奏・権大納言
     慎五日  広橋光成    武家伝奏・前棒大納言
     慎三十日 万里小路正房  前武家伝奏・前権大納言
     慎十日  正親町三条実愛 前議奏加勢・権中納言

 この後の4月22日に、戊午の密勅を下賜した四公の処分が出る。孝明天皇は四公の落飾を許さず、隠居慎みと辞官慎みを命ずることで解決したいとしたが、それも受け入れられなかった。

     落飾   鷹司政通    前関白
     落飾   近衛忠燕    前左大臣
     落飾   鷹司輔燕    前右大臣
     落飾   三条実萬    前内大臣

 さらに朝彦親王に対しては12月7日に、退隠 永蟄居が加えられている。理由は「青蓮院宮御事年来御身持不宜」と一乗院時代に仕えていた岡村左近の娘に女児を産ませた不行跡を取り上げている。

 朝彦親王墓で触れたように、蘇峰が著わした「維新回天史の一面」は、安政の大獄で処分される朝彦親王で終わっている。この後に続く八月十八日の政変や広島への流には全く触れていない。その緒言で
     本書は敢へて殿下の思召に依りてとは申さぬが、少くとも殿下の御希望を忖度して稿を起こしたものである。

としているにも関わらず、最も輝いていた時期の記述に及ぶ前に終わってしまったのは、明らかに親王以外の記述に紙数を使い果たしたためであろう。これでは殿下(邦彦親王)の願っていたことが果たせただろうか?兎も角、この457ページに亘る大著は次のような感動的な文章(親王亦魔手に罹る 因果応報)で締めくくられている。

     即ち朝彦親王の如きも、全くその魔の手に罹り給うたのである。若し親王が金枝玉葉の御身でなかったならば、その禍の及ぶ所は決してこれに止まらなかったであろう。併しながら天下の大勢極れば則ち変じ、変ずれば則ち通ずるで、安政七年即ち万延元年三月三日には、遂に桜田の事変を見るに至った。
     世に因果応報という事があるが、これ程迄に覿面なる因果応報を見たる者はあるまい。

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿